2.ありふれた終末

 この世界が滅亡する。あまりのことに美空が呆けていると、どこからかピピピ、というアラームが響く。それと同時に小さなホログラムのウィンドウが現れた。


「タイミングが悪くてすみません。定時連絡の時間になってしまって」


「あ、そう、か。それじゃあ私は部屋に……」


「いえ、美空さんもここにいてください。お話があるそうです」


 そうは言うが、美空は困惑しきりだった。

 リンネは眼の前に浮かぶ小さなウィンドウの一箇所をタップする。

 その途端、図書館の中空にウィンドウと同じくホログラムでできた巨大なスクリーンが現れた。黒い画面。中央に地球をかたどったマークと『UNCHES』の文字。数秒置いて、表示が切り替わる。そこには壮年の女性と、その後ろに二人の少女が映っていた。痩身にグレーヘアの壮年の女性が口を開く。


「おはようございます。リンネ」


 きびきびとした感じで言葉を放つ。鋭い眼光がこちらを見ている。


「おはようございます。ヘイマン博士」


(博士?)


「まずはいつも通り報告を」


「はい」


 リンネは手元にいくつかのウィンドウを開き、それとスクリーンに映る女性を交互に見ながら、図書館の業務について報告をする。プロジェクト進捗阻害要因なし。天球稼働問題なし。コードアレイに改修の必要あり。書架の保全問題なし。美空の知らない言葉がすらすらと並べられる。最後の部分だけは何とか理解ができた。


「了解しました。MNDLエンジニアに依頼を出しておきます。現状のダイブに問題が?」


「ありません。改修提案は効率向上が目的です」


「わかりました。そのように伝えます。追って詳細なオーダーを送ってください」


「了解です」


「それで……」


 博士と呼ばれた女性が美空のほうに視線を向けた。猛禽類を思わせる厳しい顔と視線。美空はごくりとつばを飲み込んだ。


「そちらが基底現実からの漂流者ですか?」


「はい。予備スキャンもしましたが、間違いありません」


「なるほど。そちらの方、お名前を伺えますか?」


 ヘイマン博士と二人の少女が美空に注目している。美空の緊張と困惑は最高潮だった。


「え、えっと、綾川、美空、です」


 ひどくぎこちない調子になってしまったが、答えられた。


「ふむ。ミス……アヤカワ、ですね。私はUNCHESアンチェスアメリカ第5支部所属主席研究員、リサ・ヘイマンです。どうぞよろしく」


「は、はい。よろしくお願いいたします……」


「美空さん、そんなに緊張しなくても大丈夫です。要件は状況説明だそうですから」


 リンネが体を寄せて小さな声で言う。その声で美空の緊張は少し緩んだ。


「リンネ、前提知識は伝わっていますか?」


「多層世界論の概要、基底現実と複層現実、現実強度、以上はすでにお伝えしました」


「シナリオEについては?」


「丁度お伝えし始めたところです」


「結構。では私が引き継ぎましょう。まずは我々について」


 スクリーンに映っていたカメラ映像が右下の隅に縮小され、画面の中央には最初に表示されていた地球のマークと文字列が再び現れた。


「我々は『国連人間環境保障委員会』、頭文字を取ってUNCHESアンチェスといいます。シナリオE、すなわち来る宇宙の滅亡に対抗するため結成されました」


 国連。そしてリンネが言いかけた宇宙の滅亡、それに対抗するための組織。開示されたたったこれだけの情報だけで、美空の脳は簡単に混乱した。


「この宇宙はエントロピーの極大化により、人類スケールの時間、推定であと50年以内に熱力学的な死を迎えます。ミス・アヤカワ。あなたのいるその場所――疑似現実生成ターミナル――通称『図書館』は、宇宙を新生させるための装置なのです」


 あと50年で宇宙が滅びる?宇宙を新生させる?美空の理解を遥かに超えた話が展開される。


「リンネ、プロジェクトについては?」


「いえ、まだです」


「わかりました。それも私が説明しましょう」


 スクリーンの表示が変わる。ピクトグラムと英語が並んでいる。概念図のようだ。


(プロジェクト……コレオ、グラフィー?)


「人類のあらゆる情報を収集し、図書館に集約する。それによって仮想の人類社会、すなわち擬似的な現実を構築。そして『類感』の原理を用いて宇宙と接続し、人間原理によって新しい現実で上書きする。これがUNCHESアンチェスの宇宙新生計画、プロジェクト・コレオグラフィーの流れです」


「私からも補足説明をさせてください」


 頭から煙が出そうな美空の様子を察したのか、リンネが申し出る。


「『類感』はわかりますか?美空さん」


「類感……もしかして類感呪術のこと?」


 文化人類学を専攻していたことがこんなところで役立つとは。感謝すべきかどうか、美空の心中は複雑だった。


「その通りです。『姿かたちが似たものは影響を及ぼし合う』。科学的に安定な基底現実でその効力が発揮されるかはわかりませんが、現実性が比較的低いこの複層現実では、物体間のエネルギーや情報の移動という形でその実在が確認されています。ちなみに、人間原理については?」


「SF小説でなんとなく……」


「大丈夫です。人間原理は要するに人間の観測できない宇宙は存在し得ないという学説です。博士のお話を噛み砕くと、図書館――正式には疑似現実生成ターミナルといいますが――に人類の情報を物理的、電子的に集約し、これを一つの現実と見立てます。次に類感によって宇宙と図書館に作ったもう一つの現実を繋ぎ、最後にそれを観測することで人類が生存可能な宇宙を現在の宇宙に上書き保存する、という感じです」


 リンネは意図してゆっくりと話し、美空はそれを受けてようやくぼんやりと理解し始めた。美空はおずおずと右手を挙げ、スクリーンに向かって言う。


「あの、ここまでのことを別の世界の私に話してよかったんですか?」


 概念図とカメラ映像の比率が滑らかに切り替わる。再びヘイマン博士が大写しになった。


「問題ありません。この程度であればこの複層現実の人類にも開示されている情報です。たとえ基底現実から来たあなたが知ったところで、プロジェクト遂行の障害にはなりえません」


 博士はきっぱりと言い切った。


「ところでリンネ、あなたのことについては?」


「いえ、お伝えしていいのか判断ができず……」


「構いません。開示してください」


「え、でも……それは……」


 これまでのはきはきした受け答えから一変、急に歯切れの悪くなったリンネを怪訝に思う美空。

 一方、スクリーンの先では博士の後ろにいた二人の少女のうち、銀髪のショートヘアの少女が攻撃的な様子で前のめりになった。隣に立っていた黒髪の少女がそれを制する。


「これは必要なことです。詳細は後に伝えます」


「わかりました……」


 リンネが美空のほうを向く。美空もリンネのほうを向く。リンネはどこか不安げな表情だった。


「美空さん、集合的無意識という言葉を知っていますか」


 また学生の頃の記憶が呼び起こされた。


「ユングの理論、だっけ。人種や文化ごとに無意識下で共有しているっていう」


「ここでいう集合的無意識は、厳密には少し異なります。人類全体を繋ぐ意識のネットワークと言えばわかりやすいでしょうか。この現実では実在が確認されています。いわば人類の情報が詰まった巨大なデータベースですね。プロジェクトにはそこにある意識のデータも必要なんです。そのためには集合的無意識にアクセスしなければいけません。しかし通常の人間にそれは不可能で……」


 一旦言葉を切ると、息を吸って思い切ったように言う。


「私には生まれついて集合的無意識にアクセスする能力があります。私の本当の役割は集合的無意識に接続し、そこから人類の意識データを抽出、貯蔵することなんです。私のもう一つの名前、コードネームは『ユニットL』。集合的無意識への接続装置です」


 絶句。まさしく言葉が出ない。リンネの話は理解不能の支離滅裂だったわけではない。彼女は極めて論理的に説明をした。美空が言葉を失ったのは、そのあまりの内容にだった。リンネは集合的無意識へ接続できる生まれつきの能力のせいで、この図書館に独りでいることになってしまっているのだから。そしてなにより、人間が装置として組み込まれているこのシステムに対する嫌悪感も。


「当然、リンネは一人の人間として人権が保障されるべき存在です。我々は曲がりなりにも国連の組織。もちろん特殊な状況ではありますが、可能な限りのサポートを行っています。ミス・アヤカワ。非人道的だと糾弾したいのでしょうが、我々に選択肢はないのです」


 美空の感情を上から論理で押しつぶすように、毅然とした態度でヘイマン博士が言った。美空は何も言い返せない。人類の未来が懸かっているとなれば、元いた世界でだってきっと同じように人道に反することが行われるかもしれない。そう思ってしまったからだ。


「話を変えましょう。ミス・アヤカワ。次はあなたのことです」


 畳み掛けるように博士が言う。


「この複層現実において、基底現実からの漂流者はあなた以外に未だ観測されていません。それゆえ、UNCHESアンチェスはあなたにも大いに関心を持っています」


 リンネがスキャンをした時、驚いていた理由が明かされた。複層現実において基底現実からの漂流者とは、その世界の中で誰よりも現実強度の高い安定した存在であることを意味する。美空はまたリンネを見た。リンネも美空を見た。相変わらず不安そうな表情をしている。


「ノラ、ユニ。時間です。退出なさい」


 ヘイマン博士は振り向きざま、二人の少女にぴしゃりと言った。銀髪の少女は不満げだったが、黒髪の少女に手を引かれてフレームアウトした。


「共有事項が多かったせいで時間をオーバーしてしまいましたね。この定時連絡は以上で終了します」


「はい……」


 弱々しい声でリンネが答えるとヘイマン博士は頷き、巨大なスクリーンは消えた。






 ◆






 定時連絡が終わった後、リンネは一言「お疲れ様でした」と言って、とぼとぼと歩いていった。美空はそれを放っておくことができず、追いかけていった。リンネが歩いていった先は、先程美空が頭痛薬をもらった休憩スペースだった。リンネは椅子に座って窓の外を眺めている。美空が声を掛けると、肘をついたままゆっくり美空のほうに首を動かした。


「あ、美空さん」


「リンネ、大丈夫?」


 美空は丸いテーブルに近づくと、リンネの向かい側の椅子に腰掛けた。


「大丈夫です。それよりすみませんでした。負担を強いてしまって」


「頭は使ったけど大丈夫だよ」


 リンネが落ち込んでいる理由が美空にはなんとなくわかる気がした。たぶん、自分のことを話したからだ。外の世界に憧れていながら、この図書館に組み込まれている自分のこと。それを話したくなかったのかもしれない。あるいは美空に知られたくなかったのかもしれない。


「私も大丈夫です。慣れていますから」


「……」


 美空は何も言えなかった。リンネが外の世界に憧れるのは、きっとここから出られないから。どれだけの時間、この本の墓場のような場所で過ごしたのだろう。何度失意を覚えたのだろう。その孤独を美空は想像した。想像することしかできない。


「博士も仰っていましたが、私の人権は保障されていますし、物資の十分な供給やメンタルケアもあります」


 姿勢を直したリンネは、微笑んで言った。


「それに私、本を読むの好きですし」


 その笑顔を見て、美空の心は張り裂けそうになった。そんなの強がりに決まってる。


「基底現実からの漂流者は美空さんが初めてですが、漂流者自体はこれまで何人もいました」


「そう、だったんだ……」


「はい。幸い良い人たちばかりで。だから図書館の中で人との交流がなかったわけでもないんです」


 それは確かにいくらか救いだった。加害をはたらく人間がいたとするなら、それは重大な傷になってしまっていただろう。


「でもせっかく仲良くなっても、その人達はいつかいなくなってしまうんです」


 複層現実同士の転移の場合、そもそも漂流者の現実強度が低いため、現実からの退去が起こりやすいのだ。美空はそんなこと露知らずだが、リンネの言葉から伝わってくる寂しさと喪失の連続が、どれほど心に負担をかけたかは想像に難くない。


「だから私はこうして美空さんと一緒にいられるのが嬉しいんです。ごめんなさい」


 美空が、他者が一緒にいるのはリンネにとって嬉しいこと。しかし美空は異なる現実から来た漂流者。帰る場所があり、本来はここにいるべきでない人間なのだ。

 だからリンネは謝る。自分が嬉しいと思っていることが、そのまま相手も同じではないから。


(私にできることは)


 せめて大人として役に立ちたい。風呂に浸かりながら抱いたあの思いを、今こそ。美空は口を開いた。


「謝らなくていい。嬉しいっていう気持ちはリンネだけのものだよ。それを自分で否定しちゃだめ。私は確かに違う世界から迷い込んだ余所者なのかもしれない。もしかしたら知らないうちにいなくなっちゃうかもしれない。でも今ここでこうしてリンネと話せていることを嬉しく思うよ。前にも言ったでしょ。あなたと話すの、楽しいって」


 図書館の窓から斜陽が差す。オレンジの光に照らされたリンネの顔には、驚きが浮かんでいた。


「いいんでしょうか。私、そんなこと思って」


「いいに決まってる。何を感じて何を思うか、それは自分で決めていいことなんだよ」


 心の深層から、ぽろっと涙が溢れた。涙はリンネの頬を伝って、パーカーの襟元に落ちる。


「私、は……」


「うん」


「さみしかった……です。しょうがないってわかってるのに」


「うん」


「外の世界、行ってみたいです」


「うん」


 ぽつりぽつりと語られるリンネの言葉と感情を、美空はただ受容する。オレンジの光は段々と弱まり、夜の帳がゆっくりと降りてくる。どこからかリンネが統括個体と呼んでいたくーたが転がってきて、じゃれつくようにリンネの足に触れた。無機質ではあるがぬいぐるみのような愛らしさのあるこの無人機はきっと、過酷な環境の中で常にリンネに寄り添い、空間を共有する数少ない存在だったのだろう。

 

 眼鏡を外して俯き、ぽろぽろと涙を零すリンネ。美空はそんな彼女を放っておくことなどできなかった。右手をゆっくりと伸ばし、優しくリンネの頭に触れる。リンネは一瞬驚いたように顔を上げたが、美空が頭を撫でると小さく俯き、気持ちよさそうに目を閉じた。しばらくそうした後、リンネはパーカーの袖で涙をごしごしと拭いて、顔を上げた。


「ありがとうございます。私、やっぱり美空さんと会えて嬉しいです」


「うん。私も。その気持ち、大事にしなよ」


 こくりと頷く。美空はにっこりと笑ってそれに応じた。二人を照らすオレンジの光はもうない。図書館全体に配置された照明が時間感覚を狂わせるが、もうすっかり夜だ。


「リンネ、食事はいつもどうしてるの?」


「時間のないときは出来合いで済ませますけど、時間のあるときは作ることもあります」


「そっか。物資の供給があるって言ってたもんね。キッチンもあるの?」


「はい。バスルームの隣がキッチンです」


 美空はそれを聞いて思い立った。夕食を作ろう。数時間前に転移してきたばかりで色々ありすぎたが、それでもリンネを労いたいと思ったからだ。今日のことだけではない。涙とともに吐露された、これまでのことについて。


「よかったら私がごはん作ろうか?」


「え、でも」


「食欲はある?」


「はい」


「それじゃあ決まり。リンネも手伝ってくれる?」


「……!わかりました。ぜひ!」






 ◆






 ――UNCHESアンチェスアメリカ第5支部、ボルティモア研究所。


 ヘイマン博士の姿は、通信管理部門の一室にあった。先日定時連絡でリンネと美空が映像越しに見ていた部屋である。彼女の眼の前のモニターには複数に分割されたオンライン会議らしき画面が表示されていた。それはUNCHESアンチェス本部と、持ち回りで『図書館』の管理や連絡をしている世界中の支部との会議だった。


「漂流者の現実強度が『図書館』の現実性バランスを崩す可能性は?」


 ネイビーのスーツで固めた白髪の黒人男性が言う。


「図書館内に散布してあるナノマシンの情報と、司書から送られたデータを元に数千回シミュレーションをしましたが、その懸念は無視していいほどに小さいという解答が得られました。むしろその高い現実強度が図書館の現実性を安定させる可能性すら見えてきています」


 相変わらずきびきびとした様子で答える。議題は美空のことのようだった。この複層現実で初めて観測された基底現実からの漂流者。定時連絡では『大いに関心を寄せている』と抽象的にしか述べなかったヘイマン博士だが、UNCHESアンチェス自体は相当現実的なレベルで検討を重ねていた。


「図書館の稼働に役立つと?」


「あくまでその可能性が示唆されているという段階です」


「直接交流による司書への影響は?」


 白衣を着たアジア人らしき女性が発言する。話者の言語は人工知能の演算によって逐次聴者の言語に翻訳され、リアルタイムに話者の声として出力される。定時連絡の際に美空が何の障害もなくヘイマン博士と話ができたのは、この世界に普及する翻訳システムの恩恵だ。


「司書からの報告では『良好な関係』にあると。それが事実であればダイブに影響を及ぼすこともないでしょう」


 ヘイマン博士は淡々と答える。ダイブ、すなわちリンネが『本当の役割』と言った集合的無意識への接続には、精神的な要因が大きく影響する。リンネへのメンタルケアは人権保障や本人の業務支援の意味合いもあったが、結局のところ接続作業に支障を来さないための措置でもあったのだ。


「プロジェクト技術本部およびターミナル管理部門からは、漂流者の現実強度を活かしたプランが上がってきている」


 画面中央あたりに表示されている恰幅の良い金髪の男性が言った。おそらくこのメンバーの中でも階級が高い人物なのだろう。


「それは漂流者をプロジェクトに組み込むという意味ですか」


「そう理解してもらって構わない。先程君の報告にもあった通り、基底現実の人間の持つ高い現実強度は得難いファクターなのだ」


 ヘイマン博士は考え込んだ。この数日の報告から、リンネが美空に対して一定以上の愛着感情を抱いていることは明白だった。仮に美空がプロジェクトに組み込まれるとなれば、責任感の強いリンネは何を思うのか。その影響が彼女の懸念だった。


「プランについてはこちらでも検討してみましょう」


「よろしく頼む」


「他に発言のある方はいますか?」


 司会らしきアフロヘアの白人女性が言った。首を振る者もいれば何も言わない者もいる。全員が沈黙した。


「では本日のミーティングはこれで終了します。議事録は後ほど。それでは」


 女性が言うと賽の目状にカメラ映像が表示されていた画面は消え、国連機関を表す地球のマークとUNCHESの文字が映る黒い画面に切り替わった。

 ヘイマン博士は小さく鋭くため息を付くと、白衣のポケットに手を入れ、部屋を後にした。






 ◆






 ――疑似現実生成ターミナル、通称『図書館』内、リンネの私室。


「はい、とても優しい方で……私の境遇に胸を痛めてくださるほどです」


「そう、とても良い方なのね。あなたたちはどんな話をするの?」


「どちらかと言うと私が美空さんにお話をしていただくことが多いです。基底現実の世界のこととか」


「それは興味深いわね。あなたはそれを聞いてどう思ったのかしら」


「そう、ですね……とても楽しいです。美空さんの世界への興味がどんどん湧いてきます」


「その感情はあなたの心にとってとても大切なものよ、リンネ」


「美空さんも同じことを言っていました、ユキナ先生」


 それは定期的に行われているカウンセリングだった。カウンセラーの名は箕作みつくりユキナ。国籍上は日本人であるリンネとの相性や精神的要素を考慮し、同国籍の彼女が担当を務めている。彼女は無人機くーただけでは困難なメンタルケアや、まだ年若いリンネの精神的な成長をサポートするという任務を帯びていた。


「それじゃあ今日はここまでね。また次回会いましょう」


 ユキナは笑顔で言った。


「はい、ありがとうございました」


 リンネがそう答えると、ユキナの姿が表示されていたホログラムのウィンドウが消える。リンネはふうっと息をつくと椅子に座ったまま思い切り伸びをした。しばらく姿勢を変えていなかったせいで、随分と筋肉が固まっている。リンネは眼の前の机に浮かんでいる時刻表示のウィンドウを見た。もうすぐ正午だ。


(美空さん、何やってるかな)


 美空にはカウンセリングで1時間ほど不在にすると伝えてあった。いつものように書架の中を散歩しているのか、それとも自室にいるのか。

 自分にとっては物心ついてから当たり前の環境だったこの閉じた図書館だが、美空にとっては広い世界から突然閉鎖空間に閉じ込められたようなものだ。彼女がこの環境に苦痛を感じていないか、それがリンネは心配だった。


(お昼ご飯、今日は私が作ろうかな)


 考えながら立ち上がり、部屋のドアまで歩いていく。そのままドアノブをひねって開け放つと、いつも通り本で埋め尽くされた広大な空間が現れた。


「あ、リンネ。カウンセリング終わったの?」


 部屋のすぐ外に設えてあるいつもの休憩スペースから美空の声がした。見ると美空はテーブルを背にしゃがんで、統括個体のくーたを撫でていた。


「はい、終わりました」


 そう言うとリンネはいつも履いているミリタリーブーツで毛足の短いカーペットを踏みしめながら、美空のほうに歩み寄っていく。


「美空さんもくーたと随分仲良しになりましたね」


「最初は逃げられてたけどね。ようやく懐いてくれたみたい」


 美空は困ったように笑いながら言った。


「くーたはもともと作業と私の生活サポートのために投入されたと聞いています。特にその子統括個体には人工意識に近いレベルの知能が搭載されているそうなので、最初は美空さんに警戒していたのかもしれません」


「なるほどね。猫みたいな感じか」


 猫耳のような装飾も相まって余計にそう感じさせる。触るとすべすべしていながらぷにっと柔らかい感触がして、撫でているだけでも気持ちがいい。


「あの、今日はお昼ごはん、私が作ろうかなって思っていて」


「いいの?嬉しいな」


「食べたいものとか、ありますか?」


「そうだなあ……あんまり油っこくないもので」


「わかりました。オムレツでもいいですか?」


「とってもいい。楽しみにしてるね」


 リンネは微笑んで頷いてから踵を返し、キッチンに向かう。

 キッチンのドアを開けると、シンプルながら十分な設備と広さのスペースが広がっていた。リンネは冷蔵庫代わりに置かれている保管庫の前に立つと、ウィンドウを開いて品物のリストを見る。材料は新鮮なものが供給されているようだった。リストの項目を幾つかタップし、保管庫を開けると、そこにはオーダーした食材が並んでいた。


(美空さん、楽しそうだったな)


 食材をスムーズに調理しながら、リンネは先程の美空の様子を思い出した。自分の心配が杞憂だったかもしれないという考えが浮かぶ。

 程なくしてオムレツ、サラダ、スープ、パンの立派な昼食が出来上がった。リンネは銀色のバングルを巻いた手首を少し捻り、コマンドを送ってくーたを呼ぶ。ややあって美空のところにいた統括個体がキッチンにやってきた。


「これ、お願いね」


 統括個体は両側からマニピュレータを伸ばし、一人分の昼食が載ったトレーを受け取る。リンネはもう一人分を自分で持つと、美空のもとに向かった。


「お待たせしました」


 そう言いながら椅子に座る美空の前にトレーを置く。


「すごい!オムレツ上手だね!すっごいきれい」


 美空がはしゃいだ声を上げる。


「えへへ……お口に合うといいんですが」


「これは絶対美味しい。私が保証する」


 美空はリンネに向かって親指を立てた。

 リンネも笑顔でそれに応じ、自分の分のトレーを丸テーブルに置くと、椅子に腰掛ける。二人は手を合わせて食事を始めた。


「そういえば、カウンセリングはどうだった?」


 美味しい美味しいと連呼しながら食べていた美空が、フォークを持ちながら訊く。


「いつも通り、ですかね。何があって私がどう感じて、とか。いつもそういう話をします」


 リンネはスープを一口飲むと、少し躊躇しながら訊き返した。


「あの、美空さん」


「ん?なあに」


「ここに来てもう2週間くらいですけど、つらくありませんか?」


 それは漂着初日に美空がリンネにした質問と同じだった。美空はフォークを置いて水を飲むと、口を開いた。


「つらくないよ。退屈もしてない。その、プロジェクトについては私も思うところは色々あるけど……それは置いておいて、リンネと毎日一緒にいられるのが楽しいんだ」


(あ……)


 一緒にいられるのが楽しい。リンネが美空に対して抱いていた感情と同じだ。安堵?安心?言語化できない、しかし温かな感情がリンネを包み込む。満たされている感じとも言うべきか。ともかく、リンネがこれまで抱いてきた感情とは何か違うものだった。


「安心しました。私も美空さんといられて、前よりずっと楽しくなった気がします」


 その言葉に美空は柔らかな笑顔を返す。


「だから、その、えっと」


 言葉に詰まるリンネ。決して後ろめたいわけではない。自分の深いところを言葉にするのに慣れていないだけ。


「ありがとうございます」


 そう、今度は謝らない。一緒にいて嬉しい。その気持ちが通じ合えたのだから。

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