18

 電話の向こうで、蝉は多分、表情一つ変えなかった。息遣いの乱れない、いつもの蝉の態度。そのまま、ひとこと。

 『雇うよ。』

 「え?」

 『あんたの母さんでも、あんたでも、俺は雇うよ。いつでも。』

 私は蝉の言う意味について、少しの間考えた。

 雇う。価値がある、肉体。

 それはなんだか、妙な具合の救いの糸に感じられた。

 「……ありがとう。」

 声はまだ、震えていたと思う。それでも、蝉の言葉で落ち着きを取り戻しつつあったのも確かだった。

 『いづみは?』

 「お風呂。」

 『いいね、優雅。』

 こっちはばたばたよ、今日は客がよくつく。いい月夜だからかな、と、蝉は間延びした調子で言った。私は電話機を引っ張って立ち上がると、窓辺に行き、障子を開けた。

 「ああ、ほんとね。いい月夜。」

 窓の外、見上げれば真ん丸い月が紺色の夏の夜空に浮かんでいる。星が見えないほど、眩い月だった。

 私はしばらく突っ立って月を眺めていた。蝉はなにも言わなかった。電話を切ることもなければ、話の接ぎ穂を探すでもなく。ただ電話の向こうで黙っていた。私は、蝉の部屋を思い浮かべた。あの長屋、入ってすぐ右手の狭い畳敷き。なにもない部屋の定位置に座った蝉と、煙草盆、赤い煙管。

 帰りたい、と、確かに私は思ったのだ。それは、生まれて初めて覚える感覚だった。生まれ育った家にも、帰りたいと思えるような愛着などなかったから。あの、猥雑な通り。お母さんが身を沈める苦界。馴染めたことはない長屋の空気。それでも、帰りたいと。

 「……お土産、水がきれいだから、山葵がおいしいみたい。」

 明日には帰る。会える。確実に。そういう距離の人を、懐かしんだのもはじめてだった。

 『俺、山葵食えない。』

 「じゃあ、川魚かなにか?」

 『うん。』

 会話は、それきりだった。じゃあ、と私が言うと、蝉はぷつりと電話を切った。そのあまりのあっけなさと情緒のなさに苦笑しつつ、私も受話器を置いた。

 あんたの母さんでも、あんたでも、俺は雇うよ。いつでも。

 蝉の言葉を思い出して、ワンピースの胸元をおさえる。

 行き場がある、という状態にあるのが、はじめてだからだろう。だから、こんなに胸が騒ぐのだろう。

 「香織?」

 なにやってるの? と言いながら、お母さんが部屋に戻ってきた。窓辺に突っ立っていた私は、苦笑しながら電話をもとあった場所まで引きずっていった。

 「なんでもないよ。」

 「そう?」

 「うん。」

 電話をしたの? とか、そういうことを、お母さんは言わなかった。だから私は、お母さんは私が蝉と話したことを知っているのかもしれないな、と思った。


 

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