25
「なんか、食うか。」
私の帳面付けが一通り済んだ頃、表から部屋に戻ってきた蝉が言った。外はまだ暗い。娼婦たちの就労時間はまだ続く。だから、蝉だってまだ働かねばならない。
「うどんでいい?」
「そば。」
うん、と頷いて、私は帳面を閉じて蝉に渡し、立ち上がった。
「一人でできるか。」
「うん。」
料理というものを、ここに来るまで私は全くしたことがなかった。生まれた家は大抵ガスも水道も止まっていたし、今思えば、両親の機嫌がいい時に時々口にできた食品は、どこかからの盗品だった。
お母さんが借りてくれたバラック小屋は、台所が共有でお母さんはあまり料理が得意ではなかったし、外国人の親子が大抵そこを占領していたので、店屋物や買ってきたお惣菜なんかを食べた。
お母さんが刺されてこの長屋に食事をとりに来るようになったら、通いの賄い婦が作る、大鍋の煮込み料理を三食食べるようになった。
そんな私にうどんとそばの作りかたを教えたのが、蝉だった。作りかたと言っても、乾麺をゆでて、具材をちょっと入れるだけなんだけれど、私にとってははじめての経験だった。
蝉の部屋を出、娼婦の個室が並ぶ長い廊下を抜け、その奥の台所に入る。乾麺を棚からとり、賄い婦が残していった少しの野菜をまな板に乗せる。
私がここで食事をとるようになってすぐ、蝉は夜中に、腹減ったな、と言って私をここにつれて来た。そして、乾麺のゆでかたや野菜の切りかたを、特になにか説明するでもなくやって見せてくれた。三回めくらいに、お前がやって、と言われ、蝉の前でうどんを作った。緊張した。蝉は全然こっちを見ていなくて、椅子の背もたれに背中を預け、だるそうに煙管をふかしていただけなのだけれど、火も包丁も、はじめて使ったから。
今はもう、10回くらい作ったので、はじめに見せてくれた蝉の手際と同じくらい素早く、うどんとそばを作れる。
「蝉。できたよ。」
お盆に乗せた、二人分のそばを蝉の部屋に運ぶ。蝉は私が付けた帳面の確認をしていたけれど、すぐに顔を上げ、そばを受け取った。私も自分の分のどんぶりを抱え、蝉の向かいに座る。
「蝉、」
「ん。」
「今度、うどんとそば以外も教えてよ。」
「むり。」
「なんで。」
「うどんとそばしかできないから。」
そんなに料理がしたいなら、律子さんに教われよ、と言われた。律子さんというのは、賄い婦の名前だ。私はでも、蝉以外の人に料理を教わりたいとは思えずに、曖昧に頷いてそばを啜った。
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