2・コーヒーと番(つがい)
「しかしあの女、旦那のところの宇宙船
この間火星から岩尾島に逃げてきた節子さんの話をしている、仲良し女性四人組。みなこの島にある地学研究所の食堂で働いている。今日は早番の退勤時間が揃ったことでうちの店に寄ってくださり、そして井戸端会議に花が咲き乱れている。
事実関係からの噂話、そして憶測まで。どれもこれも、調理場の同僚の耳に入れたくない内容であろう。うちの店が空いている間を見てこれでもかと発散せんと言葉をぶつけ合う。
四人とも、コーヒー一杯ずつと、ピッチャーのお冷だけでかれこれ一時間は粘っている。話題が次から次へと飛躍して、その軌道はとどまることを知らない。この店の特性上、飲食業界でいうところの「回転率」はあまり考えないことにしている。
とはいえ夕方の喫茶店の空間を彼女たちだけで、きゃあきゃあと騒ぎながら独占している姿には、やはり疑問が残る。とはいえこちらも彼女たちが盛り上がっているうちにこっそり閉店準備を少しずつ進めているので、あまり口うるさく指摘しないでいる。
店内の巡回をするふりをして、空いているテーブルの拭き掃除をしていたとき、四人の中のリーダー格である北川さんに呼び止められた。
「ねえ可哀想だったでしょうあの女の人。お兄さんも、オンナを泣かせるようなことしちゃだめよ!」
えっ、はいと空回りな返事をしたら、今度は南谷さんが続いた。
「いや、むしろ鬼の兄さんは謙虚すぎる。いいカラダしているのに勿体ない、もっと女の子に自分をアピールしたら?」
体つきは生まれつきのものなので、と自分でも的はずれな答えを言うと、彼女の隣りにいた西条さんが一言。
「早くいいお嫁さん見つけてきなさい!」
流石に苦笑いするしかなかった。自分の結婚相手とは、とぼんやり考えていたら、東村さんが申し訳無さそうに、
「あの、巌さんってどのような女性がタイプなんですか?」
考えたことがない。
このままだとこの四人に質問攻めされっぱなしだ。仕事が残っているので、とお断りを入れてその場を立ち去る背中の向こうでは、第何回目かの「巌さんの理想の相手を考える会」が開かれていた。みな調理師という仕事だからだろうか、人のお世話をしたがることで自分の親心的欲求を満たそうとしているのだろうか。
十九時の閉店時間。コーヒー一杯ずつのお代を頂いたとき、帰り際に北川さんが一言。
「このままだと、ずっと独りぼっちになっちゃうわよ。」
そうなのである。この島で、あの社で、独りぼっちだった。意思のない概念として、この先もモヤモヤとした何かのままだと思っていた。ずっとそのままのはずだった。
二十一時ごろの研究所の寮。私はほぼ毎日、ここのお風呂をお借りしている。自分の居室にもユニットバスはあるのだが、身長二〇〇センチ以上ある私はおろか、普通の人間にとってもコンパクトな作りになっていて、正直窮屈で困っていた。その狭さのおかげで浴槽はオフシーズンのモノの物置と化している。
寮の大きな共同浴場ならゆっくり疲れを流すことができるので、夜道をわざわざ歩いて通い湯をするこの習慣が、実のところ日常の楽しみになっている。
更衣室の暖簾をくぐると、しびれるような低い声が聞こえた。
「お、巌さんじゃねえか。」
鉱物学の教授である峠先生であった。お忙しい方と聞いていたから、この時間の入浴は珍しい気がする。
「先生と一緒とは奇遇ですね。一緒に湯に浸かりましょう。」
二人で浴室に入り、洗い場の椅子に腰掛ける。風呂桶の湯を頭からざばあとかぶる峠先生は、細かいことを気にしない豪快な性格である。ワシャワシャと頭をかき、上から湯をかぶっても滴る水滴を払うことなく、持ち込んだ白いタオルで乱暴に垢すりをする。そして桶の湯をざばあと肩からかぶり、そのまま浴槽へと向かった。
一方、私は流し場でまだ慣れないボディソープをナイロンタオルで泡立て、我が身をゴシゴシと摩擦してゆく。目に見えない膜が少しずつ浮いて剥がれていく感覚がする。
自分の身を丁寧に清めたのち、独り者には贅沢な広い浴槽に入る。足をゆっくり伸ばし、底面に座する。視線の先の、湯水に揺らめく足の爪先の形をじっと見る。爪先に意識を集中させ、全身がゆっくり伸びてほぐれていくのを感じ取る。次に手を組み腕を伸ばす。自分の手が届く範囲をじっくり心に染み込ませる。形あるものとして生まれた不自由さを、実体のある身の振る舞いの自由へと置き換える。
この体、この形、この色。私は「これ」で生きていく、この先も。とぼんやり物思いに耽っていたら。
「おお、水球選手のようないい身体だねえ。筋肉の上に程よい脂肪があって、いやらしい身体だねえ。」
いやらしい、と言われて戸惑う間もなく、峠先生は私の身体をバシバシと叩いてきた。もともとの豪快さとは違う、なにかを求めてくるようなスキンシップの仕方だった。
「いやね、今二人だけだから言うけど、自分女も男もイケる口なんでね。」
「えっと、カミングアウトというやつですか? なぜここで急に。」
あれ、先生には女性の奥様がいてしかもお子様もいたはず。
「まあ、カミさんには呆れられているけどね、厄介事を持ち込んでこないでって。」
病気と、愛人とかだろうか。
「まあそんな生まれなんで、たくましいアンちゃんを見るとね、放っておけなくてね。」
少し、お話しておくべきか。
「私のこの身体はですね、もともとこの島に住んでいた皆さんの願いから生まれたものですから。迂闊には……。」
迂闊には。なんだろう。
「峠先生は、奥様とはなぜ結婚されたんですか。男性も好きになれるとなると、迷いませんでしたか。」
「そこは、勢い、だよ。こいつとなら添い遂げられると思ったら即告白さ。」
添い遂げられる相手。
「
ボソリと湯面に落とす言葉。
「まったく、鳥じゃないんだから。ほら、ほら、ほら!」
峠先生に肩を掴まれ、湯面がバシャバシャと波を立てんばかりに揺さぶられた。もしかして、今何かを求められているのだろうか。不安と焦りで顔がこわばった私は、肩を掴む手を振り払い、足早に更衣室へと向かった。
「セクハラで訴えてもいいんですよ。全く峠先生は。」
夜の守衛室にいたのは、警備員の南谷透さん。夕方にうちの店に来た調理員の南谷さんの旦那さんにあたる。うちの連れが毎度すみませんねえ、という世間話を窓口越しに展開していたら、先の浴室の一件に話題がつながった。
「でも、人と人とが一緒になる条件を考えさせられてしまって。」
「そんなの事前にわかってたらつまらないじゃないですか。あと、恋は瞬発、愛は持続。その違いもあるんじゃないですか。」
「瞬発と持続、ですか。」
「まあじっくり考えてくださいよ。またコーヒー飲みに行きますから。」
釈然としないまま守衛室の窓口をあとにした。男と女、人と人。そこに鬼の自分。仲良くなるってなんだろう。
かつて私も、人と人とのつながりのお願いを聞いていた、はずである。「はずである」というのはぼんやりとした意識でしか覚えていないからである。そして、人の御縁をつなぐことは、できたのだろうか。ただただ、願われていただけの概念であったのに。
「私の番は、求めていいのだろうか。」
浴室でもつぶやいた単語を、晩夏の夜空に溶かした。
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