15
「一人はつらくないわ。売春だって、慣れたら平気。でも、平坦なのは、つらかったわね。生きてるのか死んでるのか、分からなくなる。」
私はじっとお母さんに寄り添って座っていた。私も、お母さんに拾われてからのこの三か月くらいは、ずっと平坦だった。日々の生活に大きな変化はなかったし、感情をいたぶられることもない。お母さんの懐に抱かれて、平坦に過ごしていた。そして私は、それをつらいとも思わなかった。むしろ、幸福なことだと思っていた。実の両親と生活していたときと比べて、ずっと。だから、お母さんはきっと、幸せだったのだろうと思った。観音通りに立つようになるまで、幸せだったのだろう、と。私はお母さんの過去を知らない。本当に、なに一つ知らない。お母さんはなにも語らなかったし、私はなにも訊けなかった。そのことが、やけにはがゆく感じられた。
香織、と、私の名前を呼んで、お母さんがそっと肩を抱いてくれた。暑い夏の日なのに、お母さんの肌は冷たかった。さっき飲んだ、サイダーを思い出すくらいに。
「香織が来てくれて、よかったと思ってるのよ。」
でもね、と、お母さんは言葉を続けた。
「つらくなるときもあるわ。この生活は、香織にはよくないから。観音通りの生活なんて、子どもにいいはずがない。……香織は、私といない方が幸せ、なのかもしれない。」
幸せ、という単語を、お母さんは噛み締めるみたいに発音した。その単語は、私にはこれまで縁がなかったものだ。お母さんに、拾われるまでは。それなのに、なんで、お母さんといない方が幸せだなんて言うのだろう。
頭が混乱した。私は今、捨てられかけているのかもしれないと思った。
お母さん、と呻いて、私はお母さんの胸に縋った。お母さんに捨てられる。それは、明白な恐怖だった。
お母さんは、私の身体を受け止めてくれた。私を捨てるかもしれない、その腕で。
「さっき、中居さんに、宿の中居の口がないかって訊いてみたの。そうしたら、ここの宿ではないけれど、バスで少し行ったところにある温泉街で、中居の口があるって教えてくれたわ。」
つまり、お母さんは、私をその温泉地に置いていくつもりなのだろうか。そう思い到って、私は涙をこらえることができなくなった。お母さんが、こんなに具体的に、私を捨てる算段を立てているとは思っていなかったから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます