純喫茶キシン〜島・鬼・コーヒー〜

赤岩 渓

プロローグ 赤いワンピースの女性

「あの、なにか冷たいものを、フラッペとか。」

 ギっと開いた喫茶店の扉。逆光で曇る真っ赤なワンピースに、首周りには黄色っぽい色柄のスカーフ。ずいぶんくたびれた顔をした女性が立っていた。

「あいにく、フラッペのご用意がありませんで」

「そうな、の?」


 私の顔の一部分に気づいた彼女は、思わず声を上ずらせる。しかしすぐに何事もなかったのように冷静な顔立ちへと戻り、案内されてもいないのにカツカツと安い靴の音を立ててカウンター席へと向かった。机の上に立てかけてあった、硬質プラスチックに挟まったメニュー表をしばしにらみ、マスターのおすすめは? とやや荒立った声で私を呼びつけた。


 お出ししたのは、ブルーハワイシロップ仕立てのクリームソーダ。フラッペはお出しできないけれど、少しでもクールダウンして気が楽になればと願って。


「青いクリームソーダねえ、お子様みたい。まあかわいいからいいけれど、貴方も今の私の気持ちがわかりそうにないねえ。真っ青な気持ちが。」

 荒々しい語勢に、八つ当たりしそうな荒んだ気持ちが現れている。それでも彼女はてっぺんに乗ったアイスクリームにスプーンを勢いよく挿し、大げさな口の動きで頬張る。動作の節々に震えるような怒りが見える。よほど苛立っているらしい。


「私、節子っていうの。マスターのお名前は?」

「あ、いわおとお呼びください。」

「巌さんねえ。こんな場所で純喫茶ぶった店をやって、なにか時代遅れじゃない? フラッペもないコーヒースタンドも久しぶりに見たわ。」


 右の窓からは一面の海、左の窓からは荒々しい山。そして客は節子さんただ一人。フラッペがないことよりも、純粋に寂れていることが問題なのである。


「時代に取り残されたんです、私は。」

「あら、せっかく海や山があるんだから観光客を呼べないの?」

「この島、ちょっと理由わけがありまして、一般の住民がいませんし、観光客もいらっしゃる環境ではないんです。」

「勿体ない。でもこの島の異様さはここ数日で肌で感じたわ。なにせ私が来ても驚かれなかったものの。騒がれはしたけど。」


 ストローでソーダを勢いよくすする。息をつく間もなく。


「しかし不思議ね。普通の住民がいないのに衣食住が成り立っている。でもなにか足りない。そんな空間。」

「だからこの店を始めたんですよ。実際、ランチの注文はちょこちょこ入ります。」

「でもさあ、ちょっと足りなくなぁい?」

 節子さんの視線が上向く。

「その頭のアンテナ、トレンドくらい受信なさいよ。」

「これですか、もう存在意義を失ったお飾りかもしれないですねえ。」

 私は額の、一双の白い角の右側先端を、指先でちょいとつまんだ。

 

「ところでこちらへは何をされに。」

 節子さんの顔が急にムスッとこわばる。そしてアイスを一口。

「逃げたかったのよ。自分の失敗から、あの人の傲慢から。」

「なるほど。」

 私は見てしまった。


「スカーフの下の痣。」

 ハッとした顔になり、手で首元を手で隠す節子さん、不意にアイススプーンが床に落ち、転がった。

「見えないところに傷をつければ問題ない、隠せるだろうという、その男のずるさには腹立たしくて仕方ないですね。」


 新しいスプーンを彼女の席に置き、床に落ちた食器を拾う。節子さんはアイスを串刺しにし、その後大口で頬張った。午後五時、そろそろ氷菓子が体に応える時間だ。

「お辛かったでしょう。」

 まずは、寄り添う一言をおかけした。幾ばくの沈黙が流れ、時計の時報が虚無な喫茶室に響いた。

「あの小型宇宙船。」


 節子さんが乗ってきて、島の空港に不時着した宇宙船。検疫や防犯の問題で大騒ぎだった。中から現れたのは、泣きそうな一人の女性。

「あれね、夫の職場からちょいと盗んできたのよ。あいつ、なんだかんだ言って宇宙航空の会社で成り上がったんだから。慰謝料にもならないわ、こんなの。」

「離婚、ですか。研究所内の出張所には相談を。」

「行った行った。うんざりするほど話を聞かれたわ。離婚と慰謝料の裁判はできそうだけど、この先の住まいがねえ、この島には住めないし。」

 窓越しに見える、白湯が冷めたような色をし始めた大海原。カップに残ったブルーハワイ色がますます嘘くさく際立つ。


「二日後の連絡船で本土に渡るわ。でもあれでしょ。本土は、障害者、高齢者、愛国者くらいしかいないって、火星では言われていたんだから。」

「節子さん、それは言い過ぎ、ですかね。」

 この島から出たことのない私は、否定しきれない。


「でも皮肉よねえ。急成長した教育技術が広まったら、みんな語学力やらなんやら引っ提げてどんどん海外や宇宙に流出して、そのまま相手国に帰化してしまって。その結果、土地によほど残りたいか、海を渡ることのできない人しかいなくなって、日本の国力が一気に下がったのがね。」

 グラスの氷が融け、カランと音を立てた。


「でも、ここの研究員さんは賢そうな人たちばかりで、この国も捨てたもんじゃないわと思ったわ。」

 長い回想を気だるく語る女性の姿は、何もかも諦めているような寂しさを携えていた。

「貴方もすごいじゃないですか。宇宙に行けるなんて、さぞかし勉学に励んだのでしょう。」

 アイスクリーム、最後の一欠を頬張る。


「そうよ、地球の男に飽き飽きして、勉強を必死にこなして。せっかく火星でハイスペックな男と仲良くなれて、玉の輿に乗れたと思ったら。」

 ため息。

「あいつにも、あいつを選んだ自分にもがっかり。」

「さぞお辛かったでしょう。」

 寄り添いの言葉をまた繰り返した。

 

「アイスの食べすぎて体冷やしちゃった。ホットコーヒーある?」

「ブレンドとアメリカンがあります。」

 ブレンドでと追加注文した彼女、ずいぶん表情が緩んだように見える。本土に渡ってからが勝負だろうが、今はこの場で安らぎを得て欲しい。


「それにしてもここに住む研究員? 公務員? 頭良さそうなのにずいぶんのんびりしているわねえ。もっと野心を持たないのかしら。技術力高めて宇宙で荒稼ぎとか。」

 私は、土色に薄暗くなった山を眺めながら言った。

「ここでしかできない何かを探求している彼らは、十分野心家ですよ。」

 頬杖をつき、私を見つめる節子さんは、腑に落ちない様子。


「貴方は?」

 私の野心。

「私は、見届けます、最後まで。」

「最後?」


 予告なしにきぃぃと、喫茶店の扉が開く。夕暮れの山を背に、島の出張所の女性職員、向後こうごさんがやってきた。こちらを振り向いたとき、かすかにボブカットが揺れた。


「あ、ここにいましたね、山口さん。」

 節子さんが、また疲れたような顔をする。

「先程のヒアリングのことで、またお伺いしたいことがありまして。」

「またあ? 何度目よお。」

「向後さん、コーヒー飲み切るまで待ってあげてください。」

 島の職員がソファーに腰掛け、暫し待つ。そろそろお別れの時間。

 

 本土との連絡運搬船は、毎週水曜日に寄港する。純喫茶で使う食材はその日に運び込まれるが、同時に休憩をしに船旅の人たちが、そこまで多い訳では無いがうちの店に寄る。


 そんな中、またあの赤いワンピースが見えた。節子さんだ。二日前とは違い、最初から晴れやかで力強い笑顔を振りまいていた。

「どうも、帰りにまたクリームソーダ飲みたくなっちゃって。」

「それはどうも。光栄です。」

「今日は赤系のシロップでお願い。」


 しばしの賑わいの中映える、ピンク色のクリームソーダ。自分から明るい色を指定できるようになったとは、この二日間でずいぶん前向きになれるようなことがあったらしい。

 スプーンでアイスクリームをつっつきながら。彼女は聞いた。


「ところでさあ、どうでもいいことなんだけど、店の名前。純喫茶なのはいいけど【キシン】って何? 木でも軋んでいるの?」

 私は、朗らかに答えた。


「鬼の神で『鬼神』なんです。鬼の神様。私、神社で祀られていた概念でした。もっとも、中国・朝鮮の『鬼神』の意味とは違っているようなので俗称ではあります。古来から鬼の姿で崇められ、人々の願いを聞いて、守られてきたんです。だから見届けるんです、この島の最後まで。」


 船出前の女性は、反応に困ったかのように唖然とした顔のまま、アイスにスプーンを突き立てていた。

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