お母さんは、私を拾った日の朝、長屋の私が借りていた部屋へやってくると、眠っていた私の枕元に膝を崩し、いなくなるときは、黙っていなくなってね、と言った。

 いなくなる、どころか拾われたばかりでお母さんのなにも分かっていなかった私は、困惑しながらただ頷いた。半分以上寝ぼけていたし、どう返事をするのが正解か分からなかったのだ。

 するとお母さんが、安心したように微笑んだ。仕事用の青い振り袖姿のきれいなお母さんに、その笑顔はとても似合った。藤の花が風に揺れるようだ、と私は思い、うっとりした。そんな私にお母さんは、微笑んだままで言葉を続けた。

 「そうすれば、帰ってくるかもしれないって、希望が持てるから。」

 希望。

 その言葉に、私は面食らった。自分の存在が、誰かの希望になる。そんな経験をこれまでしたことはなかったので、驚いてしまったのだ。そして、お母さんの言葉の寂しさにも気が付かずにはいられなかった。

 このひとは、もう二度と帰ってはこない誰かを、待ち続けているのかもしれない。

 そう思った私は、いつものように蝉の部屋に上がり込んだ際、彼に問うてみた。

 「お母さんは、誰かを待ってるの? 私の前に、誰か拾ってきたことがあるの?」

 お母さんに拾われた夜から、一月余りがたっていた。それくらいの時間がたたなければ、その問いを口にすることはできなかった。自分以外の誰かがお母さんの中にいると知ってしまうのが、怖くて。だから、私はそのとき、幸せだったのだと思う。お母さんの側にいて、当たり前に愛情を感じることができた。だから蝉に、そう問うことができたのだ。

 いつもながらど派手な格好をした蝉は、真っ赤な煙管をこれまた赤い唇でくわえながら、曖昧に肩をすくめた。複雑に重ねられた華やかな色柄の衣類たちが、さらさらと妙に涼しげな音を立てた。

 「いづみがここにきて、三年くらいたつけど、その間に孤児を拾ってきたことはないね。しょっちゅう拾ってくるような女もいるけど、いづみはいつも一人だったよ。……待ってる人がいるかどうかは、知らないな。この街に来る前のことはなにも知らないし、立ち入らないようにもしてる。俺の仕事の管轄外だからね。」

 蝉の返答は、常のように淡々としていた。私の年齢も、出自も、お母さんとの関係も、なにも蝉には関係のないことなのだろう。蝉は、親切だけれど、人に深く立ち入るようなことは絶対にしない。私だけではなく、店の娼婦たちに対しても、いつでもそうだった。

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