26

 蝉と私は、無言で向かい合って、ずるずるとそばを啜った。食べ終わった食器を、蝉は黙って私に寄越し、そのまま立って、外に出ていった。私は重ねたどんぶりをお盆に乗せ、台所に戻った。

 台所でどんぶりを洗っていると、不意に不安に襲われた。足下がくらりと来るくらいの不安だ。

 お母さんは、いつまで私を娘にしていてくれるだろう。お腹の傷が治ったお母さんは、かさんだ借金に我に返り、私を捨てるかもしれない。

 どんぶりを落とさないように流しに入れ、私はしばらく突っ立って不安の発作に耐えた。

 「香織? どうしたの?」

 不意に後ろから声をかけられ、振り向くと、サチさんが立っていた。傍らにはお客さんも一緒だから、表まで送って行く途中なのだろう。行為がすむと、お客さんを外まで送って行って、また部屋で身支度を整え、外で客を引くのがここの娼婦たちのならいだった。

 「ここの子? 随分若いみたいだけど。」

 50歳くらいだろうか、でっぷりと太って眼鏡をかけたお客が、私を値踏みするみたいな目でじろじろ見た。

 「やぁね、この子は違うわよ。蝉がちょっと預かってる子。」

 サチさんがお客を軽く睨み付け、その手を引いた。そして、並んで廊下を歩いて行きながら、彼女は肩越しに渡しを振り返り、待ってて、と、唇だけで囁いた。いつもの赤い紅が剥げた、色のない唇。 

 私は中断していた食器洗いを再開し、きちんと拭いたどんぶりを食器棚に戻した。そして、部屋に戻ろうか、それともサチさんを待とうか、と迷っている所に、当のサチさんが戻ってきた。緩んだ着物の襟を治す仕草は色っぽくて、私は少しだけ、どきりとした。

 「編み物、してる?」

 サチさんが私の前に立ち、何気なく聞いてきた。会話というものの積み立てがほとんどなくて鈍い私でも分かるくらい、それは話の本題ではなく、ただの様子うかがいだった。

 「……はい。」

 編み物を教えてくれた時も、私はこんなふうに感じ悪く彼女を警戒していた。それでもサチさんは、気を悪くしたりせずににこにこ笑って、私の手を取って鉤針編みを教えてくれた。私は不器用で、できるようになるまで何回も失敗したけれど、それにも構わないで。だからこのひとは、本当に優しいひとなのだと思う。

 「よかった。苺のバッグ、できた?」

 「……まだ。」

 「できたらまた。私の部屋にいらっしゃいね。次のを教えるから。」

 「……はい。」

 

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