20

 「なにがあったの?」

 私の声は、自分でもそうとわかるくらい上ずっていた。

 「刺された。」

 蝉がハンドルを切りながら淡々と応じる。

 「誰に?」

 「分からない。」

 「警察には?」

 「行かない。分かってんだろ? この通り自体が非合法だ。」

 私はなにも言えなくなって、お母さんのお腹を押さえる自分の手に目を落とした。手の甲まで血で濡れて光っている。

 どうしよう。お母さんが死んじゃったら、どうしよう。

 知らぬ間に頬に涙が伝っていた。

 「……蝉。」

 そのとき、細い声をお母さんが発した。ごく細い、蜘蛛の糸みたいな声。きつく閉じられていた両目も開き、車の天井を茫洋と映していた。

 「なんだよ。」

 蝉はいつもの飄々とした調子で言葉を返す。

 「傷、残ったら、どうしよう。」

 はあ、と、お母さんが難儀そうに吐いた息は、ぞっとするほど熱く湿っていた。

 傷? と、運転席の蝉がかったるそうに語尾を上げる。

 「傷くらい、どうにでもなる。あそこは俺の店だ。身体が売りたきゃいくらでも売らせてやるよ。」

 はあ、と、お母さんがまた息を吐いた。そして、ゆっくりと目を閉じる。熱を持って潤んだ瞳から、涙の雫が一つ、青ざめた頬に転がり落ちた。そして、心底安心したみたいに、お母さんの身体からがくりと力が抜けた。

 「お母さん!?」

 本当に死んでしまったのではないかと焦った私が悲鳴を上げるのと、蝉がブレーキを踏むのとほとんど同時だった。

 「医者だ。」

 蝉が短く言って車を降り、後部座席のドアを開けるとお母さんを担ぎ出した。私も慌てて蝉にくっついて行った。医者、と蝉は言ったけれど、そこは病院なんかではなく、普通の一軒家だった。焼け跡にこまごまと立ち並ぶ、傾きかけた違法建築の中の一つ、私が生まれた家なんかとそう変わらないような。

 「開けろ。」

 蝉に言われて、私は大急ぎで曇りガラスがはまった木製の木戸に手をかけた。鍵はかかっていず、ギシギシと軋みながら戸は開いた。

 「婆さん。」

 蝉が呼び掛けると、真っ暗な廊下の向こうから、一人の老女が現れた。年齢は、よく分からない。顔は皺だらけで、背もごく小さいのだけれど、腰はちっとも曲がっていないし、足取りもしっかりしていた。

 「なんだい、夜中に。」

 老女は、蝉が担いだお母さんの姿が見えていないかのように、不機嫌そうな声を出した。

 「急患だよ。女が刺された。」

 蝉はそんな老女の態度に慣れているのか、平然と土足のまま廊下へあがり込み、先へ先へと歩いて行った。私も蝉の派手な柄の着流しの裾について歩いた。


 

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