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 それからしばらく無言で抱きあい、ちょっと気分が落ち着くと、私とお母さんは笑いあった。感情をむき出しにした自分を恥じるみたいな、照れ笑い。

 「部屋に、戻りましょうか。そろそろ夕食の時間だわ。」

 お母さんがそう言って、私の腕をそっとほどいて立ちあがった。私も、素直にそれに続いた。いつの間にか日が落ちかけていて、空はちょっとびっくりするくらいきれいな桃色に染まっていた。遠くで鳴く日暮の声が、なぜだか胸を切なくさせる。私はお母さんの手を握った。お母さんも、しっかりと握り返してくれた。

 宿に戻ると、数分して、見計らったように仲居さんが部屋に食事のお膳を運んできてくれた。豪華な川魚の料理だった。お母さんは、お酒も少し飲んだ。私も一口だけもらったけれど、美味しいとは思えなかった。

 「お酒臭い。」

 舌を出して呻くと、お母さんはくすくす笑った。

 「つまらない感想ね。」

 食事を終えると、お母さんはお風呂に行った。私は行かなかった。なんだか、一緒に入るのが恥ずかしくて。お母さんは、一緒に入るでしょ? と、当たり前みたいに言ったから、私も当たり前みたいに肩をすくめて、朝入るわ、と言った。お母さんは、そう、と言っただけでそれ以上はなにも言わないで、タオルを持って部屋を出ていった。その背中を見送ることさえできずに、私はすぐに電話にかじりついた。一回だけ、お母さんに頼まれて、近所の店から電話を借りてかけたことのある番号。観音通りの、あの長屋。指は番号を覚えていた。この日のため、みたいに。

 「蝉、蝉、」

 電話のベルが鳴っている間、私は無意識に小さく呟いていた。耳鳴りみたいに、日暮の鳴く声が耳の奥に響いていた。あの、もの悲しさ。

 8回目のベルで、ようやく蝉は電話を取った。

 『はい。』

 ちょっと気だるそうな、いつもの蝉の物言い。私は妙に安心して、電話機に覆いかぶさるみたいに、畳に身体を横たえた。

 「蝉? 」 

 『ああ、香織。』

 蝉は、当然みたいに私の名前を言い当てた。それは、私が電話をしてくることを事前に分かっていたみたいに。

 『どうした。仲良く足抜けか。』

 からかうみたいな、蝉のもの言い。違うわ、と、私は辛うじて言葉を絞り出した。

 足抜け。温泉街での仲居暮らし。それができたら、どんなにいいか。でも、お母さんには、そして私にも、それができない。

 「……それが、できたら、」

 どんなにいいか。そこまで言葉にもならなかった。私は空気の塊を吐き出すことしかできず、縋るみたいに受話器を握りしめた。

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