第2話 不可思議な村

 そんな時代背景において、時代は流れても、この街はある程度相変わらずのところがあった。もちろん、世の中は発展しているので、昔のままというわけにはいかない。

 戦後か見ても、建物は、木造から鉄琴コンクリートになり、戦争のために減ってしまった人口を、

「産めや増やせや」

 ということで、労働人口確保のために、ベビーブームがあったりしたことで、今度は、平屋だけでは、先ゆかなくなり、団地から、さらにアパート、そして、マンションと、住まいも様変わりしてくるではないか。

 それを思うと、

「戦後あらこっち、世間はかなり変わった」

 といってもいい。

 トイレも、水洗トイレ化が、自治体の事業として進み、あっという間に、水洗化され、今では、和式トイレなど、ほとんど見なくなった。

 インフラにしてもそうだ。

 自動券売機から、さらには、自動改札となり、昔の駅員がいて、

「切符に挟みを入れる」

 などという光景は、まず見なくなった。

 今では、カードを使って、お金をチャージしておけば、切符を買わずに、目的地まで行けるようになった。

 切符に使う紙も節約できるし、何よりも、おつりを券売機に入れておく必要もなくなる。何しろ、チャージはお札からなので、小銭を持ち歩く必要もないのだ。

 そういう意味では、買い物もカードやスマホで行えば、小銭もいらない。それを思うと、本当に今の時代は便利になったものだ。

 高速道路も、カードを持っているだけで、ゲートの前に徐行すれば、判断してくれて、とまったり、料金を払うことはないので、スムーズに進むことができて、渋滞もなくなるのであった。

 それを思うと、

「世の中、本当に便利になったものだ」

 と言えるだろう。

 これくらいのことは、街としては、当然できるようにならなければいけない。この街においても、もちろん、街中ではその通りなのだが、ある地域だけは、まだまあ昔のものが残っていたりする。

 この街は、海にも面していて、裏には山がそびえているのは、前述のとおりであるが、その聳えている山の向こうに、

「あまり人が立ち入らない」

 という場所がある。

 そこは、周囲を森に囲まれているようなところで、敢えて、ここでは、

「集落」

 という呼び方をするが、それは、その界隈には、以前から、何かと怖いウワサが立っていたのだ。

 怖いというのは、都市伝説であったり、恐怖心をあおるような話であった。

 もっとも、その根拠になるのが、集落の前に建っている、神社のせいなのかも知れない。

 その神社は、昔であれば、本当は、前に街が広がっていて、裏の山に神社があるというのが本当なのだろうが、昔から、神社の前には、集落のようなものがなかったという。

 これからがウワサを域を出ないのだが、

「神社の前に集落ができると、必ず良くないことが起こり、すたれていく」

 というものであった。

 その話は、まるで、

「座敷わらし」

 のような話だった。

 その集落は、最初こそ、網本や地主がいて、田畑からは、豊作が毎年出来上がることで、地主は栄え、村も、潤っていて、比較的、

「裕福な村」

 ということであったのだが、なぜか、いきなり没落するのだった。

 それは、まるで、一日にして崩壊してしまったという、

「伝説の大陸」

 のようであった。

 しかし、この村の最初の地主は、実に一代では、栄華を誇り、

「これが、他の村で虐げられた農民と同じなのだろうか?」

 というほど、土地は、富んでいたのだった。

 だが、ある日、他の村の連中が画策し、この村の人たちを襲い、斬殺することで、強引に村を奪ってしまった。

 元々、この村の住人は、攻撃的ではなく、自分たちの幸福は、

「まわりの人たちの幸福である」

 と言わんばかりの、ありがたい考えをもった村だった。

 だから、豊作で、素晴らしい村だったのに、他の村の虐げられている人からすれば、実に目障りで、

「この土地を手に入れたい」

 と考えたことだろう。

 そう思うことで、いきなり襲ってきた近隣の村の人に対して、ひとたまりもなかった。

 残酷なことに、村人は、女子供すべてにおいて、皆殺しにあった。

「先に禍根を残さない」

 というのが、当たり前だったので、農民もそれくらいのことは分かっていたのだろう。

 武士の世界で、

「下手に生かしておくと、生き残ったものが、仇として、自分たちを襲ってこないとも限らない」

 ということである。

 歴史を勉強していれば分かるのだが、

「源頼朝を殺さずにいたために、平家一門を滅亡する羽目になった、平清盛の話」

 と同様である。

「情けというものを掛けてしまうと、自分たちの滅亡を招くことになる」

 ということで、戦のあとには、

「皆殺し」

 というのが当たり前のようになっていた。

 だから、

「信長が、よく行った皆殺し」

 も致し方ないことであり、

「なぜか、皆殺しというのが、信長だけのことのように思われるのは、それだけ、信長を悪者にすることで、得をする人がいるということであろう」

 ということである。

「確かに、その後の天下人は、信長ほどではない」

 と言われているようだが、秀吉は、皆殺しや、むやみな切腹命令をいくつも出したりしているではないか。

 家康三しても、

「徳川家の安泰」

 だけを考えて、豊臣家を滅亡させるということに舵を切ったではないか、

 そこには、紆余曲折があっただろうが、結果、その通りにしたのだから、

「情け容赦がなかった」

 といっても仕方がないのだった。

 それが、武士の世界のことで、その後の明治維新後の軍部も、やはりその考えを踏襲していた。

 敗戦ということになり、

「軍の解体」

 ということで、日本は、

「平和憲法」

 というものをもった国に生まれ変わり、それまでの、

「立憲君主」

 だったものが、

「押しつけの民主主義」

 の国に代わり、今のところ、70数年という長きにわたり、

「戦争のない、平和国家」

 として、世界に君臨しているといっても過言ではない。

 しかし。この村は、そんな日本の歴史とは、あまり関係がなかった。

 最初の村が、心無い連中の妬みに遭い、村全体が、滅亡させられ、そこに、滅ぼした連中が入ってきて、村にあったものを使って、生活を始めたのだ。

 完全に、強盗をした連中がそこに居座る形になったのだ。

 事情を知っている人であれば、

「なんて理不尽な」

 と思うことであろう。

 だが、

「神様というのはいるのかも知れない」

 と思えるような状況が起こった。

 村を滅ぼした連中に首謀者が、次々に、死を迎えたのである。

 いつの間にか、行き倒れていたという人がいたり、それまでは、まったく快晴だった空が暗転してしまい、突然の雷に打たれて、死んでしまったりである。

 雷が落ちたその後は、何事もなかったかのように、雲が晴れてきて、

「まるで、雷を発生させる目的だけのために、暗転したのではないか?」

 と思わせるほどだった。

「これは祟りだ」

 と思うのは当たり前のことで、

「まるで、菅原道真公や、平将門港の怨念のようではないか」

 ということで、裏の祠を神社に建て替えて、

「鎮守目的」

 ということで、人波を作った。

 それが、この村の鎮守として今も残っているのだ。

 その場所を、

「怖いところだ」

 ということになったのは、まだ少し後で、

「神社を作ったのだから、これで、安心だろう」

 と、本当に安心だと感じたのか、まだ、この村にとどまっていた。

 しかし、時代は、群雄割拠の戦国時代に突入すると、一気にこの村は襲われて、皆殺しの憂き目にあったのだ。

 ただ、そこを戦国大名は手に入れようとは思わなかった。

 というのも、その当時まで、村は不作が続いていて、そんな土地を持っていても、

「禍根になるだけだ」

 ということで、ここは、空き地のようになっていた。

 戦国時代から、織豊時代に入り、

「太閤検地」

 というものが行われると、この村にも。

「誰かが赴任する」

 ということになる。

 しかし、一向に作物は取れない。

 そうなると、ここに百姓を置くわけにもいかなくなり、

「家臣の訓練用の土地として使おう」

 ということになった。

 その守り神として、鎮守を祀ったのだが、そこで訓練をした武士は、活躍するようになり、江戸時代までは、そういう村になったのだ。

 その村が平和になってくると、今度はそのうちに、豊臣が滅びたことで、徳川時代となった。

 その時、家康は、

「元和堰武」

 ということで、

「全国に対して、平和宣言」

 つまり、

「戦国の世の終焉」

 と言い渡し、徳川家の天下を知らしめたのだ。

 徳川家の安泰を完全なものにするために、家康以降の将軍は、事あるごとに、因縁を吹っ掛ける形で、

「諸大名の改易」

 を行った。

 それは、家康からの重鎮と呼ばれていた人、さらには、将軍家の肉親であろうが、容赦はしない。

 ということになったのだった。

 そして、幕府の独裁政治は、完全に抑えつけの政治であり、

「士農工商」

 などの身分制度、

 さらには、

「農民は、生かさず殺さず」

 と言ったような、

「あからさまな締め付け」

 があったのだった。

 そんな時代は、確かに戦はなかったが、一揆などはあった。

 しかし、幕府によって、必ずといっていいほどの鎮圧を受けていて、農民も、むやみに逆らえなくなった。

 それでも、

「戦のない平和な時代だった」

 といってもいいだろう。

 そういう意味で、今の時代と似ているではないか。

 平和ではあるが、権力者というものが、庶民に目も向けないことになっているのは、今も昔も同じだった。

 今は民主主義だから、あからさまに鎮圧や、迫害はできないが、しかし、やっていることは、

「国民のため」

 などではなく、

「自分たちの私利私欲のため」

 国民の税金で生活をしているくせに、自分勝手なことをして、挙句の果てに、

「自分の命は自分で守れ」

 というのだから、ひどいものである。

 神社の前の集落は、江戸時代になれば、争いや侵略はなかった。

 そもそも、この土地は、ずっと不作続きなのだから、

「こんなところを手に入れてどうする」

 というのであった。

 結局、そこを農地として利用できないので、

「住宅として利用する」

 というだけだった、

 農地は少し離れたところにあり、そこでは比較的毎年豊作だったので、幕府からも、代官からも睨まれない、安定した時代を過ごしたのだ。

 だから、彼らにとって、

「明治維新というのは、迷惑なものだった」

 といってもいいだろう。

 それまで、平和に暮らしてきて、目立たないように生きてこれたのが、この村の一番の利点だったのだが、明治維新によって、そうも言っていられなくなった。

 政府軍によって、蹂躙されることになったのだが、政府軍の役人がやってきて、この土地を支配しようとすると、またしても、

「奇怪な死」

 を遂げた。

 そこで、政府がこの土地の歴史を調べると、

「この土地が昔から謂れのあるところである」

 ということに気付き、

「あそこには手を出してはいけない」

 ということを語り継ぐようになったのだ。

 そのおかげで、ここまえ、

「ずっと、他の土地と関係なく、この村独自の発展があった」

 といってもいい。

 しかし、昭和の後半に入って、水洗便所かであったりという、

「衛生面などでの発展」

 ということに対しては、この土地の人も賛成で、

「祟りがあったら、怖いな」

 と思っていたが、さすがにこの時代になると、神通力が通用しないのか、それとも、それ以外は、あくまでも独立を守っているということなのか、

「平和な村」

 だったのだ。

 そんな村だったが、ある時期になって、

「平和を脅かす」

 という出来事があった。

 それが、昭和の末期にあった、

「バブル時代」

 というものであった。

 その時代になると、

「土地を持っていて、そこを売りに出すことで、利益が生まれる」

 という、

「土地を商品にして、横流しをする」

 という、今でいう、

「土地運用」

 になるのだろうが、その頃は、

「土地ころがし」

 という時代があったのだ。

 インフラ整備であったり、立ち退きなどを必要とする時代だったので、国家ぐるみで、少々強引なことも平気でやってきていたのだ。

 それをいうのも、

「やくざまがいのやり口で、脅しを掛けたり、買収の金額を操作したりしている商売だったのだ」

 というのも、

「バブル経済」

 というのが、そもそも、

「泡のようなもの」

 であり、誰もその実態に気付かなかったのだろう。

 というのも、

「事業を拡大するだけで、儲かる」

 という時代であり、本来なら、

「一番堅い商売」

 というものをするはずの銀行が、

「過剰融資」

 という、ちょっと考えれば、恐ろしいことになるということが分かっていなかったのか?

 ということである。

 本来なら分かったのだろうが、

「このバブル経済がなくなることはない」

 という発想だったのではないだろうか。

 それを考えると、

「この時代は、何をやっても、やればやるほど儲かる」

 というのが、神話にように、語り継がれているのだろう。

 しかし、その神話というのは、

「都市伝説」

 でしかなかったのだ。

「過剰融資」

 というものが、一歩間違えれば、

「不良債権」

 になってしまう。

 ということがどうして分からないのか?

 それだけ、

「感覚がマヒしてしまっている」

 ということと。

「銀行は潰れ合い」

 という、それこそ、

「都市伝説」

 を真剣に信じていたからだろう。

 信じるには、それなりに信憑性がないといけないが、バブルという見えない存在が、そんな信憑性すら、感覚をマヒさせるものに変えてしまったのかも知れない。

 それを思うと、

「これからの時代は、何が起こっても不思議ではない」

 と言われ、まさにその時代に突入したのである。

「終わるなど信じられない」

 というバブル経済が、一気に崩壊したのである。

「何がどうしてこうなったのか?」

 誰が分かるというのだろう。

 学者ですら、誰もそんなことを言わなかったのだ。それを思うと、バブル経済こそ、

「本当の泡だった」

 ということになるのだろう。

 そんなバブルの時代に、

「あの村は、幻の村だ」

 などと言われた時期があった。

 当時は、何でもかんでも話題にすれば、盛り上がるということで、今でいう、

「パワースポット」

 というべきか、あるいは、

「霊界スポット」

 とでもいうべきか、そういう意味で、密かに、そういう、

「ヲタク」

 のような連中が、やってきていたのだ。

 この村は、そもそも、ひっそりとした、

「自給自足」

 というのを信条にしているような村なので、観光客などは、最初からいらないのだ。

 だから、宿もない。

 民宿のようなものであったり、昔でいえば、ユースホステルのようなものは、あったことがあったが、その連中の、

「悪ふざけ」

 が多かったということで、当局に連絡を入れ、さっそく、撤退してもらうことになった。

 ユースホステルのようなところは、基本、地域住民に、迷惑をかけるということはタブーだということもあって、そういう通報があれば、即座に撤退ということが多くなるのだ。

 それを考えると、あの時の措置は当然のことであり、他にも民宿的なことをやっていたところも、即座に民宿を畳んだのだ。

 元々、金儲けなど関係のないところで、金はたくさんある人が多かったのだ。

「バブル経済」

 というものに浮かれて、せっかく溜まっていた金を、

「全財産、なくなった」

 ということで、破産宣告が後を絶たない都会の連中を、この村の人たちは、さぞかし、冷めた目で見ていたことだろう。

「俺たちは、あんな連中とは違うんだ」

 と、都会の連中が、浮かれて、羽目を外している連中というのは、しょせn、自分で稼いだ金ではないのだ。

 若い連中は、親の金だったり、ちょっとしたアルバイト感覚でやったことが、思ったよりも金になるので、そのバイトをしていると、かなりの、

「あぶく銭」

 が手に入ることになる。

 そうなると、金銭感覚もマヒしてきて、

「まわりに気を使わなくとも、金に困らない」

 ということになれば、少々羽目を外すことくらいは当たり前のことで、それが結果として、まわりのひんしゅくを買い、孤立しているということにすら気づかないということになるのだ。

 そうなってしまうと、

「俺が何をしたんだ」

 という、自分がやったことを何も分からないということになり、

「まわりが、俺を苛めている」

 という、極度の被害妄想になる。

 それも、

「自業自得」

 の被害妄想であり。そうなってしまうと、誰も助けてはくれない。

 それどころか、

「まわり全体が敵」

 ということになっていて、自分が妄想している範囲にとどまらない妄想が、現実になってしまうのだった。

 ただ、これは、あくまでも、

「自業自得」

 自分が悪いのだ。

 それを人のせいにしていいものかどうか?

 という判断もその人にはないのだ。

 そういう人がどんどん増えてくるということになると、まるで、バブル経済と同じではないかということになるのだ。

 バブル経済は、

「実体のない、泡のようなもので、弾けてしまうと、そこにあったはずの利益は、すべてなくなり、元本すら消えてなくなってしまうので、現実に残るのは、莫大な借金だけである。

 だから、バブルのように、自分が見えずにやったことは、

「人との信頼関係」

 あるいは、そこから生まれる、

「利益」

 そんなプラス思考のものは、すべてがなくなってしまうのだった。

 そして残ったのは、その人への誹謗中傷(自業自得)であり、失墜した信頼が、恨みに変わってしまったりしたことである。

 そして、莫大な借金のかわりに、四面楚歌に陥って、利益どころか、一生拭い去れない重荷を背負うことになるだろう。

 その重荷は人によって違うものであり、

「借金と同等の、いや、それ以上を、未来に禍根として残すことになる」

 というものである。

 借金は、働いて、お金を稼げば返すこともできる。

 才能があれば、一攫千金だってできなくもない。

 しかし、人の信頼を失って、それを自分が失墜させたものであり、しかも、その事実を自分で分かっていない人には、浮かび上がることなどできないだろう。

 人の信頼とはそれほど深いものであり、

「いくらお金があったとしても、それを取り戻すことは、お金ではできないということなのだ」

 それを分かっている人は、まずいない。

 一度消えてしまうと、

「別人として生まれ変わらなければ、どんなに、聖人君子になろうとも、一度ついた汚名を盤かいすることは不可能だ」

 といえる、

 歴史上の人物でもそうではないか。

「歴史研究や発掘などの資料が見つかって、やっと、今まで信じられていたことが間違いだった」

 ということが分かるのだ。

 それは、人の寿命などよりもはるかに長いもので、10倍ということだって普通にあるのだ。

 それを思えば、少々のことで、一度ついた汚名を、生きている間に挽回しようなどというのは無理だということであおる。

 そう思えば、

「今の時代、皆人に対して疑心暗鬼になって。人間不信となっている」

 というこの時代。

 しかも、その疑心暗鬼や人間不信のために、精神が病んでしまって、その人に対して、信頼どころか、一歩間違えば、

「殺意が芽生える」

 という時代になっているのではないだろうか?

 まだ、バブル崩壊の時代は、その入り口くらいで、学校などで、

「いじめ問題」

 であったり、会社などでの、

「パワハラ」

 などというものが、バブル時代に変わらずに息づいていたのだ。

 そんな誰もが不安な時代、

「弱者」

 が苛めを受け、そして、そんな時代をまだ、

「バブル期」

 と同じ立場による苛めが横行することで、弱者は、

「引きこもり」

 となり、大きな社会問題になった。

 それを、当然のことながら、政府はどうすることもできない。

「やっていますアピール」

 だけは、どの時代の専売特許のようで、

「どうせできもしないくせに」

 という時代が今の時代となっているのだろう。

 そう思うと、

「結局は、自分のことは自分で守るしかないのか?」

 という、政府の最後通牒というものになるのだろう。

 通例では、

「最後通牒や、海上封鎖というのは、宣戦布告と同等だ」

 と言われていて、国際法に遵守するかどうかというのは、難しいところであろう。

 しかし、国際法というものに遵守しなくとも、今は結構通例で行われることも多く、ある程度まで考えられていれば、認められるというものだ。

 そのために、国連があるのだし、狭義の上決まれば、それに従うということもできるだろう。

 ただ、バブル時代に。どのような問題が起こるかということを考えれば、バブルがはじけることも分かっていそうなものだ。

 まさか、

「あの時代には、お花畑以外にいる人がいなかった」

 というわけでもあるまい。

 お花畑というものがどういうものなのか?

 確かに、日本は、戦後バブル経済を迎えるまで、

「戦後40年くらいが経っていた」

 のだろう。

 その間、戦争を経験した人は、すでに、社会の第一戦を退き、定年退職後の生活を営んでいた。

 そういえば、昭和の終わりことであったか、そういう

「定年退職後の老人を狙った詐欺事件」

 というものが起こったのを、記憶している人も少なくないだろう。

 そう、

「社長が殺されるところを放送された」

 という、放送事故ともいえる、ショッキングな出来事だった。

 確かに、

「世の中には、死んでもいい人間などいない」

 と言われているかも知れないが、

「この社長のせいで、何人の人が失望し、中には自殺を試みた人もいるかも知れない」

 しかも、それは、老人だけではなく、次世代にまで及んでしまい、家族全員が、無理心中などというめちゃくちゃなこともあったかも知れない。

 それを思うと、

「俺が生きていた時代は、本当はもっといい時代だったのかも知れない」

 と、草葉の陰から、この世を見ているかも知れない。

 それを考えると、

「この世というのは、本当に儚い」

 と言わざるを得ないだろう。

 人の死というものを軽んじていたのは、その社長の方であり、世間の大多数は、

「あんなやつ、死んで当然だ」

 と思っている人もいるだろう。

 ただ、中には、

「あんな形ではなく、法廷に引き釣り出して、法律で裁かれるべきだ」

 といっている人もいるかも知れない。

 しかし、それは甘い考えだ。

 確かに、法律で裁かれるべきなのだろうが、今の司法は、

「被害者に対して、辛い」

 と言われている。

 極刑にするかどうかは難しいところだが、死刑にするかどうかというよりも、その人の罪の深さを思い知らせるというのが、社会的にも必要だろう。

 もし、この社長の考えとして、

「老人はどうせ、老い先短い命なんだから、金や希望がなくてもいい」

 などと思っているとすれば、とんでもない間違いだ。

「もし、尾苗が年を取って同じ目に遭った場合に、同じことが言えるのか?」

 という、

「普通の人間であれば、誰にでも分かること」

 というものが分からないということになり、どう考えるのかということになる。

 この社長の罪は、確かに、

「死罪に値する」

 といってもいいだろう。

 これが、今の世の中の出来事であり、

「今年の出来事の中で、一番ひどかったのは、確かにその年はその事件だった」

 といってもいい。

 しかし、その後、今に至るサイバー詐欺にいたるまでの、原形を作ったという意味で、今の時代でも許されることではない。

 今に至るまで、

「人類史上でも、有数の、極悪犯罪の一つだ」

 といってもいいだろう。

 今までにも極悪犯罪はたくさんあった。

「青酸カリを飲ませて金品を店から盗む」

 という事件。

 さらには、

「未成年が、児童を殺し、バラバラにした」

 という事件もあった。

 さらには、数十年も女性を性欲目的のために、監禁したという事件もある。

 もっとひどいのは、

「企業を脅迫するために、スーパーの食品に、無差別に青酸カリを投入した」

 という事件もあったくらいだ。

 そんな極悪な犯罪に、

「負けずとも劣らず」

 というこの事件は、本当にひどいの一言では片付けられないものだったに違いない。

 さらに、今回において、もっと恐ろしいのは、

「人間の信頼を利用した」

 というところである。

 老人になると、どうしても寂しくなり、若い人から優しくされれば、

「まるで息子のようだ」

 ということで信頼してしまう。

 女性社員などは、

「さらに、色仕掛け」

 ということもあった。

 老人だといっても、行為はできないまでも、若い女性に優しくされれば、感情移入はハンパないだろう。

 身体を洗ってくれたり、下の世話までしてくれるのであれば、それは完全に、信用してしまうだろう。

 それを考えると、

「老人の寂しさ、優しさに付け込んでのこと」

 であり、

 さらに問題なのは、そんな老人は、

「本当に一人ではない」

 という可能性がある。

 つまりは、息子夫婦がいたりしても、遠隔地だったりして、なかなか世話もしてもらえない。

 そんな状態で、

「息子たちの人生があるのだから、私の老い先短い人生を壊してはいけない」

 と思っているので、息子たちもそれに甘えるだろう。そして、遺産だけもらおうという根性であれば、

「詐欺が入り込むには、十分」

 ということで、詐欺グループもそんな家庭環境をしっかり調べてのことに違いない

 そうなると、老人もコロッと騙されるし、息子夫婦も、

「これはありがたい」

 ということで、まったく犯罪に気付くことはない。

 気づくと、息子夫婦も、

「自分たちが貰うはずの遺産を、詐欺グループに持って行かれる」

 ということになるのだ。

 それは、完全に、老人が、遺言を書き換えるなどということがあるからで、

「詐欺グループはそこまで信頼されている」

 ということで、これも、

「非常に恐ろしい社会問題だ」

 ということになるのだった。

 そんな恐ろしい事件があったことで、老人も気を付けるようになったはずなのに、最近のサイバー詐欺は、また老人を狙ったものが多くなった。

「オレオレ詐欺」

「振り込め詐欺」

 などというのが、その代表例で、それだけ、

「老人相手であれば、騙しやすい」

 ということを、証明したということでも、昭和末期の詐欺事件は、罪が深いといってもいいだろう。

「あの社長も、許せない存在だが、何もあそこで殺されなくとも」

 という人もいたが、

「それはあくまでも、他人事だと思っている人で、実際には、そういうことはないだろう」

 と言われる。

 家族やまわりに被害にあった人はもちろん、捜査に当たった警察官というものも、その気持ちになることは普通にあるのではないだろうか?

 そんなことを考えると、

「やはり、あそこで殺されたのは、運命だったんだ」

 といってもいいだろう。

「殺されるべくして殺された」

 と考える人も多く、アンケートを取れば、

「殺されて当然という人がほとんどだった」

 と言えるだろう。

 ただ、そんな質問ができるわけもなく、

「質問ができていれば」

 というだけのものだったのだ。

「あの時の犯人はどうなったんだろう?」

 と思えるが、そもそも、

「あの人は何だったのか?」

 ということすら、ほとんど忘れている人も多いだろう。

 世間というものはそういうもので、

「気がつけば、忘れていた」

 あるいは。

「こんなこともあったな」

 と後になって思い出すことが多いだろう。

 確かに、

「放送事故のようなものを引き起こした」

 あるいは、

「社会問題的に大きな問題に首を突っ込んで、法律で裁かれる人間を、私恨によって、殺してしまった」

 ということを考えると、その罪が少なからず重いということも分かるというものだ。

「私恨を許してしまうと、法治国家としての、司法の立場はなくなってしまうといってもいいだろう」

 ということになる。

 もちろん、だからといって、世間の反応が、

「殺されても仕方がない」

 という相手なので、

「極刑」

 なということは、許されないだろう。

 そう思うと、

「判決も難しい」

 ということになる。

 確かあの頃はまだ、裁判員裁判だったかどうか分からないが、あれから判決が出るまでに、どれくらいの期間が掛かったのかが分からないので、裁判員がいたかどうかは、微妙なところである。

 そうなると、

「判決というものをいかに考えるか?」

 ということは、

「裁判官だけで、市民の意見は反映されない」

 ということであり、これがいかに影響するかというのは、興味深いところであった。

「実際に判決がどうだったのか?」

 ということを知りたいものである。

 この村に、以前、詐欺師のようなやつが来たことがあった。

 きっと、この村が、

「平均年齢が高い」

 ということを、住民台帳か何かを調べ、やってきたのだろう。

 役所をハッキングするくらいのことは、最近の詐欺団体では、当たり前のことだからである。

 そして、

「年寄りだったら、他で使いつくされたような手口でも、簡単に引っかかるだろう」

 ということで、いわゆる、

「オレオレ詐欺」

 をやった団体があった。

「おばあちゃん、俺会社でミスをやって、どうしても、100万いるんだよ」

 といって、いきなり、老人の家に電話を入れる。

 そのおばあさんが一人でいることも分かっていて、そして、さらには、

「最近のやり口」

 として、本人は、公衆電話から掛けてきていて、こういうのだ。

「俺、今ケイタイが壊れているので、この電話で指示する」

 というのだ。

 これは、実はうまい方法なのである。

 というのは、もし、相手が、オレオレ詐欺を疑っても、

「ケイタイが壊れている」

 といえば、

「折り返して掛けてくることはないだろう」

 というやり口である。

 相手が普通に老人なら、その言葉をまともに信じて、それ以上に、

「孫を助けなければ:

 ということで、

「そっちに神経が集中して、疑うことをやめるに違いない」

 という考えである。

 つまりは、

「それだけ、老人を甘く見ている」

 ということである。

 しかし、ここの老人は、今まで自分たちだけで生きてきたのだ。世間の荒波も分かっているつもりである。

 ニュースだってしっかり見ていると、

「このような手口が流行っている」

 ということも、熟知しているのだ。

 だから、ここの住民を、

「老人しかいないから、簡単に騙せるだろう?」

 というのは、甘い考えで、逆に、

「飛んで火にいる夏の虫」

 ということだ。

 すぐに警察に連絡が入り、騙されたふりをして振り込みにいくのを、確認しようなどとすると、相手も安心しきっているので、簡単に検挙されてしまうということだ。

 もちろん、

「ケイタイが壊れている」

 などというのはウソだということが分かっているので、電話を入れると、

「俺、そんな電話しないよ」

 ということが分かり、

「これは間違いない」

 ということで、老人は、警察に通報するのだ。

 こうなれば、詐欺は瓦解してしまっているといってもいいだろう。

 相手は、完全に、

「蜘蛛の巣に引っかかった蝶々の状態で、食われるのを待つばかりだった」

 しかし、これも、下手をすると、グループにとっては、

「トカゲの9尻尾切り」

 ということで、

「失敗したやつはいらない」

 ということで、

「自分たちに害が及ばなければそれでいい」

 ということなのだろう。


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