第5話 「自由」な村
そんな村で行方不明者がいなくなった中の一人の女性の親友で、宗像いちかという女性がいた。
いちかは、普段から、
「自分の性格は人とは違っている」
と思っていた。
もっとも、
「こんな閉鎖的な村にいるのだから、変わっていても不思議ではない」
と思うのだが、それは、
「他の村の人と比べて違っている」
という感覚ではない。
どちらかというと、そうではなく、変わっていると感じるのは、
「この村の人たちと比べて」
ということであった。
実際には、他の土地の人を知らないので、その人たちと変わっているかどうかの比較はできないが、ただ、
「この村が閉鎖的だ」
ということは分かっているだけでも、他の人とは違っていた。
というのも、
「他の人は、この村のこの考え方が普通だと思っているんだわ」
と考えていたからで、
「私は、おかしいんだ」
という考えを昔から持っていた。
だから、普段から、この村の人たちとは、どこか一線を画しているところがあったのだが、それも無理もないことだった。
いちかが、いつも一緒にいる人は限られていた。その人たちというのは、
「この村が何かおかしい」
ということを感じている人たちだったのだ。
「何がおかしいというのか?」
ということを、いちかは、ハッキリと分かっているわけではなかったが、分かっている人も中にはいただろう、
自分に寄ってくる人、あるいは、自分から、近づこうとする人は、皆、
「この村が他とは違う」
ということを分かっていて、だから寄ってきているということを実感しているくせに、そのことを話題にすると、
「その話はやめてくれ」
と言いだすのだ。
確かに、いちかもその話題を自分から出すというのは、嫌だった。
だからといって、
「避けては通れない道だ」
と感じていたのだ。
だから、聴きたいと思うのだが、それを聞こうとすると、
「やめようよ。こんな話題は」
といって、拒否られるのだった。
だから、どうしても、この話題に入るわけにはいかず、その人たちと一緒にいると、悶々としたイライラが募ってくるのが分かるのだ。
それでも、他に気心が知れた人がいるわけではない。
だから、彼女たちとつるむのだ。
ただ、つるむといっても、
「複数で集まる」
ということはしない。
それぞれ、一人ずつと付き合っているのであって、いちかが例えば、
「Aさんと付き合っているということを、Bさんは知っているのか?」
というようなことであった。
ただ、
「本当に知らないのか?」
ということまでは分からない。
それに、相手によって、それは違っているということだってあるだろう。
一緒だということをいかに考えるのかということであるが、そこまで、いちかは、相手の心を読むことができなかった。
「苦手だ」
というよりも、
「自分から、人とのかかわりについて、余計なことを考えたくない」
と思うのだ、
それを考えてしまうと、頭痛がしてきたりして、その頭痛のタネが、どこにあるのか分からない。
例えば、
「クーラーに長時間当たっていると、頭が痛くなる」
ということを、当たり前のように感じてはいるが、その理由は分からない。
一度はその理由について、
「何なのか?」
ということを考えたことがあるくせに、なぜか、考えるのをすぐにやめたのだった。
なぜ、すぐにやめたのかということを分かってもいないのだから、そのことが気になるはずなのに、いちかは、それ以上を考えない。
つかり、彼女は、
「気になることを一度は考える」
ということなのだろうが、その結論が出ているわけではないのに、
「なぜか考えることをやめてしまう」
というのだ。
考えることを辞めるというのは、まるで、
「最初から考えたという意識を自分の中で残したくない」
ということになる。
それはきっと、
「途中で分からなくなるくらいなら、考えたという事実すら、自分の中で、抹殺させたい」
と考えているからではないだろうか。
自分の中で、
「結論として理解できないことを考えてしまったのだ」
ということを、自分で恥だと思い、思ったことに対して、自己嫌悪に陥りたくないという思いを抱くのではないだろうか?
彼女の中で、
「自己否定」
ということが、一番の自分としての恐怖であり、そのことをまずは、自分で認めたくないという思いから、
「考えてしまったことをなかったことにしたい」
と考えてしまうのではないだろうか。
それを考えると、いちかという人は、
「少なくとも、他の村の、一般的な女性というわけではない」
と言えるのではないだろうか。
ただ、この村では、その
「一般的」
という考えは通用しない。
というのも、
「この村では、それぞれの人格を否定もしないし、かといって、完全な肯定もしない」
という。
基本的には、
「自由」
なのだが、
「それでは、統率ができない」
ということは分かり切っている。
だから、他の村、つまり一般的な考えとしては、
「一部の自由を削減する」
ということで、統制を保ち、
「制限された自由を、本当の自由だ」
と考えさせるということにするのであった。
ただ、この村においては、
「自由」
というものを、触ろうとはしない。
その代わり、
「洗脳」
ということを行って、統制のためには、
「自由を謳歌する」
という意識が残ったまま、この村にはこの村だけのルールを作り、それを精神的に支配して、自由を謳歌させようという考えにいたるのだ。
だからといって、
「絶対君主」
とまではいかない。
民衆は洗脳されている意識はないのだ。
「だったら、それは、ヒトラーのような、絶対的なカリスマ性を持った独裁者に支配されているのとどこが違うというのか?」
ということを考えている。
ただ、それがどういうことなのかというと、
「独裁者は、自分のカリスマをもって、それを自分の思い通りに操る」
ということであったが、この村にも確かに、
「カリスマ」
と言われる人がいて、その人が、ここまで導いてきた。
しかし、考えてみれば、
「独裁国家」
というものが、権力をずっと握り続けるというのは、難しいことであった。
強力な法律であったり、社会的に、抑えつけがなければ、ありえないことだ。
そういう意味では、
「他の土地と完全に一線を画している」
ということでいえば、
「独裁者の生誕」
という意味では、十分なのかも知れない。
しかし、そんな、
「独裁国家」
とは違っている。
村人は、その人のことを、
「自分たちの長だ」
という意識はあるのだが、
「独裁的な、カリスマをもった人物」
という意識はなかった。
あくまでも、
「民主的に選ばれた。自分たちの代表」
ということで、逆に、
「自分がその立場にいなうてよかった」
と思っているのだ。
それはまるで、小学校などで、
「面倒くさい、学級委員などをやらされている」
という感覚に似ているではないか。
つまり、
「学級委員など、やらされると、人をまとめるという意味ではいいのかも知れないが、その分、責任というものがのしかかり、何かあれば、責任を問われる」
ということに、普通なら、
「そんな立場にいたいとは思わない」
と感じるはずであった。
だから、皆、
「長にはなりたくないな」
と思っているのだ。
だが、これこそが、洗脳の第一歩だった。
まわりが、それを感じないような感覚になるということなわけで、
「これが、独裁であり、洗脳なのだ」
ということだ。
つまりは、
「洗脳も、独裁もレベルとしては似ているのだが、れっきとした別物だ」
ということになるのだった。
村人は皆、
「この洗脳か、独裁的な意識は、誰もが持っている」
ということになるのだが、その両方を持っているのが長であり、なぜかいつも、長は、
「一人だけ現れる」
ということになるのだった。
同じ時期に、長が二人存在すれば、それは、争いの下になる。
内乱ともいうべき、醜い派閥争いのようなものができてしまう。
ということになるのであって。その意識は、
「長になった者にしか分からない」
ということであった。
長というものをいかに考えるのかということが、この村の、
「掟」
のようなものであり、他の村と隔絶しても、やってこれた秘訣であった。
それにしても、この村で、昔から、
「内乱のようなものが、一度お起こったことがない」
というのは、すごいことだった。
「少なくとも聞いたことはないし、文献にも残っていない」
ということであったが、
「独裁者というものは、過去の都合の悪いということを、隠そうとするものだ」
というものであるから、分権が残っていないからといって、それをそのまま信じるというのは、危険なことであろう。
だが、入れ代わり立ち代わりの長がいたことは事実だった。
それも、言い伝えとして、自然に、長が入れ代わったというのだ。
基本的に次の長というのは、
「現在の長が決めるものだ」
ということであった。
ただ、これは、君主国の宿命でもあるのだが、全員が全員、
「次の長を決める」
という前に、病気などで、崩御してしまうということが往々にしてあった。
その時は、幕府でいえば、
「老中」
と呼ばれる、数名の人たちによって、合議の上、決められるということになる。
大体その老中というのは、5人が普通で、時代によっては、
「一人くらいの上下はあっても、かまわない」
と言われていた。
だから、この時代の老中というのも、六人だったのだ。
「こんな小さな村であっても、そこまでしなければ、自由というものが保てない」
ということで、この村は子供の頃の教育で、
「この村の自由や治安を維持していくのは、大変なことなのだ」
ということを教えられていたのだった。
だから、他の村が、
「自由を制限し、その中で、生まれる自由というものを、本当の自由だと思っている」
ということを、誰も知らないだろう。
この村からは、
「出ていくことは自由」
であるが、
「いったん出て行ってしまうと、再度戻ってくるということは許されない」
ということだった。
ただ、
「この村から出ていった人は、他の村では生きていけない」
という謂れがあったので、この村から出て行こうと考える人はいなかった。
だから、そのような規則のようなものは、すでに、
「有名無実」
ということになっていて、
「今では、出入り自由」
というところまで考えられていたようだ。
学校で教えることもなくなった。
それは、一種の、
「日本という国は、立憲君主の国から、民主主義へと生まれ変わられた、他の村と似ている」
ということであるが、
「ハッキリそうだ」
というわけではないのだ。
というのも、
「日本というのが、立憲君主から、民主化したのは、敗戦ということで、占領下にあったことでの、強制だった」
ということである。
しかし、この村においては、
「どこかに負けた」
などということはなく、
「時代の流れ」
ということで、募ってきたものだったのだ。
その時代の流れというのは、あくまでも他の土地の影響を受けたわけではなく、孤立した村ならではの流れというものがあり、その中で、必然的なこととして変革してきたことだといってもいいだろう。
そんな時代において、
「我々がどのような時代を生きてきたのか?」
ということが、他の土地とは、感覚的に違っているといえよう。
それは、
「時間の流れすら違っている」
というような、SFチックな考え方になっているといっても過言ではない。
この村でも、一般教養としての学問は、普通に習う。
その中で、物理学というものは、
「ひょっとすると、他の土地での教育よりも、発展しているかも知れない」
と思われていたので、向こうの世界では、
「難しくて、専門分野の学校にでも行った人にしか教えない」
ということであったが、ここでは、高校レベルで、しかも、
「一般常識の範囲」
ということで教えていた。
この村では、高校を出る頃には、大学レベルの教育がなされていると言われてきたのだが、だから、他の土地のように、
「高校生活は、三年」
ということではない。
他の土地では、しかも、
「大学受験のために、3年生を、そして、人によっては、2年生から棒に振る」
と言われている。
確かに、そうなると、
「高校生活は3年しかないのに、その半分近くは大学受験のために棒に振る」
というのは、可愛そうだ、
ということで、ここでは、
「高校を六年」
として、その間に、一般的な大学の知識を身に着けさせるということをしていた。
だが、高校を三年で卒業ということも許された。そこから、他の土地への大学受験も自由だったからだ。
そういう意味でも、少し前まで行っていた、
「鎖国政策」
のようなものが、まったくの有名無実であるということになるのであろう。
それをわかっているので、
「この村は、他の村とは、完全に異なるところである」
と言われるのだが、
「それを自由だ」
と考えるのかということは、結局、
「その人それぞれの感性」
なのである。
それを考えると、
「この村のいう自由というのは、本当に正しいものなのだろうか?」
ということは誰にも分からないし、分かる必要もないのだ。
それが、この村にとっては真実であり、事実なのだ。
事実と真実が絶えず一緒というわけではない、つまりは、
「事実の中にある真実がいかに内容を占めているかということで判断できるのは、その信憑性というだけのことであり、それを証明するにも、事実と真実が近いということを使うしかないのだ」
ということであった。
そんな中によって、
「自由というものを、いかに考えるか?」
ということを考えると、
「この村においての自由が、正義だ」
と考えているのは、幹部だけかも知れないが、それを洗脳する形になるというのは、幹部たちの、
「仕事」
ということであろう。
幹部の仕事というと、それだけではなく、
「まわりの村との隔絶」
というものも、一緒に考えないといけない。
さらに、
「血の交わり」
というものを、この村では、非常に意識をする。
「他の村の人間と結婚」
というものを許さないわけではないが。そのかわり、結婚すれば、
「村を出なければいけない」
ということを言われていたのだ。
それだけ厳しいともいえるが、本人の意思に任されているということで、それほど、厳しいということではないのだ。
村を出た人のほとんどは、この結婚問題だった。
それ以外では、
「商売をしよう」
として、他の土地に行くということは、
「この村のモノを持ち出されてはこまる」
ということであろう。
農産物を持ち出されると、農産物の、秘訣を知ることで、十分、商売になあると踏んでいるのだろう。
「村では、それを許さない」
何といっても、そんなことをすることで、村の治安が乱れるのは分かっていることだった。
特に商売ということで金が絡んでくると、ロクなことはない。下手をすれば、殺し合いにならないとも限らないと、大げさかも知れないが、考えられているようだった。
この村は、あくまでも、
「自由な村」
ということであるが、その自由をはき違えてしまっている人も、時代が進めば、少しずつでも出てくるということになるだろう。
それを考えると、
「村というものがどういうものなのか?」
ということ、そして、その中での治安を、どうやって守るかということの問題が、大きく立ちふさがってくるものだといえるだろう。
この村においての、自由というのは、
「事実と真実というものを、なるべく、同じ部分を多くする」
ということに終始するといえるのではないだろうあ?
そのことを考えると。
「この村の正義は、どこにあるのだろう?」
と考え、
「正義が、真実、事実というものに、いかに重なってくるかということが、この村の存在意義といってもいいのではないか?」
という、大げさなことを考えるに至るのだった。
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