1・カミさんとバナナパフェ
今日は水曜日。もうすぐ十四時。島の海に汽笛が低く震える。にわかに向こうの港が慌ただしくなる。ネクタイを締め直して、コーヒータイムのラッシュに備える。
程なく「純喫茶キシン」は船からのお客様ですぐ満員になった。観光客は基本的にいない島に、船員ばかりの団体様。もともとこの喫茶店はカウンターに五席、四人がけのテーブル席が三揃い、合計十七席しかない小さな空間ではある。しかし、一般住民のいなくなったこの島としてはとても珍しい、茶話スポットとして重宝されている。
「なあ鬼の兄ちゃん、バナナパフェ一つ。」
「かしこまりました。」
船員の制服を着た、熟年とも言えそうな渋い面持ちの男性が聞いてきた。今日は海運会社の施設で一泊するのだろうか。すでに昼食としてミートソーススパゲティを平らげている。食後のスイーツにしてはやや重めのオーダーだ。
「古川さん、また甘いものを頼んで、何なんですか。」
隣りにいた若い男性船員が問いかける。彼は大盛りナポリタンをすでに平らげていて、しばしくつろいでいる様子であった。
「小菅さあ、いやあね、しんみりした話になっちゃうんだけどさ。」
側にいた私と、小菅というらしい船員さんは背筋がきゅんと伸びた。
「先に逝ったカミさん、カフェ巡りが好きだったんだよねえ。隠れ家の喫茶店とかどこで調べたんだかわからないところまで足を運んで。休日は俺も付き合わされてさ、いろいろなものをテーブルいっぱいに頼んで食わされるんだよ。記念写真を撮りながらね。」
「いい思い出じゃないですか、古川さん。」
「馬鹿野郎、小菅。休日の朝くらい寝かせてくれい、と自分は当時思っていたんだけどさ、あんなに早く逝くとは思わなかったからさ。もう少し気前よく付き合ってやっても良かったなって、今になって思うのよ。」
私は場の空気をこれ以上暗くしないように、
「お気の毒に、でも奥様もいい思い出をたくさん抱えて旅立ったんじゃないですか。」
「いい思い出ねえ。だからバナナパフェなんだよ。あいつ、大きなパフェを毎回のように頼んで、ああ写真映えするわあ、なんて言いながら写真を撮って、その後ペロッと平らげて。」
「思い出のパフェだったんですねえ、古川さんにとって。」
小菅さんがふむふむと頷く。まだパフェカップには半分ほど残っている。
「うちのパフェが御気に召していただければ幸いです。あ、あちらから呼ばれたので失礼します。」
私は慌ただしく純喫茶のオーナーに戻る。古川さんはパフェのコーンフレークをガリガリ噛み砕きながら、眉間にシワを寄せていた。
「少し、喋りすぎたかな。」
食後に沈黙をする古川さんに、小菅さんが声を掛ける。
「たまにはいいんじゃないですか。奥さんとの楽しい思い出の話、ありがとうございます。」
「ありがとう。男一人が大きなパフェを食べるのは、今でも人目はばかられる気がするんだけど、ここ、この喫茶店なら許される気がしたんだよなあ。」
たしかに、男の甘味巡りは昔も今も、この時代になってもなお普遍的になっていない。
「本土だと、こういう雰囲気の喫茶店がなくなりましたからねえ。」
「人口集約の政策で、一気に古いものが潰された。きれいなレストランで食べるパフェは、悪いわけではないけど、なんというか、味というか空気が違う気がして。」
潰された喫茶店に漂っていた空気は、どこへ行き消えたのか。
「この純喫茶も新しいお店ですけれどね。」
「でも、なんとも言えぬ懐かしさを再現しようとする、あの鬼の兄ちゃんの努力には負けるさ。」
あんなに大きかったパフェを平らげるうちに、ネクタイ姿の鬼が戻ってきた。
駆け寄ってきたこの店の主に、古川さんは軽くうつむきながら口を開いた。
「なあ兄ちゃん。悪いけど。コーヒー頼む。こいつにも。二杯。」
「ブレンドとアメリカン、あとアイスコーヒーがありますが、どちらになさいますか?」
「ブレンドで。話を聞いてくれた礼だ。お代は俺につけておいてくれ。」
少し緊張して話を聞いていた私は、お礼を言いたいという古川さんの気持ちに心融ける思いをし、そして、気を引き締めてコーヒーを淹れに向かった。
木曜日の朝七時。この時間はコーヒーとモーニングセットのみを提供している。比較的軽い食事をお出ししつつ、その間に昼からのフードメニューを仕込むことにしている。
「鬼の兄ちゃん。ブレンド一つ。」
「いらっしゃいませ、あ、昨日はどうも。」
古川さんが仕事前に寄ってくれた。すぐさまコーヒーの準備をする。
昨日のランチタイムとは違い、お客様がまばらな店内。しかしパンとバターとコーヒーの香りがほのかに店を包んでいる、贅沢な朝の空間。こんな楽しい始業前を、昔の人はどれだけ楽しんでいたのだろうか。
「お待たせしました、ブレンドです。」
「なあ、鬼の兄ちゃん。」
コーヒーに手を付ける前に、声をかけられた。
「バナナパフェ、今度来るときも切らすなよ。」
思わず満面の笑みがこぼれた私は、深く一礼をした。古川さんが乗っている船便で届く食材は、余すことなくこの店で提供させていただきたい、それが私の使命だと思った。
純喫茶キシン、その空気はお客さんと一緒に作り上げるものであった。
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