3.人間の条件
疑似現実生成ターミナル、通称図書館。その地上5階、最上階にあたるエリアに美空はいた。地下にも多くの設備があるようだったが、リンネが言うには立入禁止。幸い地上階であれば本を並べ替えたり痛めたりしない限りは自由に歩き回っていいとのことだった。
(ここに来てから3週間……相当歩き回ったはずなのにまだ知らない場所がある……)
美空は歩きながら本の背を撫でつつ、考えていた。
コの字型に広がる書庫の中を歩きながら、時折目についた本を手にとってはパラパラとめくる。この階にも窓はつけられていて、今は明るい日差しが差し込んでいる。
(あ、ここは日本語の本のコーナーかな)
ロシア語と思われるキリル文字の背表紙の列を抜けると、見知った文字が詰まった書架に出会った。
(ここは小説か)
何の気無しに目についた本を抜き取り、あらすじの書かれた部分を読む。
(心に入って治療する医者の話、か。SFっぽいな)
興味を惹かれた美空は、書架にかけられた階段状の梯子を引き寄せると、ロングスカートの裾を撫でるように整えて座る。この3週間の間で保管庫の使い方をリンネから教わってから、自分好みの服をオーダーして着るようになっていた。
(これ、面白いかも)
美空はもともとSF小説が好きで、国内外を問わず世界中の作家の作品を読んできたが、そんな中でも今読んでいるこの本は面白い部類に入るものだった。
静寂の中でページをめくる音が響く。リンネは報告書の作成と定時連絡があると言って自室に籠もっていた。
美空はページから目を上げて思いを巡らす。眼の前にも書架がそびえ立っていた。
(正直、あの博士怖いんだよね……)
最初の定時連絡に同席して以来、美空が再び呼ばれることはなかった。それでもあの日の遣り取りはヘイマン博士に苦手意識を抱くには十分すぎたのだ。
(基底現実からの初めての漂流者で、UNCHESは私に関心がある……)
それが何を意味するのか、今の美空にはわからない。
(プロジェクト、か……)
ヘイマン博士とリンネから聞かされたUNCHESの宇宙新生計画、プロジェクト・コレオグラフィー。美空にとってはオカルトと超科学の融合と感じられていたが、筋は通っていたし、なによりこの状況がその説得力を増していた。
(リンネ……)
ユニットLという彼女の装置としてのコードネーム。人権は保障されているという言葉は果たして本当なのか。美空にはここでずっと一人で暮らしながら作業をしてきたその状況、境遇自体がやはり人権を侵害しているように思えてならない。
手首に目を遣る。リンネと同じ銀色のバングルが窓からの光を反射していた。無人機やホログラムを操作するための補助デバイス。リンネのものと違って機能制限がされているが、図書館内での生活や活動のためにとUNCHESから数日前に支給されたものだった。
美空が本から片手を離してバングルを見つめていると、その視線の先にウィンドウが現れた。リンネが映っている。
「美空さん、今大丈夫ですか?」
「うん。ちょっと本読んでたところ。大丈夫だよ」
バングルは広大な図書館の中で装着者の位置を特定する機能もあった。
「すみません、読書の途中で。私の部屋に来ていただけますか?」
「え?リンネの部屋に?いいの?」
漂着して3週間。居住スペースの一番隅にあるリンネの部屋には、まだ立ち入ったことがなかった。
「はい。美空さんにご協力いただきたいことがあって」
「……わかった。行くね。ちょっと待ってて」
◆
リンネの部屋の前に着くと、美空はドアをノックする。ややあって「どうぞ」という声がした。ドアは簡単に開き、リンネの私室へと入る。
「お呼び立てしてすみません」
リンネの私室は美空の使っている部屋とほとんど変わらなかった。強いて言えば壁沿いに積まれた本とベッドに鎮座する大きな熊のぬいぐるみくらい。
「私の協力が必要って、何かあったの?」
美空はリンネが座る机に歩み寄った。
「はい。先程の定時連絡の際に説明がありました。こちらが資料です」
美空にも見えるようにウィンドウが表示される。
「漂流者との共感、試験……?」
共感試験。自分がリンネのことをどれだけ理解しているかのテストだろうか。美空はそんなことを考えていた。
「はい。私と美空さんの意識場パターンの相性が知りたいそうです」
「意識場……?」
初めて聞く言葉だ。美空が必死に考える素振りをしていると、リンネが戸惑いながら声をかけた。
「もしかして美空さん、精神物理学をご存じない、ですか……?」
「精神物理学……?」
それもまた初めて聞く学問分野だ。少なくとも美空が生きていた中でそんな名前の学問を見聞きしたことはない。リンネは美空の語調と表情からそのことを読み取ったのか、少し目を丸くした後、言った。
「すみません、また混乱させてしまいましたね……ご説明します」
ウィンドウの表示が切り替わる。人間のピクトグラム。その頭部から円状に何かが広がっているアニメーションが表示されている。
「まず、私達の脳は精神の活動に伴って『意識場』というエネルギーを放出しています。精神物理学はこの『意識場』の物理的性質を研究する分野です。そして……」
表示が変わる。人間の図が二人になった。意識場を意味する波状のアニメーション同士が、ちょうどベン図の重なる部分のように接触している。
「『共感』とは意識場同士を干渉、同調させることで、その人の思考や記憶、感情などを主観的に読み取る技術です。言い換えれば、相手の心の中に入る技術とも言えます」
違う脳を使って思考している以上、究極的には決して知ることのできない相手の心。美空の知る共感とは、相互理解のためにせめて歩み寄ろうという努力だった。それがこの世界では文字通り相手の気持ちを自分のものとして知ることができる。共感。皮肉な名前だと美空は思う。
「今回のタスクでは、私と美空さんが共感を行うことで、意識場の持つ固有パターンの相性を調べるというものです」
リンネが説明を終えるとウィンドウが消えた。
「美空さんの反応を見るに基底現実ではまだ発見されていない現象だと思いますが、おそらく美空さんにも意識場はあるはずです。まずはそれを確かめます。くーた」
リンネが呼ぶ。しばらくすると統括個体がマニピュレータでドアを開けて入ってきた。その後ろには子機たちが列を成している。椅子から立ち上がったリンネは、床の広い場所にぺたんと座った。
「美空さん、向かい側に座ってください」
美空は頷くと、ロングスカートの裾を踏まないように正座した。眼の前には相変わらずぶかぶかの黒いパーカーを着た小柄なリンネの姿。
「セッティング」
リンネの音声コマンドを受けたくーた達が一斉に動き出した。統括個体はリンネと美空の間に移動し、子機たちは二人を取り囲むように円形に並ぶ。
「遮蔽フィールドを展開」
子機たちがそれぞれゆらゆら動き出した。猫耳のついているあたりから波のように光が流れ出し、二人をドーム状に囲む。光はすぐ空間に溶けるように消えてしまった。
「美空さん、くーたに触れてください」
そう言いながらリンネは統括個体の上部に手を置く。美空もそれに倣う。
「セット。意識場測定開始」
二人に見えるようにウィンドウが水平に表示される。英数字の列が勢いよく流れたあと、脳のイメージ図が二つ現れた。リンネが笑顔で美空を見る。
「よかった。美空さんにも意識場はあるみたいです」
「お、おお。そう、なんだ」
「これからくーたを媒介に私達二人の力場を同調させます。五感で感じるものが大きく変わると思いますが、私がついているので心配しないでください」
「わ、わかった」
リンネは真剣な表情になるとくーたに指示を出し始めた。
「ゼロポイント同定。形象化リミッター設定。意識場調律……よし。共感術式、起動」
途端に美空の感覚に異変が起こる。
視界が両側から引っ張られるように引き伸ばされていき、眼前のリンネの顔が判別できないくらい細くなっていく。
最後には文字通りぷつんとブラックアウトした。
「……さん。美空さん、聞こえますか?」
はっと気がつく。眼の前にはさっきまで向き合って座っていたはずのリンネが立っている。体に意識を向ければ、自分もまた立っていることに気づいた。
「ここは……」
リンネの部屋ではない。壁も床も真っ白な部屋にいる。
「ここは2つの意識場の接触地点。互いの心の入口がある場所です。見た目から通俗的に『ホワイトルーム』と呼ばれています」
美空はあたりを見回すと、自分の後ろに白いドアがあることに気づいた。リンネの背後にも同じものがある。
「これはまだ『共感』の最初のステップです。今回の目的のためには、より深く意識場同士を結び付ける必要があります」
「それってどうすればいいの?」
「私の中に行きます」
「リンネの、心の中に……」
「はい」
リンネは美空の手を取ると、そのまま背後の扉に向かう。
「ちょ、ちょっと待って」
美空は慌てた。リンネは首をかしげる。
「そんな簡単に心の中に入っちゃっていいの?」
当然の疑問だった。
「はい。これは必要な実験ですし……」
一度言葉を切る。
「美空さんなら、いいんです」
信頼に満ちた笑顔でそう言いながらドアを開け放った。ドアの向こうから光が流れ出し、真っ白な部屋を塗り潰していく。
その先にに広がっていたのは、夕焼けの空だった。美空は下を見て戦慄した。下にはただオレンジの空が広がっているだけで、地面のようなものは何もない。
慌ててリンネの華奢な肩に抱きつく。
「大丈夫ですよ。ここは私の心象風景で、現実じゃありませんから」
困ったように笑うリンネ。美空は少し安心したが、それでも奇妙な浮遊感や、頭の中をくすぐられるような感覚には慣れない。何しろ他人の心象風景というものを生まれて初めて五感で味わっているのだから。時折少し強めに吹く風も、眼の前の大きな太陽の眩しさも、どう考えても現実としか思えないリアリティがあった。
(あれは……?)
上空、つまり美空が上を見上げると、そこには街があった。全貌はわからないが、巨大な球形をしているようだった。まるで一つの星だ。天と地が逆転した世界の中心で、二人は向かい合っていた。
「ここはまだ浅い階層なので、実験のためにはもう少し深い場所に行く必要がありそうです」
今にも街が落ちてきそうな夕焼け空の中、リンネが言った。深い場所、つまりより深いリンネの心の中に行くということだ。
「コードアレイ3基解凍。感覚マスキング展開。強制サルベージはスタンバイ状態で待機」
胸に手を当てながら呪文のようにコマンドを唱える。するとぽうっという光がその手に宿る。リンネはそのまま美空に向かって手を伸ばし、鎖骨のあたりに触れた。美空の体が温かな何かで包まれる感覚。それは全身を覆うとすぐに消えてしまった。
「今のは?」
「感覚マスキングです。たとえば体に傷を負ったとして、これがあると『痛みを感じている』ことは知覚できますが、痛みそのものは感じないんです。共感中に他人の感情や記憶に飲み込まれないためのバリアのようなものですね」
「なるほど」
「美空さん、手を」
リンネがもう一度美空に向かって手を伸ばす。美空はその手を取った。
「もう少し深く潜ります。……感覚フィードバック60%カット」
リンネの言葉と同時に、世界が塗り替わった。夕焼けの風景は歪みながら消え去り、新しい景色が現れる。美空の足に地面を捉えた感触が伝わってきた。
(これは……)
灰色の空、立ち込める霧。緑の芝生に点々と突き刺さる古びた石造りの十字架。まるで海外の墓地のようだった。
「深度確認……クリア。実験可能なレベルまで来られました。少し歩き回ってみましょうか」
美空と繋いだ手を離して、リンネが言う。二人は並んで歩き始めた。
立ち込める霧のせいでとにかく視界が悪い。十字架は大小さまざまだったが、一様に欠けたり風化しかけていたりと、かなり古いもののように見える。
「美空さん、気分や感覚は大丈夫ですか?」
「うん、今のところは」
「良かったです。本当に安全な共感を行うにはそれなりの設備が必要なんですが、くーた達のおかげで十分やれていますね」
汎用無人機であるくーたには、統括個体と子機達をリンクさせることで擬似的に高度な並列演算を再現できるという機能が備わっていた。本来大掛かりな装置が必要なところ、くーた達だけで同レベルの共感が行えている事実は、彼らを開発したUNCHESの技術力の高さを物語っている。
しばらくすると霧が晴れてきた。遠くにひどく歪な形の山並みが見える。
ふと、美空の意識体が声を捉えた。それはささやき声のようで、何を言っているかまではわからない。だが確かに聞こえている。
美空はその声のしたほうを向き、思わず一歩踏み出した。
その時だった。
上げた足を下ろす前に、三度世界が塗り替わった。
これまでとは打って変わって、真っ黒な空間。地面だけがぼんやりと白く発光していて、光の粒子がゆらゆらと上に登っていく。
「ねえ、リンネ。これも……」
そこで気づく。リンネの姿がない。
「え、うそ……」
慌てて手首のバングルに触れるが、何も起こらない。極度の緊張感が美空を襲う。
そうしている間にもささやき声は聞こえていた。
(リンネ……)
リンネはこの『共感』に相当慣れている様子だったし、きっと自分のことも見つけ出してくれるだろう。何しろここは彼女の心の中なのだから。メーターの振り切れた危機感と不安が必死に楽観的な思考を生み出す。
そうしている間にもささやき声は聞こえていた。美空はリンネが助けに来られるヒントになればと、意を決して声が聞こえる方向に向かうことにした。ヒールの音が鈍く響く。発光する地面は一見無機質だが、木の床のような弾力と柔らかさがあった。
(……あれ、は)
モノクロの空間の中で、地面に座り込む人影を見つけた。明るい色のボブにパーカーの後ろ姿。
「リンネ!」
美空は大きな声で呼びかけた。人影は膝を抱えて座ったまま振り向く。その姿には違和感があった。今のリンネよりも明らかに幼く見えるし、眼鏡もかけていない。
「だれ」
「私だよ。美空。急にこんなところに来ちゃって。でも安心した」
安堵感から矢継ぎ早に言葉を並べる。だが眼の前のリンネは首をかしげるばかりだった。
「みそら……あなたのなまえ?」
「え?」
「わたしはコード025。ずっとここにいる」
「あなた、本当にリンネ?」
「りんね。わたしのなまえ。どうしてしってるの?」
眼の前の少女はリンネで間違いない。しかし美空の知る彼女ではないようだった。
「おねえさん、すわって。立ってる人とすわったまま話すのはいけないって本に書いてあった」
ぽそぽそと呟くように言う。
「あ、ごめん。座るね」
美空は幼いリンネの隣まで歩いていき、並ぶように座った。
「どうしてここにいるの?」
幼いリンネが問う。
「私にもわからない。正直、結構混乱してる」
「そう……つれていってくれるわけじゃないんだ」
「それは……」
「いいよ。気にしない。なれてるから」
慣れている。その諦観じみた言葉は何度か現実のリンネが言っていたのをよく覚えている。
「わたしはね、ここから出られない。つらくて、かなしくて、たまにすごく怒ってる」
美空は黙って言葉を聞いている。なぜだかは説明できないが、それはリンネの本心のように思えた。
「だれもたすけてくれない。なにもたすけてくれない。こんなセカイ、わたしはいらない」
彼女の言うセカイがこの精神空間を指すのか、それとも滅亡の迫った複層現実を言うのかはわからない。それでも美空は眼の前の少女から強い怒りと悲しみを感じた。まるで自分のものかのように。リンネが共感の説明をしていた時に言っていた通り、今美空はリンネの心を自分のものとして体感している。
「おくすりをのんで、おはなしをした。丸い子たちにくーたってなまえをつけた。先生はそれでだいじょうぶっていってたけど、そんなのうそ」
美空は何も言えない。
「でもはかせたちとやくそくをした。ぜんぶおわったら、わたしのおねがいをひとつ聞いてくれるってやくそくした」
「……あなたは何をお願いするの?」
幼いリンネは沈黙する。言いたくないことなのだろうか。知られたくないことなのだろうか。美空が逡巡していると、リンネは立ち上がって言った。
「『わたしをここからだして』って」
「……っ!」
もしも眼の前のリンネが彼女の心の一部なのだとしたら。
閉じられた世界。喪失の連続。繰り返されてきた失意。慣れたなんて嘯いても、心の奥底、きっと本人すら自覚できないほど深いところでは、自分の置かれている不条理な状況に怒り、嘆く気持ちがあったのだ。
「私は……」
美空は立ち上がったが、言葉を言い終わる前に、その体を淡い光が包み始めた。
「行っちゃうんだ」
小さなリンネが心底残念そうに言う。
光はどんどん強くなっていき、その眩しさに目を細める。
「またね、おねえさん」
光が視界を塗り尽くす最後の瞬間、幼いリンネがそう言ったのが聞こえた。
◆
はっと気がつくと、そこはリンネの部屋だった。眼の前には現実のリンネ。見たことがないほど心配そうな顔で見ている。
「大丈夫ですか?精神空間の中で急に消えてしまったので……とても、心配しました」
「ごめんね。私も急に違う場所に行っちゃって」
「そうだったんですね。ともかく無事で良かったです。感覚や感情に異常はありませんか?」
美空は自分の内面に感覚を向けるが、特に変わったことはない。リンネが事前に準備していた感覚マスキングとフィードバック緩和のおかげか、突然深層に落ち込んだにもかかわらず、異常はなかった。
「意識場も安定していますし、ひとまずなんともないようですね」
ウィンドウの表示を見ながらリンネがほっとした様子で言う。
(観測されたのは美空さんの共感深度のスケールアウト。たぶん深い場所に迷い込んでしまったはず)
実はリンネが行った準備はあくまで一般的に共感を行う際にするものであって、何も特別なものはなかった。感情や記憶のフィードバックを防ぐ感覚マスキングも、美空が光に包まれたと体験した強制サルベージも、精神を守ったり、いざというとき強制的に現実空間に意識を引き揚げるたりするため、共感時には必ず用意しておくものだった。
(意識場の性質の問題?それとも美空さんの共感適性が高かった?いや、違う、たぶん……)
――現実強度の高さ。リンネが思い至った結論だった。現実強度は存在の確かさを測るスケールであり、それが高いということは存在として安定していることを意味する。リンネは知識から共感には現実強度も深く関係すると知ってはいたが、基底現実の住人である美空の高い強度がここまでの影響を及ぼすのはまったくの想定外だった。
「美空さん、感じられていなくてもおそらくかなりの負担がかかったはずです。少し私のベッドで休んでいてください」
「まあ、リンネがそう言うなら。ベッド借りるね」
二人は立ち上がる。美空はベッドまで歩いていくと布団をめくってヒールの靴を脱ぎ、体を横たえた。ふわりと甘い匂いが美空を優しく包み込む。リンネの匂いと極限の緊張感から解放された安心感、それから布団の柔らかな感触に包まれ、美空のまぶたが重くなっていく。
リンネはそれを見届けると統括個体のくーたにいくつか指示を出し、自分は机の前に座っていくつもウィンドウを開いて何かを始めた。
「ねえ、リンネ」
「はい?」
椅子の背に肘を掛けながら振り返る。ベッドに横たわる美空は天井を見上げる姿勢で目を閉じていた。
「実験はうまくいったの?」
「……はい。私達の意識場はかなり相性が良いという結果が出ました」
それは美空の現実強度ゆえのものでもあったが、実際のところくーた達が算出した二人の意識場のデータは、現実強度を抜きにしても相性の良さを物語っていた。
「よかった……」
美空は消え入りそうな声でそう言った。程なくして寝息が聞こえてくる。やはり疲労はしていたのだ。
(……大丈夫かな)
現実空間に戻ってきてからずっと、美空の様子、特に表情はどこか変だった。
(何か、見たのかもしれない)
美空が迷い込んだのはリンネの心の無意識領域の深層であり、そこで対話した少女はヒトの形を取った感情だった。
二人ともそれぞれにそのことを知らぬまま、実験は終了した。
美空が眠っている間、リンネは忙しく手を動かして報告書を作成する。くーた達から送られたデータに出来上がった報告書を付けてUNCHES本部に送信した。
(よし、と)
再び背後のベッドを振り返る。美空は相変わらず穏やかな寝息を立てていた。
意識場が発見されていない世界から来て、突然共感を行って、あまつさえ異常事態を体験したのだ。穏やかな寝顔には安堵したが、リンネは僅かな不安を感じていた。
自分の心の中を見られても構わないと思えるくらい、リンネは美空を信頼していた。
だがリンネとて10代の少女であり、1人の人間。隠しておきたい気持ちの一つや二つはある。もしかしたら美空にそれを知られてしまったかもしれないという不安。そしてそれを知った美空が自分に失望しないかという不安。
事実、美空は見ていた。リンネ本人ですら自覚できないほど深層に追いやられた感情。世界への失望と呪い。
(嫌われちゃうよね……)
いくら美空が優しくても、そんなものを体感したら引いてしまうに決まっている。リンネはそう考えていた。
『……かった』
(え?)
突然、頭の中に直接声が響く。
(これは……意識場の残渣?)
『……きたくなかった』
(美空さんの意識?でも……システムもなしに……どうして……?)
共感術式はとっくに終了している。にもかかわらず美空の意識場はリンネの意識場と未だ緩やかに干渉を続けていた。その影響が意識に上っているのだ。
『生まれてきたくなかった』
(……!)
美空の声で語られる絶望的な言葉。優しくて、年上なのに可愛らしく感じることもある美空の声が、頭の中で呪いの言葉を呟いている。その言葉はリンネの頭の中ので何度も繰り返され、ハウリングするようにどんどん大きくなっていく。
(これは……いけない……!)
リンネは慌てて机の引き出しの一番上を開け、文房具と一緒に入れられていたペン型の注射器を取り出す。右手で握りしめて首筋に突き立てると、グリップの頂点についてるボタンを親指で押し込んだ。素早く薬剤が血管に注入され、脳へと運ばれる。
「はぁ……はぁ……」
荒い息を吐きながら机に突っ伏す。注射器の中身は意識場を発する脳の部位の活動を抑制する鎮静剤だった。
(美空、さん……)
リンネは美空の抱える呪いの言葉を聞いてしまった。そして美空もまたリンネが深層へ追いやった感情に触れた。
互いがそのことを知らぬうちに、互いの心の暗部に触れた。
それはまさしく、普段の穏やかな世界の裏側だった。
◆
――同日夜、UNCHES日本支部。箕作ユキナのオフィス。
「それが、本部の最終決定なのですか」
本部からの知らせはリンネの専属カウンセラーであるユキナにも届いた。
「はい。上がってきた報告書とデータを元に最終的な決議が行われました。これは決定事項であり、各タスクの遂行は命令となります」
黒いスーツの黒人男性がホログラムのウィンドウに表示されている。
「技術者ではない私にこれを知らせるというのは、やはり……」
「はい。本プランの結果について、あなたによるケアが必要になることが予想されるためです」
それはつまりリンネに相応の負担がかかることを前提としているということになる。
「漂流者の方に対しては?」
「カウンセリングのほか、投薬をお願いすることになると思われます」
ため息をつく。
それでも本部の言い分はまったく理解できないものではない。世界を救える可能性が少しでも高くなるのであれば、使えるものは何でも使う。UNCHESというのはそういう組織だ。それはユキナもこれまで嫌と言うほど味わってきた。
「入館の許可は」
「それはできかねます」
再びため息をつく。せめて直接会って共感を使ったケアが出来ればと思ったのだが、図書館のセキュリティは非常に固い。入館の許可はよほどの緊急事態か、内部に技術的な問題が発生した場合以外、易々と下るものではない。
「仕方ありませんね。従うほか選択肢はないのでしょう」
「ご理解感謝します」
男性がそう言うとウィンドウが消えた。美空はデスクに肘をついて手を組んだ。幼い頃から通信越しではあるが、カウンセラーとして、時に大人として接してきたリンネ。その彼女に今これまで経験したことのないほど重大な指令が与えられた。このことがリンネに伝わっているかはわからない。だが司書を差し置いて一介のカウンセラーにここまで重要な事項を伝えることなどありえない。
(リンネ……)
リンネとの対話から、綾川美空という人物に対する愛着感情と好意は十二分に伝わってきていた。リンネがこのことを知ったとして、その心は大丈夫なのだろうか。ユキナの懸念はそこにあった。
ユキナは少し考え込んでからホログラムのウィンドウを開くと、膨大なリストの中から一つのアドレスを探し出してタップする。小さな呼び出し音の後、画面に映ったのは癖の強い赤毛に大きな丸眼鏡が特徴的な若い白人女性だった。
「ネブラさん。こんにちは。お忙しいところ突然すみません」
「いやいや、準備はもう終わったんでいいっすよ。ミス・ミツクリ」
軽い口調で飄々と答える。
「お願いがあるんです」
「単刀直入っすね」
「最新の計画書に目を通しましたが、あなたには入館許可が下りていますよね」
「ああ、そうっすね。無人機じゃ最終調整はできないんで、あたしが。いやあ、久々の図書館だから楽しみっすよ」
「入館時、司書に渡して欲しいものがあります。転送しておくので、持って行ってもらってもいいですか?」
「あたしは全然いいんすけど、大丈夫なんすか?」
「はい。『司書の私物』と言えば審査はクリアできます。嘘は言っていません」
「んー、わかりました。確かに渡しておきすよ」
「ありがとうございます。頼みました」
「へい、頼まれました」
ネブラと呼ばれた女性は敬礼のようなポーズをする。それと同時にウィンドウが消えた。
ユキナは立ち上がると本棚に向かって歩みを進め、その棚の隅にあった引き出しから、ロケットのついたペンダントを取り出す。蓋を開けると、赤ん坊を抱く眼鏡の女性が映った写真が現れた。ぱちんと蓋を閉めると、手に持って再びデスクに向かい、便箋を取り出して何かを書き始めた。
眼の前のウィンドウには計画書が映し出されている。
そこには『漂流者の固有現実強度によるユニットLの強化――プランL+――』と書かれていた。
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