3・この島とボールペン(上)
火曜日。定休日。朝七時。
いつもは五時に起きて店の仕込みをしている私も、少しだけ遅くベッドから立ち上がる。
背伸びをすると、ワンピースの形をしたグレーのパジャマが腕の動きに引っ張られて、裾から膝が少し覗いた。ふと視線を下に落とすと胸ボタンが少しほつれていた。後で縫い直さないと。
しかし、このパジャマも五年近く着ている。意識が少しだけ、この世に生まれいでたときに遡った。
寝室代わりにしているのは、この建物がホテルであった頃の客室、二〇一号室。その窓から見える海の光景は、どこまでも鮮やかな姿を見せていてこちらが不意に涙しそうになる。
こんな広い世界、自分はもっと見て回るべきか、それとも島と最期まで添い遂げるか。
パジャマをおもむろに脱ぎ、クローゼットから白いTシャツと黒いチノパンを取り出し、着替える。
仕事着とは違い、リラックスムードの朝日をリラックスした服装で浴びる。ああ、今週も休日が来たなあと、紫外線を肌に染み込ませながら実感を湧き立てる。
二階の寝室から階段を降り、誰もいないホテルフロントを横切ったら、かつての喫茶コーナーを改装した自分の店に下りる。
冷蔵庫には昨日の残りのサンドイッチをふたつ、ラップでくるんでしまっておいてあった。そのうちの片方、ミックスサンドのラップを開け皿に乗せ、淹れたてのコーヒーの横にそっと置く。
ひとり時間、静かな時間、サンドイッチをかじる。営業時はつけるジャズのBGMチャンネルも放ったらかし、食器の音だけをかすかに響かせる。
軽い朝食を済ませたら、食器をすぐさま洗って拭き、冷蔵庫に残っていたたまごサンドを持って二階へ上がる。
コーヒー色のショルダーバッグ。先週水曜日の定期便で届いた、通販でのお買い物。その中に先程のサンドイッチ、冷たいお茶入りの水筒、財布、〇・三ミリ径のボールペンとスケッチパッド(画用紙をメモ帳のように綴じたもの)を押し込む。
初めて使うものに、自分の好きなものを詰め込む時間のときめきを抑えきれず、フラップの留め具をぱちんと留めるやいなや、左側に肩かけてその場で、くるりと一回転した。遠心力でふわりと浮くショルダー。それを知るのは自分ひとり。
【ケータイは携帯しなさい 向後】
勢いづいて外に飛び出そうとした時に目に入ったドアの張り紙。そう、通信手段を携帯しないまま家を出ることがしばしばあったので、出張所の向後さんにきつく叱られ、ここに注意書きを貼られたのであった。
普段はずっと店に入るので、肌身離さずケータイを持つという習慣が、未だに身についていない。慌ててベッドサイドにあったケータイをカバンのサイドポケットに入れて、勝手口へと向かう。
赤いフレームのママチャリに乗って、島を西側へと回る。海を左手に眺めながら、右奥の目的地へと向かう。腰に乗っかるバッグの重みにはまだ慣れない。
右手に見えるのは住人のいない家々。窓ガラスが割れているところもある。一方で凛として建っている研究所の姿とは大違い。人の営みがガラッと変わったこの島を、哀しく象徴する対比である。
程なく、朽ちかけた看板が見えてくる。
【圭太郎池海水浴場 左】
自転車も左に向け、ズンズンと伸びすぎた雑草に囲まれた道を駆け下りる。磯溜まりが見えてきた。プールのように岩で囲まれた、穏やかな海。
かつて海水浴客で賑わったであろう階段に座り、水筒のお茶を一口飲んで、ボールペンとスケッチパッドを取り出す。
水平線の方角にまっすぐ視線を向けると、入江の稜線が際立って浮き上がってきた。今日はこれにしよう。ペンのキャップを外す。
ガリガリとした摩擦音に合わせ、白い画面に黒い痕跡が浮き上がってくる。ボールペンなので失敗は許されない、しかしひと思いに線を引く。前進あるのみ。
岩場の凹凸、さざ波の白い隆起。青い空に白のペイントナイフが擦られている。潮溜まりの湿気、雲が落とす影の色。
どれもこれも、私には描くことができないスケール。
どれもこれも、私は似せて描くことしかできない。
いま私は、現実の自然という大作品の模写をしている。自然のミュージアムの中で、似姿を紙にしたためている唯一人でしかない。この限りない空気の包まれた、ちっぽけな身長二〇〇センチの存在。波打ち際にあぶくが集う。
最後に、何人もの人間が触ったであろう海水浴場の手すりを描き上げ、一応の完成を迎えた。視点が一気に丘側に戻る。今日の作品はどこに飾ろう。
そういえば、お茶を一口しか飲んでなかった。水筒の中身を乾いた喉にグビグビと通す。
さて、と。
日はまだ高くない。ケータイを見てみると、まだ十時過ぎであった。
「あそこに……行くかな。」
画材をカバンにしまい込み、よいしょと立ち上がってママチャリにまたがり、ペダルをゆっくり踏みしめて、さっき来た草むらをかき分ける道を少しずつ上る。
圭太郎池の海水浴場から更に西に向かう。通行止めを表す道幅いっぱいの車止めにぶつかる。この先は研究所の人間もまずは入らない。
「あら、巌さん、どうしてここに?」
気の抜けたような高音で呼びかけたのは、出張所の職員である、向後リサさん。見ると側に公用車のワゴンを停めている。
「巌さんも、神社の中に入る気でいました?本当は、だめなんですけれども。」
二人を見守る【巌神社】の石碑。しかし側には神社らしい鳥居が建っていない。その代わり林の合間には、申し訳無さそうに置かれたカラーコーンが、ここには入ってくるなと鎮座している。
「ああ、たまにはこの土地に、挨拶をしておかなきゃなと思いまして。」
木陰から吹く風。二人はコーンの忠告を無視して林へと分け入る。
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