21
「ここで待ってろ。」
蝉は、私を廊下に残し、老女とともに、廊下の一番奥の部屋に入って行った。私は、自分の身体を支えきれなくなって、廊下に膝をつき、身を横たえた。板張りの床は冷たくて、身体を押し付けると少し落ち着けた。頭の中がぐるぐるしていた。お母さんの真っ白い顔と、黒いワンピースと、ぬるぬる光っていた血液。
「香織。」
しばらくすると蝉が部屋から出てきて、私の腕を掴んで引き起こした。
「いづみの傷は、内臓まではいってないらしい。命に別状はないってよ。」
「本当に?」
「嘘はつかねえよ。」
蝉が片頬で笑い、戻るぞ、と、私に顎をしゃくった。廊下に棒立ちになった私は、首を横に振った。お母さんの側にいたかった。しかし蝉は肩をすくめると、私の肩を無造作に抱いた。
「行くぞ。あの婆、人嫌いで有名なんだよ。」
私は混乱したまま、蝉に半ば引きずられるようにして車の助手席に乗り込んだ。
後から聞いた話では、あの老女は、子堕し婆という呼び名で呼ばれる、観音通りでは有名な堕胎専門の闇医者だったらしい。蝉は他に医者の当てがないから、お母さんをそこに連れて行ったのだ。
「いづみは二週間戻れない。お前、どうする? うちのいづみの部屋にいるか?」
車のエンジンをかけながら、蝉がどうでもよさそうに言った。私は、少し考えて首を横に振った。どうしてもあの長屋にはなじめなかったから。
「じゃあ、飯と風呂はこっち来い。」
蝉が重ねて言って、私は渋々頷いた。私の飯代や風呂代も、お母さんの借金に加算されていく仕組みだと、私はもう知っていた。さらに言えば、お母さんの傷の治療費だって。闇医者の相場なんて知らないけど、とんでもない金額を請求されるのだろうと想像はついた。
「蝉。」
「ん?」
「私、働きたい。蝉のところで。」
せめて、自分の食い扶持くらいは自分で稼ぎたい。そう思って、蝉の横顔を睨むようにして訴えると、蝉は頬を歪めて苦笑した。
「いづみに殺される。あいつが治ってから話しつけるなら、いい。」
「でも、いつでも雇ってくれるって言ったじゃない。」
「いづみが刺されてなけりゃな。」
「……。」
私はそれ以上食い下がれなくて、黙って車の外に視線を逃がした。
見慣れた、観音通りの夜だった。きれいに舗装された道路、西洋式の街灯と、その下で男の袖を引く娼婦たち。万華鏡を覗いたみたいに眩しい、観音通りの夜。
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