十年後は、遙か遠く

紫鳥コウ

十年後は、遙か遠く

 一九九八年を過ぎようとしていた。と思ったら、九七年に後戻りしなければならなかった。


 大学院生の葉田洋はたようは、この日も机に突っ伏して、うめき声をもらした。

 推しのイラストレーターの作業配信を再生し、思索を九七年へと戻す。

 リストの中に見つけた、取り消し線を入れていなかった文書を読んでいく――と、案の定、決議案が採択されていた……ので、決議を読んで、そこで参照されている文書に目を通し、さらにその文書で参照されている……終わらない。


 この日も洋は、国連の文書を読み続けていた。修士論文を書くために必要な作業ではあるのだが、指導教員から指定されている「読破数」の目標があまりにも高すぎる。

 見たところ難しい英文ではないので、すぐに終わるかと思いきや、ひとつの文書には、「この文書を参照している」という記号が、いくつも挿入されており、その参照されている文書を読むと、「この文書を――」と、また記されており、結果、芋づる式に目を通さなければならなくなる。

 どんどん「読むべき」文書が増えていく。


 中東部アフリカに位置するある国の歴史を研究している洋は、一九九〇年から現在までのこの国に関係する文書を、修士課程の二年間で「九割方」読破するように、指導教員に言われていた。この国に言及した文書は、年を経るごとに増えていく。秋になっても、二千年代に到達しない。


 毎日、国連文書を読むだけならば、もう終わっていたかもしれない。

 しかし、修士論文を書くためには研究書も濫読らんどくしなければならないし、単位を取得するためにいくつか授業を受ける必要もある。


 ぐーっと背伸びをした洋は、少しは身体を動かそうと、散歩に出かけることにした。

 青空は綺麗に澄んでいる。雲は気ままに浮かんでいる。風は強くもなければ凪いでもいない。休日であろうとアパートの周りはいつも通り静かだ。


     *     *     *


 しかし、帰ってくると、その場で倒れそうになるくらいの、衝撃的なメールが届いていた。

《入院をすることになった。スマホを没収されるからしばらく連絡は取れない。退院したらまた会おう》

 それは親友からのメールだった。


 ある飲食店で働いていた彼は、多忙な日々を送るなかで精神が参ってしまい、自殺をしようとした。あと少しの度胸があれば飛びおりられる……というところで、気を取り直して、洋に電話をかけた。

 そのとき洋はスマホをいじっていたため、即座に反応をすることができた。そして、いますぐ実家に帰るよう助言をした。それは、五日前のことだ。


 高校は別々で、大学進学を機に引越したこともあり、余計に距離ははなれて、彼が仕事に就いてからは一度も会っていなかった。

 だが、小学生のときからの付き合いである以上、ふたりにはある程度の信頼関係があった。それに、仕事をしている他の友人たちより、大学院生の洋の方が、電話に出てくれる確率が高いと思ったのかもしれない。

 ともかく、実家に帰ってからも、なにかがあったのだろう。《だれにも言わないでくれると助かる》とのことだったので、こころのなかにしまい込んだ。


 洋は椅子に座ったまま、彼のことを想っていたが、追憶を広げたところで彼が健康になるわけではない。

 そう思い直して、安保理の議事録を読み進めていったのだが、どうしても背景をつかめないところが出てきてしまった。全権大使の発言の意味が、どうもよく分からない。


 そこで、一九九七年前後の世界情勢をおさらいするために、数冊の本を棚から引っこ抜いた。

 文書はただ読めばいいというわけではない。意味をつかまなければならない。膨大な量の文書を体系立って理解する必要があるのだ。


     *     *     *


 休日ももう過ぎようとしている。


 洋は椅子の上で眠ってしまっていた。学部生のころには考えもしなかった日常が続いている。

 ベッドを使わないときがあるのはもちろん、徹夜も何回か経験しているし、食事を抜くのもしばしばだ。趣味に打ち込むこともできなくなった。


 次に目がさめると午前二時で、もう一眠りするか、起きて研究を続けるか、迷う時間帯ではあるのだが――思いだすのは、親友からの連絡である。

 無理をすれば、今度は自分の健康が危ないかもしれない。そういう危機感が、まだ冴えていない頭の中を駆け巡った。


 が、目の前のパソコンには一九九六年の総会の議事録が映っている。

 これを読んでいるうちに眠ってしまったのだ。洋は背もたれから身体をはがし、自然と続きに目を通しはじめた。


 もうすっかり、苦行のような生活に馴染なじんでしまった。この日常に飼い慣らされている。とりあえず、十年分を読んでしまいたいのに、九七年前後で足踏みをしたままだ。

 その後、洋もまた、親友とほとんど同じ結果を迎えることになったのであるが――そんなことを、いまの洋が知るはずもない。



 〈了〉

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