16
「中居さん、できなくもないだろうって思ってたの。ここに、来るまでは。」
お母さんが、ぽろりと涙を流した。私は驚いて、お母さんを見上げた。お母さんが泣くところというか、お母さんが感情をあらわにしたところを見たことがなかったから。お母さんは、いつだって凪いだ海みたいに穏やかな顔をしていた。そのお母さんが、泣くだなんて。
「お母さん?」
感情の整理が追い付かないままに、私はお母さんを強く抱きしめた。お母さんがどこかに行ってしまうのではないかと思ったのだ。意志を持って、というよりは、ふっと、かき消えるみたいに。
「香織のためには、その方が良いって分かってるのに、私には、できない。どうしても、できないの。」
両腕で抱きしめた、華奢なお母さんの身体は震えていた。内臓がどこに入ってるのかと思うような薄いお腹が、痙攣するみたいに。お母さん、お母さん、と、私はお母さんを呼び続けたけれど、声にならなかった。喉の奥で握りつぶされたみたいに声は消えて、震える息だけが押し出された。
「私はもう、観音通りでしか生きていけない。……香織には、そうなってほしくないの。絶対に。でも、どうしていいか分からない。……離れるしか、ないのかもしれないわ、私たち。」
そこでお母さんは、言葉を切った。私はもう言葉を発することができなかったから、ただ、川のせせらぎと、遠くで鳴く日暮の声だけが耳についた。私はその音を、ひどく寂しいと思った。
お母さんの言う意味は、私にも分かった。お母さんが、どれだけ私を思っていてくれているのかも。こんなに体を震わせて、涙まで流して、お母さんは私のことを考えてくれている。嬉しかった。とても。だから余計に、受け入れることができない。離れるしかない、なんて。だから私は、首を振った。大きく、何度も。顎の線で切りそろえた髪が、頬を打った。
お母さん、離れるなんて、言わないで。
念じて、首を振った。いつか、この身を売るとしても、それでしか生きていけない身の上になろうと、構わない。構わないから、お母さんはずっと私の側にいて。
お母さんは、涙を指先でそっと拭った。取り乱した自分を恥じるような仕草だった。
「子どもは、大人を絶対視する。……私にも、身に覚えがあるの。最低な大人であっても、そのひとの側を離れたがらない。……だから、本当ならもっと早く離れないといけなかったのにね。」
でも、つらすぎたから。
お母さんはそう囁いて、涙を拭ったその手で私の髪を整えてくれた。
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