第三章◆早く【side 霊弥】

 朝食を終えたのち、沸かされた風呂に入った。


 漢方の薬湯。緑色の湯船を見て、いかにも良き効能を期待した。


 効能が何だったのかはわからなかったが、取りあえず体はすっかり温まった。


 用意された浴衣を着て浴室を出ると、そこには、見慣れた使用人がいた。


 環吉である。


「霊弥殿。風呂はいかがでしたか」


 その呼び名には慣れぬが、


「血の巡りが良くなった気がします」


 非常に良い湯だった。


 環吉は大きく何度も頷くと、にっこりと笑った。


「では、部屋へ」


 まだ屋敷の作りを覚えていない俺のために、と自意識過剰なことを考えたとき、なぜか弟の安否が怖くなった。


 さっき温めたはずの体が、爪先から徐々に冷えていく。


◇ ◇ ◇


「ありがとうね、環吉さん」


 部屋に戻ると、眞姫瓏が座っていた。髪に櫛を通している。


「いえいえ。嬢様の許婚いいなずけのためなら、こんなこと、お安い御用ですよ」

「いつ許婚になった?」


 本音がこぼれ、眞姫瓏が微笑む。


 端正な顔立ち、陶器のように白い肌、それと対比する、桃色の長い髪と苺色の丸い瞳、細い手首にある蜻蛉玉の数珠、……。


 その全部が、眞姫瓏を一層美しくしているようにしか思えない。


 その心にまた、痛み一つ。


「では、わたくしはこれで」


 と言い、環吉は部屋を出た。


 途端に、肩に重みがのしかかる。


「……?」


 眞姫瓏が、俺の首筋に、頬をすり寄せていた。


「眞姫瓏?」


 見れば、眞姫瓏の顔は茹で蛸のようになっている。


「霊弥さん……」

「……何だ?」

「ここで、……寝ても良いですか」


 途端にわけのわからないことを言われ、目を見開く。


 寝ても良いですか、だと?


「どういうことだ?」

「霊弥さんの傍で寝たい……んです」


 眞姫瓏はそういう。彼女は伏し目がちだった。


 その眼差しと俺の視線が、カチッと合う。


 普通の女なら、視界に入るだけでも耐えられない。


 それなのに……。


 やはり眞姫瓏は、ここまで人肌を寄せても一切のしんどさを感じない。


「……構わない」


 ポツリと返事をすると、眞姫瓏は口角を上げた。


 そして――力なく寄りかかった。


 かすかに耳元を寝息がかすめる。


 そっと、眠る眞姫瓏の輪郭を撫でながら、自分の胸元に抱き寄せる。


 そして足を伸ばし、そこに眞姫瓏の顔を載せた。


 彼女の背中を撫で、辺りに乱れた薄紅色の長い髪を手櫛でかす。


 櫛通りはとても良かった。感触は、驚くほど柔らかい。


 ときおり膝に、すり寄せられる心地がするほかは何もなく、ただ沈黙が続くのみ。


 それでも、良い夢を見ているのか、わずかに口角が上がっている。こちらまでそれが伝染うつる。



 眞姫瓏の頬を撫で、


「……あ」


 気付いたことがある。


 俺は、何をしていたのか。


 そう、消えた早弥のことを探していた。


 深夜だろうが暗かろうが構わず、とにかく早弥を探していたんだ。


 それなのに、何をしているんだ、俺は。


 寳來とも連絡がつかない(というかつけない)状況だ。


 まずは寳來を。寳來を見つけなければ――。




 そのとき、ガラガラっと襖が開いた。

 入ってきたのは、いつもの環吉である。


「あらぁ、やはり霊弥殿を許婚にして良かった……」

「何を勝手に感心してる莫迦ばか

「いえー……お伝えせねばならんことがあり……」

「溜めるな。とっとと言え」

「……」


 思わず、環吉を急かしてしまった――かもしれない。


 大丈夫だ、と付け足そうとしたが――それより早く、


「実は……」

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