13
バス停から旅館までは、歩いてすぐだった。日差しが強くて暑い日だったのに、旅館はどこかひんやりとしたたたずまいを見せていた。別に、日陰にたっているわけでもないのに。建物が古くて、色褪せたような印象があるからかしら、と、私はぼんやり思った。
薄い桃色の着物を着た中居さんが案内してくれた客室は、三階建ての二階で、角部屋だった。住まいのバラック小屋より広い畳敷きで、木製の鏡台が観音通りの長屋を思い出させた。
お母さんは、ボストンバッグを開けて、鴨居にハンガーで明日着る服を吊るしてしわを伸ばした。私は窓枠に膝を乗せ、大きな窓から外を眺めた。別段素晴らしい眺めっていうわけではなかった。二階だし、ただ田舎の田畑や平屋が連なっているだけだ。それでも、遠くに来た、という感慨があって、その景色が私には随分うつくしく見えた。
水色の地に、紺色の幾何学模様がプリントされたワンピース姿のお母さんが、部屋の真ん中にある大きな木製のテーブルに置かれていた茶菓子を、ひょいとつまんで口に入れた。
「お茶を入れる?」
と私が訊くと、お母さんは首を横に振った。
「暑いもの。」
部屋の中は日陰だし、うんと静かなので、新しいシーツにもぐった時みたいな涼しさがあったけれど、確かに熱いお茶を飲みたいような気温ではなかった。
「サイダーかなにか、貰いましょうか。」
お母さんが言って、部屋を出ていこうとした。私は考えるまでもなく、お母さんにくっついて部屋を出て、広い廊下をわたり、階段を下りてフロントへ向かった。部屋には電話が備え付けてあったけれど、お母さんも私もそれを使おうとはしなかった。この古ぼけて広い旅館の中を、ちょっと探索してみたい気分だったのだ。
フロントには、さっきの中居さんが座っていて、私とお母さんがサイダーを飲みたいというと、大変恐縮した様子で、奥から冷えたサイダーの瓶を二つ持ってきてくれた。お母さんは、フロントの台に軽く寄りかかるみたいにしてサイダーの栓を抜いて、一本私に渡してくれた。私は、フロントからちょっと離れて、入り口のあたりをうろうろしながらサイダーを飲んだ。喉の奥で、炭酸がはじける。
お母さんは、にこやかに中居さんと話をしていた。なんの話をしているのかまでは、ここまで聞こえてこない。私はなんとなく、裏切られたような気分になった。私の世界はお母さんが全てなのに、お母さんの世界は私が全てじゃない。だから、こんな気分になるのだろう。
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