19
お母さんが刺されたのは、それからそうたたない、秋の初めだった。犯人は、分からない。いつものように長屋の外に立って客を引いていたお母さんのおなかを、通りすがりの男が刺したのだ。私はいつものように、蝉の部屋でお母さんの仕事が終わるのを待っていた。蝉も定位置に座って煙管をふかしていた。すると、表から女の悲鳴がいくつも聞こえてきたのだ。
「どうした。」
蝉が短く言って、煙管を懐に突っ込んで立ち上がり、彼らしくもない急いた歩調で部屋を出ていった。私は、蝉やお母さんの仕事の邪魔にならないように、なるべく部屋の外には出ないと決めていたから、とりあえずその場でじっとしていた。まさか、お母さんが腹に穴をあけられて苦しんでいるとは思わずに、しばしばある酔客の喧嘩だろうくらいにしか思っていなかったのだ。蝉の様子は、明らかにいつもとは違っていたのに。
私が一人部屋で過ごしたのは、多分三分くらい。すぐに長屋の女の一人が駆け込んできた。
「あんたのねえさんが、大変よ。」
長い髪に派手なパーマネントを当てた女は、顔色をなくし蒼白だった。私はそのさまから、ようやく異常事態が起きていることを悟り、大急ぎで部屋を飛び出した。
「お母さん!?」
声が震えていた。私には、お母さんしかいなかったから、それを失うのは、とんでもない恐怖だった。蝉の尋常ではない様子や、駆け込んできた女の焦りようからして、お母さんの身にとんでもないことがおこったのだろうと、それだけは飲み込めかけていた。
「香織! 乗れ!」
蝉の声は、ほとんど怒声だった。長屋の前には黒い車が一台停まっていて、後部座背にのドアが開いており、中にお母さんの真っ白い顔が見えた。真っ白い、というか、むしろ、青い。私は一瞬硬直してしまったが、蝉にもう一度同じ言葉を怒鳴られ、弾かれたように車に滑り込んだ。
「押さえとけ。」
蝉が大量のタオルを私に投げて寄越した。なにを、と、私は固まる。運転席の蝉はこちらを一瞬振り返り、腹、と短く吐き捨てた。車のエンジンがかかる。
私はだらりと座席に伸びているお母さんの身体を見た。黒いワンピース、その腹の部分がぬるぬると濡れている。血だ。気が付いて、ぞっとした。それは、大量の血だった。
「押さえとけよ。内臓飛び出たらどうすんだ。」
走り出した車。蝉の声は、いつのまにか常の飄々とした調子を取り戻していた。私はそれを聞いて我に返り、飛びつくようにしてお母さんのおなかにタオルを押しあてた。真っ白いタオルが、あっという間に血に染まる。焦って、二枚、三枚と重ねた。
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