私に初潮がきたのは、それからまた一月がたった、夏のはじめだった。お母さんは、仕事に出ていた。私はひとりでお母さんの本を読んでいた。本の内容は、難しすぎて私にはよく分からなかったし、読めない漢字もたくさんあった。でも、私にとっては、お母さんの本を読んでいるという状態に意味があったし、長い夜をこすには、よく意味は分からない文字の海をたゆとっているのは都合がよかった。時間が、ほろほろとほどけていく。

 そうしていると、トイレに行きたくなって、私は本を置いて部屋を出た。共同の手洗い場は、外廊下を出て右に曲がった所だ。足音をひそめ、立てつけの悪い、薄い木製の扉を開ける。下着をおろすと、そこに赤黒い汚れがあった。

 私は、数秒間かたまった。怪我をした、と、はじめは思った。硬直がとけるとまず、トイレットペーパーを股にあてがってみた。ぬるりと、嫌な手触りがあった。

 生理だ。

 ようやく分かった。

 父親が、よく言っていた。お前の股から血が出たら……、その先は、覚えていない。脳味噌が記憶することを拒否していた。それに、結局父親は私の初潮を待たずにことに及んだのだから、覚えていたって意味はない。父親にされた行為が思い出された。父親が血も出ていない股に執着することが、私には不思議だった。そこに指やらなにやらを突っ込まれることには、やがて慣れていった。慣れた、というのとは少し違うかもしれない。いつからか、私ではない誰かがそれをされているのを、離れたところから見ているような感じになった。そうすると、痛みや気持ち悪さを感じずに済んだ。ただ、あの日、家を飛び出した夜に起きたことは……。

 そこまでぐるぐると勝手に頭が巡るに任せていた私は、ついに耐えられなくなってトイレから飛び出した。裸足のまま外廊下を突っ切り、表通りに駆けだす。足は勝手に観音通りの一角、お母さんが働く長屋に向かっていた。

 お母さんの顔が見たい。お母さんの膝に抱きとってもらって、頬を撫でられたい。

 長屋の引き戸を叩きつけるように開けると、何事だ、と驚いたように蝉が右手の小部屋から顔を出した。

 「香織?」

 蝉の派手な金髪が視界で揺れる。その色を見ると妙に安心して、私はそのままその場に突っ伏していた。

 「どうした、香織。」

 ひょい、と体が浮く。びっくりして顔を上げると、蝉の薄い肩に抱え上げられていた。私には、子どもの頃に親に抱きあげてもらった記憶なんてないから、こんなふうに身体が地面から浮く経験自体がはじめてだった。

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