第二章◆ここは【side霊弥】

「ん……」


 何かに気がついて、瞼が開いた。


 全身を包む、心地よい布の感触と温もり。優しく差し込む光。


 ぼんやりとしたまま半身を起こし、今にも寝落ちしてしまいそうなうとうととした目をこすり、辺りを見渡す。


 違い棚、敷き詰められた畳、和柄の描かれた押入れ。


 すぐそばには低い机があり、向かい合って二つ、座布団が敷かれている。


 本棚と思わしき棚には、古そうな書物が、所狭しと詰められていた。


「起きましたか」


 聞き覚えのある女の声がして、ハッとする。


 スス……と開いた障子。そのふちに沿うように、あの女がこちらを見ている。


「ごめんなさい、散らかってて……」


 埃一つ舞わない綺麗な和室を「散らかっている」という女の言葉に、ん? と思いつつ。


 自分の足が攣っていないことを確認し、立ち上がる。


「む、無理はなさらないで……!」

「ん? 無理してないぞ」


 俺を支えるためか、駆け寄り、俺の両肩を包む女。


 しかし、


「あぁっ!!」


 バランスを崩し、俺の胸元へと飛び込んできた。


 不意に出た手が女の後頭部に添えられ、女の顔が俺の首筋にうずめられる。


 しばらく動かなかった女だが、やがて離れ、俺を見上げた。


「ご、ごめんなさい……」


 しゅんと俯き、謝る様子が、不覚にも「可愛い」と思えてしまった。


「謝る必要はないだろう。それより」


 そう言いかけた時、女が俺を見上げた。


 真っ赤な瞳は、美しく深く澄み渡っていた。不純物の混じり気もない。ただただ俺の顔が映る。


「名前は?」


 ふと、女の顎に手を添え、くいと持ち上げる。


 すると女は、茹でだこのように、


「ああ、私ったら、一生の不覚……!」


 と言いながら、手で赤面したその顔を覆う。


 その様子が、可愛く愛おしく、笑みがこぼれる。


「私、眞姫瓏まきろうって言うんです。……変わった名前でしょう……?」


 幼子のように俺を見上げる眞姫瓏の姿に、心臓をがっしと掴まれる。


 この感情の名前が、全く見当たらない。


「いや、良き名だと思う。〝眞姫瓏〟」


 わざとらしく名前を呼ぶと、眞姫瓏の顔がまた、沸騰する。


「もっ、もう……」


 ははっと小さく高らかに笑い、不意に出た手を、眞姫瓏に添える。


「……は、恥ずかしいです……」


「俺もしてるくせに恥ずかしいぞ。ちなみに俺の名前は、小鳥遊霊弥たかなしれいやだ」


 何気なく名前を言うと、眞姫瓏の目が見開かれる。


 まるで、驚いたように。


 まさか、とでも言うように。


「……小鳥遊、霊弥……?」


 小さく俺の名前を呟く眞姫瓏。


「どうした?」

「あ、い、いえ……」


 赤面した眞姫瓏の姿が、可愛くて仕方がなかった。


「あ、そうだ……! 霊弥さん? って、朝ご飯まだですよね?」


 眞姫瓏が、開き直って言う。


 なぜ俺の名前のあとに疑問符をつけたのかは謎だが、家を出たのは確かに深夜。


 言われてみれば、腹も空いている気がする。


「まさか、用意してくれるのか?」

「ええもちろん! お客のためなら食事も全然。それを提供しない宿屋はないでしょう?」


 眞姫瓏が、右頬にえくぼを作るほどに笑う。


 そして、また一つ、痛みが俺を襲う。


◇ ◇ ◇


 用事があり、眞姫瓏は部屋を去った。


「時間になったら、使用人の誰かが迎えに来て、案内してくれる」というので、そのまま部屋で待っている。


 時計の短針が、おおよそ七の辺りに来た頃。


「お待たせ致しました」


 廊下と接する襖の向こうから、男の声が聞こえた。


 ススっと開けられ、そこにいたのは、質実剛健な着物を着た男。


「おまえが眞姫瓏の言った、使用人か」

「嬢様からもお言葉を頂戴ちょうだいしていたのですね! ではわたくしが宴会場まで案内いたしますので、ついてきてください」


 静かに手招きをされ、俺も席を立った。


◇ ◇ ◇


 中はまるで、戦国の城郭のようだった。


 一目見るだけで、持ち主の持つ絶大的な権力が想像できるほど。


 階段を下り、しばらくまっすぐ進むと、これまた金色の細工が施された襖があった。


 中は広く、部屋の奥まで続く長机が、横に十脚、並べられている。


 その長辺に、ズラリと並べられた、座布団、座布団、座布団。


「宴会場――『若姫の間』でございます」


 まさか、こんな立派な宴会場があるなんて……。


 周囲にも、同じ様な襖がいくつかある。それらもきっと、宴会場に違いない。


「間もなく御厨みくりやが朝食を届けに参りますから、お好きな席にお座りください」


 と言われたものの、どうしていいかわからずじまい。


 結局、端の端にある、角の席に腰を下ろした。



 と、木戸の方から、上品な着物に身を包んだ男が、盆を持ちながら歩いてきた。


 歩き方も、みやびだ。


「お待たせ致しました。こちら、朝食になります」


 机に持ってこられたのは、まさに豪華な膳。


 玄米、味噌汁、焼き魚、新香、紅生姜、蓮根の漬物……どこを見ても、一汁三菜の質素なものとはかけ離れていた。


「ごゆっくりどうぞ」


 スススっと、また雅な歩き方で、男……恐らく御厨も、去っていく。



 箸置きにおかれた箸を持ったはいいものの、どれを食べようかはかなり迷った。


 焼き魚はほっけ。それも塩焼きだ。骨と皮を取り除いて、ほぐされた身を口に入れる。


 出来立てなのか熱かったが、程良い塩気が舌に沁みる。


 ほっけやほかの物を食べる合間に、新香や漬物を口にするのも良かった。



 いつしか、ほっけ、新香、漬物の三つは、あっさり食べきっていた。


 玄米は炊き込み飯だったらしく、キノコや山菜は柔らかく、米には味が沁みていた。


 味噌汁も、塩味は程よく、飲みごたえはよく、出汁も美味く、まさに逸品だった。


 そうこう食べ進めるうちに、また襖が開いた。


 二つの人影。片方は確実に眞姫瓏だ。


「確か、『若姫の間』に行ってた記憶が……」


 ああ、この声。間違いない、眞姫瓏。


「あ、いたいた! 霊弥さーん!」


 俺を見るなり、駆けてきて俺の両肩をつかむ眞姫瓏。


 勢いに押され、体勢は斜め。とっさに手をつかなければ、押し倒されていた。


「美味しいですか!? 朝食」


「……ん。ひじょーには(非常にな)」


 口の汚れを手で拭き取り、口の中の米を飲み込んだ。


◇ ◇ ◇


「――という解析結果から、霊弥殿はお偉いさんの血を継いでいるのですよ……」


 現在、端の席に俺が、その右隣に眞姫瓏が、俺の向かいに医者と思わしき男が、それぞれ座っている。


 医者は、和紙に墨で書かれた図と文章を見ながら、俺がどれだけ偉い家庭の血を継いでいるかをくどくどと説明した。


 何が何だかわからない俺は、ああ、そうですか、と適当に頷くだけ。


 しかし医者は語気を強め、スゴいことを言いやがった。


「この家はなかなか相手になる殿方の一族が見つからず、おまけに嬢様が兄か、義兄かに懐いていましたからことさら大変。しかし! 霊弥殿を見つけた。この方ならきっと嬢様も懐いてくれるだろうし、信頼もできる。何せこの一族の者! 嬢様を嫁がせることに何も困ることはない! 五龍神田家ここにもやっと春が来る!」

「!? ぶこっ、けほっ……」


 食事中にそんなこと言われたら誰でもむせる。


 危うく、口に入れていた米を、全て味噌汁にぶっ込みそうになった。


「……大丈夫ですか?」


 肩がすれるほど近くに座る眞姫瓏も、心配とあきれの混じった声で言う。


 大丈夫、と手で合図して、米を飲み込んでから、


「しかし、それを独断で決めてはいけないのではっ。まして異性嫌いの男にそんなこと言うなんて」


 そう、俺は大の女嫌い。


 容姿だけ見て、この人は良い、こいつはダメ、などと決めつける女に飽き飽きした。


 もともと見た目で何かを決める人間は大嫌いだし、人間関係のいざこざも鬱陶うっとうしい。


 人間関係が面倒で、基準が見た目の女たちは、俺の嫌いなところを兼ねそろえた奴ら。


 それで嫌いだった。


 おまけに、登下校中にはどっかしらで黄色い歓声が上がり、食堂に行ったら女どもがいて、ここでもどっかしらで黄色い歓声が上がる。


 一日中男子部の方にいないと、女がまとわりついてもう面倒なのである。


 まあ、男同士でもまあまあ関係作りは面倒なことになり、早弥が取り持たなければ、俺は高校生になっても独りだったのだが、それとこれは別問題。


「いつか好いてくれればいいよ」


 眞姫瓏が隣で笑う。


「――霊弥さんが大好きだよ」



 これに心臓を撃ち抜かれる。



 それはつまり。







 ――眞姫瓏は大丈夫、ということ。

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