スターライト・グラフィティーズ

アオザキ

スターライト・グラフィティーズ

1.漂流者

 綾川美空あやかわみそらは最悪の気分だった。

 アルコールでぐらぐらする頭。仕事と飲み会の疲労に電車の揺れが拍車をかける。

 いつものように盛り上がり、気がつけば終電。今の仕事は嫌いではなかったが、学生サークルのような会社のノリには、正直ついていけないときがあった。


 幸い吐き気はない。だが、とにかく眠い。吊り革を指先でなんとか掴んで立っていたが、それも難しくなり、人混みに身を任せる。


 その浮遊感が心地よくて、段々とまぶたが重くなる。

 ちゃんと降りなきゃ。頭の中にはかすかにそんな思考があったが、徐々にそう考えるのも億劫になっていき、意識が遠ざかる。






 ◆






 美空が次に目を覚ましたのは、どこかのカーペットの上だった。

 状況を飲み込むことができない彼女を、二日酔いの頭痛が襲う。その痛みが記憶の連続性を証明している。これは夢ではない。毛足の短いカーペットの感触を頬で感じながら、美空は立ち上がる力もなく横向きに寝転んだまま、頭を動かして周囲を見る。


 本があった。正確には、本がいっぱいに詰まった棚が美空の両側に並び、ゆるやかにカーブを描いた通路のようになっている。


(図書館……?)


 理解が追いつかない。なにをどう間違えれば終電に乗って図書館で倒れていることになるのか。


「あの、大丈夫ですか?」


 りん、と鈴がなるような声がした。通路の先を見るように横向きに倒れているところから、なんとか寝返りを打って反対側を向く。ミリタリーブーツを履いた細い足。視線を少し上げると、少女が一人、美空の顔を覗き込むようにしゃがんでいた。中学生か高校生くらい、だろうか。


「ここ……どこ……痛っ」


 大人しくしていた二日酔いの頭痛がぶり返してきた。少女は美空が顔をしかめるのを見ると、慌てた様子で言った。


「どこか痛いんですか?」


「いや、飲みすぎちゃって」


 少女は少し考え込んで言う。


「もしかしてアルコールの過剰摂取のことを仰っているのですか?」


「え、あ、そう、だけど」


 やけに仰々しい物言いに違和感を覚えつつ、美空は肯定した。


「それはいけません。すぐお水を持ってきます。少しだけ待っていてください」


 美空の返事を待たず、少女は立ち上がり、踵を返してぱたぱたと走っていった。しばらくすると少女は500mlより少し大きめのボトルを持って戻ってきた。


「起き上がれますか」


 手が差し出される。


「ごめん、ありがとう」


 美空は手を掴み、少女が引っ張る。その力でなんとか座り姿勢を取ることができた。少女は持っていたボトルを差し出す。


「お水です。ひとまず飲んでください」


 美空は短く礼を述べると、ボトルの口をひねって開けた。口を付け、傾けると体の中に水が流れ込んでくる心地よい感触がした。ひたすらに水を飲み下し、空になったボトルを少女に返す。


「ありがとう。助かったよ」


 美空はそこで初めて少女の顔をはっきりと視界に収めた。

 ボブくらいの長さの明るいブラウンの髪に、まるで宇宙が広がっているかのようなブルーのインナーカラー。眼鏡を掛けた瞳の色は、日本人のそれではないように思えた。少女は笑顔でボトルを受け取ると、床に置いた。


「落ち着かれたようでなによりです」


 小柄な子だな、と美空は思った。身に着けているぶかぶかの黒いパーカーは、まるでワンピースのようになっている。その下には短めのスカート。その出で立ちが少女の小柄さをより際立たせているように思えた。


「あの、いくつか質問をしてもよろしいでしょうか?」


「あ、はい」


 美空が戸惑いながら答えると、少女は笑顔で頷いた。続いて空中をさっと手で払う動作をする。その途端、彼女の周囲を覆うように、空間にPCのウィンドウのような青く半透明のものが無数に現れた。


 ホログラム、なのだろうか。驚く美空をよそに、少女はそのうちの一つを掴んで引き寄せると、同じように宙に浮く半透明のキーボードで何かを入力し始めた。


「お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」


「綾川美空、です」


「アヤカワミソラさん、ですね」


 少女は美空の名前を入力すると、しまった、という表情をした。


「すみません。私が名乗るのが先でしたね」


 少女はホログラムのキーボードから手を話すと、ぺこりと礼をしながらその名前を言った。


「私は御門みかどリンネといいます。以後、よろしくお願いします」


 ミカドリンネ。珍しい名前だな、というのが美空の印象だった。自己紹介を終えたリンネは、再び質問に戻る。


「ここに来るまでの経緯を教えていただけますか?」


「会社の飲み会があって、結局終電になっちゃって、そこで寝ちゃったのかな。ごめん、私もあんまり覚えてなくて」


「いえ、十分です。えっと、現実強度のスキャンを……くーた!」


 リンネは連なる書架の向こう側に向かって少し大きな声を投げかける。すると二人のいる通路の先からいくつも白い球体が転がってきた。テニスボールより少し大きいくらいの球体は、美空を取り囲むように円形に並ぶと、そのままの隊形でゆっくり宙に浮いた。

 球体をよく見ると、どれも猫の耳のような二つの突起が上部に付いている。


「すみません、規則に従ってあなたのスキャンをさせていただきます」


 状況にまったくついて行けない美空をよそに、リンネはそう言った。

 周囲を浮遊する球体たちは、リンネがホログラムのウィンドウをタップすると、一斉に美空の周囲を飛び交い始めた。


 ウィンドウの表示を目で追うリンネ。どうしていいかわからないと表情で訴える美空に対して、その顔は徐々に驚きの色を帯びていく。


「ありがとう。もういいよ」


 リンネが声を掛けると球体たちは動きを止め、そのままふわふわと浮かびながら書架の向こうに飛んでいった。


 リンネは片手で口を覆いながら、眼の前に浮かぶスキャン結果のウィンドウを見つめている。


「まさか基底現実からの漂流者だったなんて……」


 つぶやく言葉の意味を美空はひとつも理解できない。


「ごめん、全然状況が飲み込めないんだけど、説明してもらってもいいかな」


「し、失礼しました!突然のことで混乱されてますよね。一からご説明します」


 座ったままの美空に向かって、リンネが手を差し出す。美空はその手を掴むと、今度こそ立ち上がることができた。


「改めて、この『図書館』の司書をしている、御門リンネです」


 図書館。あらためてあたりを見渡す。要所要所に設けられた窓から光が差し込む、とてつもなく広い空間。上を見上げれば三角形が組み合わさったドーム型の天井。さながらネットで見た海外の巨大図書館のようだと美空は思った。おそらく上階部分が大きな吹き抜けになっているのだろう。低めのビルならすっぽりと入ってしまうのではないかと思わせる。美空とリンネはその吹き抜けの底にいた。


 見渡す限り本、本、本。どの壁にも美空の身長よりもかなり高い棚が据付られ、様々な装丁の本が詰まっている。ここが図書館だというのはよくわかった。


「えっと、ミカドさん」


「リンネでいいですよ、アヤカワミソラさん」


「わかった。私も美空でいいよ、リンネ。ここの司書をしているって言ってたけど……」


 美空の記憶が正しければ、司書はれっきとした資格職だ。高校生か中学生くらいの子がなれるようなものではない。美空は疑いと驚きが混じった声色で訊く。


「はい。厳密には現場管理者ですね。人類の情報を収集し、統合を行う、通称『図書館』。その管理をする役職として、慣習に倣って司書という肩書を与えられています」


 図書館。司書。どちらも聞き馴染みのある言葉だったが、リンネの語るそれらはどうも美空の知るものとは違うようだった。美空はリンネをじっと見た。自分より頭一つ小さなこの少女は、一体何者なのか。


「あちらに休憩用のスペースを作ってあります。そこでゆっくりお話しますね」


『くーた』と呼ばれた球体たちがやってきたのとは逆方向の通路を指して言う。


 歩きながら美空はリンネに訊く。


「あなた、何歳?高校生か中学生くらいに見えるけど……」


「私の年齢ですか?推定値ですが、16です」


(推定値……?)


 年齢が推定値というのはどういうことだろうか。もしかして特殊な出自だったりするんだろうか。当然の疑問が美空の頭に浮かぶ。


「あのさ、そもそもなんだけど、どうして私はここにいるの?なんで終電で寝たら図書館の床に倒れてたの、私」


「先にそのお話をしましょうか。前提になる情報ですしね。ここは簡単に言えば、あなたのいたのとは別の現実です。我々は複層現実nと呼称しています」


「それはパラレルワールド的な……」


「おおむね正解です。これはもののたとえですが……」


 そう言うとリンネは立ち止まり、手近な書架からハードカバーの本を一冊取り出した。


「われわれがいる世界はこの一冊の本にたとえることができます。ページの一枚一枚が異なる現実。あなたの言うパラレルワールドに近いものです。ただ、すべての現実が同じように存在するわけではありません。現実の強度には高低の概念があります。現実強度が高い世界ほど科学的に安定しており、超常現象などの類が起きにくい。反して現実強度の低い世界ほど不安定で崩壊しやすい。ちょうどこうして本を開くと、開いたページが浮き上がってしまうように。上層にある現実ほど不安定なんです。

 それから、現実にも二種類あります。今あなたと私がいるのは、いわばページの部分。これを複層現実と呼びます。そして、表紙と背表紙にあたる部分であり、もっとも現実強度の高い世界。これを基底現実と呼びます。あなたが元いた世界です」


 本のたとえはわかりやすかったが、それでも美空の疑問は氷解しない。


「その基底現実から、どうして私はここに来ちゃったの?」


 リンネは持っていた本を書架に戻した。


「現実同士は基本的に独立していますが、まったく干渉しあわないわけではありません。また現実強度もすべての空間座標において一定というわけではありません」


 そう言ってリンネが手のひらを広げると、その上にホログラムの箱が現れた。箱の中には、温度分布のように赤から青のグラデーションで彩られたアメーバ状の立体がある。


「これは現実強度の相対的分布モデルです。赤い部分は現実強度の高い場所、青い部分は低い場所です。低い場所は現実が比較的不安定で、超常現象の発生や、人や物品の転移が起こる可能性があることがわかっています」


 美空は浮遊する分布モデルの端、アメーバが細長く伸びた青い部分を見る。まるでトンネルのようだ。美空は夜の電車を強く想起した。酔っ払って揺られる最終電車は確かに違う世界に行ってしまうような気もする。昔ネットで『異世界に行った』とかいう掲示板の書き込みを見たことがあったが、いわゆる神隠しなんかもそういうことなのだろうか。


 二人は再び歩きだす。

 広大な図書館の一部しか見られていないが、その違和感に美空はすぐに気づいた。ここには人の気配がまるでない。


 やがて書架の列が途切れ、その先に背の高い窓が現れた。窓に這うツタ状の植物の隙間から、明るい日差しが差し込んでいる。窓際には柔らかそうなクッションが積まれた一人がけのソファ、猫脚の小さな丸テーブル、それから一組の椅子があった。


 リンネは片方の椅子を引いて、美空に座るよう促した。


「ちょっと待っていてください」


 そう言うと、リンネはどこかに向かって小走りで去っていった。


 しばらくして帰ってきた彼女は、バレーボール大の白い球体を引き連れていた。彼女自身は小さなトレーを持っている。球体のほうは横から伸びたアームのようなもので、先程よりも大きなボトルを抱えていた。


「おまたせしました」


 トレーの上にはグラスとピルケースがあった。リンネは猫耳の球体からボトルを受け取ると慎重にテーブルの上に置く。球体はぴょんぴょんと跳ねると、どこかに滑るように去って行った。


「あの大きいのも『くーた』ってやつ?」


「あ、そうです!あの子が統括個体です。たくさんいる小さい子たちは子機みたいなものなんです」


 おそらくはドローンかロボットの類だろう。気の抜ける名前はともかく、美空はそう納得した。


「これ、頭痛薬です。基本的な組成は基底現実のものと変わらないはずです」


「ありがとう、ほんと何から何までごめんね」


 いえいえ、と言いながらリンネはボトルの水をコップに注ぐ。


(ずっと世話になりっぱなしだな、私)


 そんなことを考えてから、美空は一息に錠剤を水で流し込んだ。

 ふう、と息をつく。ひとまず頭痛は落ち着いてくれるといい。一息ついたところで美空は重大な問題を思い出した。リンネのもてなしと説明に気を取られていたが、一体どうやって帰ればいいのか。


「あのさ、リンネ。私、どうやって帰ればいいのかな?」


 リンネは心底申し訳無さそうに視線を落とす。


「他現実から来た美空さんであれば、漂着した時と同様、確実に帰還できるはずなのですが……正直に言うと、いつ帰れるかはわかりません……ごめんなさい」


 帰れる保証はある、ただしそれがいつになるかはわからない。美空は思わず頭を抱えた。


「仕事が……」


 この様子だと元の世界と連絡することも難しいだろう。無断欠勤、行方不明、その先はもう想像したくない。美空は頭を上げてリンネを見る。一瞬ビクッとした彼女は、申し訳無さそうにまた視線を落とした。


 美空は小さくため息をついて言った。


「リンネが気にすることじゃないよ。自然現象みたいなものなんでしょ。だったら誰も悪くないって」


「美空さん……」


 リンネの表情が少し明るくなったように見えた。

 となれば、だ。次の疑問が浮かぶ。


「それで、帰れるまで私はどうすればいいの?」


「はい、漂流者を確認した場合は速やかに検査し、当該現実への帰還まで『図書館』内で保護することになっています」


「ここで?」


「はい」


 図書館で暮らす。そのあまりの現実感のなさに美空は戸惑っていた。まったくピンと来ない。


「大丈夫です。『図書館』には居住区画もありますし、物資の供給もあります。現に私もずっとここで暮らしていますし」


「ずっとここで!?その、親御さんとかは……」


 人の気配をまったく感じなかったのは、文字通り誰もいないから。ではそんな状況がどうして成立するのか。美空は考える。親は、友人は、リンネに関係する人はどうしているのだろうか。


「いた、と聞かされていますが、私にはその記憶がありません」


「ごめん、嫌なこと聞いちゃったね……」


 ばつが悪そうに言う美空をよそに、リンネの反応は淡々としていた。


「いえ、お気になさらず。私、自分の出自にはそんなに関心がないんです」


 不自然なほどあっさりとした言葉。その様子に美空は言い知れぬ違和感を抱く。何か、ある。そう直感した。


「それより今は居室の話ですね。私が使っているもの以外にもいくつか使用されていない部屋があるので、美空さんにはそちらを使っていただくことになるかと。家具類は揃っているのでそのまま使っていただければ」


 リンネは自分の出自のことをこれっぽっちも気にしていないという言葉通り、相変わらずの説明口調を続ける。


「わかった。そしたら部屋、貸してもらってもいいかな」


「もちろんです。居住区画の案内と説明もしないといけませんから、行きましょうか」


 リンネはそう言って立ち上がった。美空も頷いて立ち上がる。二人はリンネは先程くーたを伴って現れた方向に向かって歩き始めた。


 目的地にはすぐに着いた。上階部分がバルコニーのように突き出した場所の下、おそらく図書館の隅。居住区画といっても完全に区切られているわけではなく、そのまま壁に4つか5つのシンプルな木製のドアが並んでいる。一番右端にはエレベーターと思しき金属製のドアもあった。


 リンネは立ち止まって少し考えるように腕を組むと、頷いて並んでいるドアのうち左から2番目の前に立った。そのままドアノブに人差し指で触れる。間を置かずホログラムのウィンドウが表示され、リンネはそこに何かを入力した。一連の動作を終えると、リンネは美空のほうに向き直る。


「この部屋を使ってください。セキュリティに美空さんの生体情報を登録しておきました。ドアノブに触れれば鍵は外れます」


 リンネのところに歩み寄る。彼女はその場から一歩横に退くと、ニコニコしながら美空を見ている。美空がドアノブを握ると、まるで初めから解錠されていたかのように、ノブは軽い力で回り、ドアが開く。


 部屋は思ったより広かった。

 10畳くらいはありそうな室内には、ベッド、机、ソファ、本棚などの家具のほか、壁の一角には入口のものに似た木製のドアや、用途がよくわからない金属製の冷蔵庫のような箱などが置いてある。床は図書館内と同じ深緑のカーペットだ。


 リンネは相変わらず笑みを浮かべていた。


「定期的に清掃をしているので、衛生面の問題はないはずです。卓上の端末からは限定的ですが外部ネットワークにアクセスもできます。ああ、あの箱ですか?あれは下層にある保管ユニットから必要な物品をオーダーして転送させるための簡易保管庫です」


「仕事の連絡とかは……」


「ごめんなさい、さすがに現実間をまたいだ通信はできないんです」


「ですよね……」


 ともあれ、快適そうな部屋だ。よく手入れが行き届いているのがわかる。


「ちなみにお風呂とかは……」


「エレベーターの隣のドアがバスルームに繋がっています。一つしかないのでご不便をおかけするかもしれませんが、使っていただければ。トイレは室内のドアの先にあるので、そちらを」


 シェアハウスみたいなものか。この状況に段々慣れてきたのか、美空の脳裏に呑気な思考が浮かぶ。


「お仕事帰りに漂着してきたのなら、アルコールの過剰摂取以外にも疲れが溜まっているはずです。私は今は使いませんし、お風呂に入ってきてはどうでしょうか」


 そう言われてようやく気づく。昨日の服のまま、しかも居酒屋の匂いも汗の匂いも満員電車の匂いも染み付いているだろう。美空は思わず腕を鼻に近づけてしまった。


「ごめん、私臭かったよね…?」


「え、いえ、そんなことはないです!入浴は疲労回復に役立つと本で読んだので……!」


 言葉の端々からリンネの気遣いが見て取れた。とはいえ色々な匂いが染み付いているのは確かで、汗も流したいのも事実。


「わかった。お風呂、使わせてもらうね」


「はい!わからないことがあればパネルにあるオレンジのボタンを押してください。私に繋がるようになっています。私は書庫の確認業務に戻りますが、困ったらいつでも呼んでくださいね」


「うん。ありがとう」






 ◆






 光を放つ天井のパネル。今は湯気で霞んで見える。


(ああ、やっと人心地付いたな)


 幸いお湯を出す機能は元いた世界とあまり変わらないようで、スムーズにお湯を貯められた。シャンプーやボディーソープ、コンディショナーなどの類も揃っていたし、壁に埋め込まれた棚にはいくつもボトルが並んでいて、メイク落としと思しきものもあった。


 一通り洗い終えると湯船に体を浸け、天井を見上げて深呼吸する。


 現実味がない。世界がどうこうというリンネの説明は丁寧だったが、こうして湯に浸かっていると友達の家に遊びに来たくらいの感覚しか持てない。


 違う現実に来てしまった。そんな状況をはいそうですかと納得しろという方が無理難題だ。


(完全に無断欠勤だな……)


 これからどうすればいいのか。いや、それはもう決まっている。帰れる時が来るまでこの図書館で暮らすのだ。リンネと一緒に。

 

 御門リンネ、推定16歳。親はいない……らしい。

 相変わらずわからないのは、ここで彼女が一人きりで暮らしてきたという状況だ。誰がそれを成立させたのか。誰がそれを許したのか。しかも彼女は自分のことを現場管理者と言った。つまりこの広大な図書館を一人で管理する任を与えた誰かがいるのだ。およそまともな話ではない。


 憤りに似た感情が芽生える。それから、せめて大人として役に立ちたいという気持ち。そんな使命感か独善か、よくわからない感情が膨らんでいく。


 湯船から立ち上がると、ざばっと湯が波立った。


(よし。リンネと話そう)


 リンネと美空のここまでのは、ほとんどが質問と説明で成り立っていた。


(だから知りたい。あの子のことを、ちゃんと)






 ◆






 ドライヤーも化粧水その他諸々も、美空の知るそれらと大差ないものだった。そしてここにもリンネが簡易保管庫と呼んでいた金属の箱はあった。開くとリンネが用意したのか、下着も含めた服の一式がきれいに畳まれて鎮座している。ブラウスとグレーのパンツ。


 それらを身に着け、ドアを開ける。書庫の業務があると言っていたが、リンネの姿は見えない。美空は書架の迷路を歩き始めた。時折足を止めては並ぶ背表紙を眺める。英語だ。そういえばリンネとは日本語で普通に会話できている。あまりに自然で違和感を抱いていなかったが、もしかしたらこの世界の言語と元の世界の言語はほとんど変わらないのかもしれない。


 そんなことを考えながら歩いているうち、美空は小さな背中を見つけた。

 ボリュームのあるブラウンのボブヘア。ぶかぶかのパーカーのフードが首筋を隠している。カーペットを踏みしめるヒールの音に気づいたのか、ホログラムのウィンドウを手に持ったままリンネが振り向く。


「美空さん」


「リンネ、お風呂ありがとね」


「いえ。それよりも服は大丈夫でしたか?スキャンデータから美空さんの体型に最適なものを地下保管庫から用意したのですが……」


「うん。ばっちり」


 その言葉に嬉しそうに微笑む。


「よかったです。顔色もだいぶよくなりましたね」


「おかげさまで……」


 いや、違う。自分はリンネのことを知りたくて、リンネともっとちゃんと話したくて探していたのだ。


「リンネ、今忙しい?」


「いえ、今は業務といっても本の保全加工の確認だけなので、そんなに忙しくはないです」


「保全加工の確認?」


「はい。本に特殊なナノマシンを吸着させていて、紙の劣化を止めているんです。その機能が正常に働いているかの確認です」


 リンネの手に持つホログラムといい、ナノマシンといい、この世界の科学は相当進んでいるらしい。


「ずっと一人でここの管理をしてるって言ってたよね」


「はい。この施設は重要性ゆえに外界から隔離されていて、特別な転移以外の方法で出入りすることができないんです」


「……つらくなったりしない?」


 リンネはホログラムから手を離すと、パーカーのポケットに両手を突っ込んで少しうつむいた。ウインドウは変わらず空中に浮いている。


「……もう、慣れましたから。それにこの『図書館』は私なしには成り立たないんです」


 それってどういう……と言葉が反射的に出そうになったが、なんとか押し留めた。慣れた。そう言って微笑む彼女の表情は、寂しさを取り繕っているように見えた。


「寂しくはない、です。くーたもいますし、外部との連絡もあります。美空さんのようにたまにここに流れ着いてくる人もいますし。だから寂しくはないんです。ないんですけど……」


 一旦言葉を切って、顔を上げる。美空の目を真っ直ぐ見て言った。


「私、外の世界のことが知りたいんです。本を読めば情報としては知ることができるんですけど、それはあくまでも情報でしかなくて……」


 美空は思った。この子を生かす感情は好奇心なんだ。リンネにとっては孤独と戦うための希望のようなものなのかもしれない。


「こんなことを言うのは不謹慎かもしれませんし、気分を害されるかもしれません。でも、私は美空さんが来てくれて、こうして言葉を交わせることがとても嬉しいんです」


 真摯で真っ直ぐな言葉。直感する。この子は憧れている。外の世界に、人との関わりに。


「私で良ければ色々話すよ。私の世界のこと。あなたと話すの、私も楽しいんだ」


「本当ですか?なんの見返りもご用意できませんよ?」


「いや、部屋にお風呂に服にって十分お世話になってるよ」


「……っ!ありがとうございます!」


 破顔するリンネ。出会ってまだ数時間も経っていないが、ようやく満面の笑みが見られた。心の底から嬉しい。そんな感情が心に直接伝わってくるようだった。


 それから美空は色々な話をリンネにした。通っていた大学のこと、元の世界の暮らしとか、仕事についてとか。


 リンネは互いに突っ立ったままであることも忘れて、夢中になって聞く。時折リンネが質問し、美空はそれに答える。パーカーのポケットに突っ込まれていたリンネの両手は、今や胸のあたりでぎゅっと握られていた。リンネは特に美空の暮らしていた東京の街に興味を惹かれたようだった。


「娯楽を提供する施設……知識としては知っていましたが、やっぱり楽しそうなところなんですね。それにそんなにたくさんの人が一つの街区にいるなんて想像もつきません。あ、あとは飲食店も興味深いですね……いいなあ……私もカフェで本を読んだりしたいなあ……」


 自分の話に、他人の経験にここまで共感してくれるとは。彼女の感受性の高さが伺えた。


「美空さんは話すのが上手ですね。細かな情景まで浮かんできます」


「そうかな。そうだったらいいんだけど」


「あの、たまにこうやってお話を聞かせてもらえませんか?」


 リンネは興奮した面持ちでそう言った。犬のしっぽが付いていたらぶんぶん振られていそうだな、と美空は思う。


「私の話でよければいつでも。そんなに喜んでくれるなんて思わなかったよ」


 そういえば、と思い出す。


「話の代わりにってわけじゃないけど、もしよかったら私にもこの世界のことを教えてほしいな」


「この世界のこと、ですか?」


「うん、そう。違う世界があるなんて私にとってはそれこそ驚きなんだよ」


「それは……そうですね……構いませんけど……」


 急に歯切れが悪くなった。


「あ、でもなんか機密事項とかありそうだし、無理にってわけじゃ……」


「そういうわけではないんです。正直、聞いていて楽しい話はできそうにありません」


「え?それって」


 リンネの表情から先程までの楽しげな感情が引いていく。


「この世界、厳密にはこの宇宙はもうじき滅亡を迎えます」


 さらっとそう言った。

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