第6話 ミズカ様に灼かれる

 穏やかな風が心地良く頬を撫で、わずかに髪を揺らし、ほのかに草木を匂い立たせる。

 絶え間なく流れる水の音に、葉擦れの音と小鳥のさえずりが混ざり、即興のオーケストラを奏でる。耳を傾けていると、不意に小動物の調子外れの鳴き声が飛び込んできて思わず頰が緩んでしまう。

 山の朝は、時としてこんなにも爽やかで心地良い。自身が今、感覚を研ぎ澄まし集中力を高める修行中であることも忘れるほどに。


(——無だ。無になるんだ)


 心中で己に喝を入れ、ピンと背筋を伸ばす。そうしてしまうこと自体、求める境地には程遠いのかもしれないが。

 武闘家アシットは山の中腹、渓流を臨む岩場にて、人一人座るのに程よい大きさの岩の上に座禅を組んで瞑想していた。


(——やっぱり来るのかな? 何言われるだろう?)


 しかし雑念は絶えない。昨日の今日で精神修養に没頭するなど無理な話だった。


(でも、きっとこれで良い筈だ——)


 確信はない。だが、どちらにしろここまで来て身を引くわけになどいかない。

 もし間違っていたとしても、一晩じっくり考えた末の決意を伝えれば、あの人もきっと分かってくれるだろう。

 目を閉じて物思うアシットの背筋に、いきなり寒気が走った。


(——!?)


 目を開くと、空想で思い浮かべていた人物が突如として眼前に現れていた。

 金色の長い髪を朝の光に煌めかせたその美女は、蒼い瞳でアシットのことをじっと見下ろしている。


「み、ミズカさん!? いつの間にっ??」


 彼女は質問に答えず、ただ黙ってやや高い位置から冷徹な視線を向け続けている。その身体も表情も、携えている杖も、微動だにしない。

 足元を見ると、彼女は空中に浮遊していた。いくらスタイルが良く背が高いとはいえ、地に足をついていては大きな岩の上に座るアシットを見下ろすことはできない。


「あれあれ?」


 唐突に彼女はわざとらしく首を傾げた。表情は相変わらずぴくりとも動いていない。


「蒸発しておくようにとあれだけ言ったのに、どうしてここにこの人の姿が見えるのかしら?」


 抑揚なく呟くような小声が、却って空恐ろしさを感じさせる。

 アシットはそれを振り払うようにつとめて明るい声を出した。


「で、でも、アレですよね! フリってやつですよね?」

「フリ?」


 ミズカは今度は逆向きに首を傾げた。


「ええ! 昨日、やたら念を押して『絶対にここに残っちゃダメ』って言ってたじゃないですか? そういう時は逆のことをやるものだとビーノさんに聞いたことが!」


 ビーノとはパーティーの一員である旅芸人の名前である。世界各地を旅し、行く先々の人々を笑わせることを生業にしている彼は、折に触れて彼らの業界の慣わしやちょっとした技法などを教えてくれる。


「たしか『押すなよ』は『押せ』って意味とか、『これは毒物かもしれないから口に入れちゃダメだぞ』って言われたらモシャモシャ食べるとか、そういうのが暗黙の了解になっていて……」

「この私が、お笑い芸人のよくわからない行動様式を取り入れているとでも?」


 そう言うミズカの視線と表情は絶対零度を更に下回らんばかりのものだった。

 アシットは己の誤りを悟った。というより、芸人のフリがどうのとか、そんなわけないのではと薄々思っていたところはあった。


「あ、あの……真面目な話、俺考えたんですけど」


 こうなれば真っ直ぐに思いを伝えるしかないと口を開いたが、小声ながらも圧の込められたミズカの言葉がそれを遮る。


「これはきっと幻覚か何かね」

「えっ?」

「だって、ここにいる筈のない人間がいて、何やら世迷言よまいごとを口走ってるのだもの。現実の光景の筈がないわ」

「い、いえ、聞いてくださいミズカさん……」


 聞いてくれる様子はなく、またわざとらしく上に向けた手のひらを拳でポンと叩いてみせる。


「わかった。これは魔物が化けているに違いないわ。だって今ここにこの人物がいるわけないんだもの」

「あ、あの……」

「よくよく見たら、耳が尖っているじゃない」

「そ、そんなわけ……!」


 思わず耳を触ってしまう。当然、ごく普通の己の耳である。


「マヌケは見つかったようね」

「え?」

「今のは『俺の変身は完璧なはずなのにィ』的なリアクションに他ならないわ」

「いや、尖ってるとか言われたから思わず触っただけで……」

「許せない魔物ね。曲がりなりにもかつて仲間だった人に化けるなんて。この大賢者ミズカ=フラムメントが今すぐ塵に変えてあげるわ」


 そう言い切ると、手にしている杖をアシットの姿をした何者か(本人)へと向ける。先端に付いている宝玉に魔力が込められ、赤い光を帯びていく。

 サラッと『仲間だった』と過去形で言われたこともショックだったが、今はそこに言及している場合ではなかった。喉が張り裂けんばかりに強く主張する。


「ほ、本人です! ミズカさん! 俺は本物の武闘家アシットです!!」

「本人?」


 また首を傾げる。


「そうです! 本人です! その証拠に旅の思い出話とかできます! ああ、でもミズカさんとはこれといって思い出がない!!」

「本人だったら……」

「えっ?」


 何の躊躇もなかった。

 杖の先端、魔力満ちる宝玉から赤い光が伸び、アシットの座る岩へと当たる。


「あ、熱っ!」


 一瞬で岩の表面がとてつもない高温に熱せられ、その上にいたアシットは咄嗟にそこから飛び退こうとした。

 それより早くミズカが軽く杖を振ると、光の環のようなものが出現し、坐禅を組んでいた彼の足と岩とを固定させる。


「う、動けない!! ああっ、熱い! 熱いっ!!」


 足を灼かれ、情けない声を出すアシットに、ミズカはどこまでも冷たい眼を向けている。


「言ったはずよ。もし蒸発してなかったら、物理的に蒸発させるって」

「そ、そんなっ! 話を、話を聞いてください!!」

「話を聞いてほしかったら、まずは約束を破ったことを謝りなさい」

「すいませんっ! 謝ります! 謝りますからっ!!」


 上半身を左右前後にのたうちまわらせて許しを乞うが、ミズカは灼熱の溶岩と化した岩を戻す魔法も、足の拘束を解除する魔法も発動する素振りを見せない。


「まあ土下座よね」

「どっ、土下座?」

「そうね、その場で20秒でいいわ。その岩にしっかり額をつけて土下座しなさい。本当にすまないという気持ちで胸がいっぱいなら、肉焦がし骨を焼く熱い岩の上でもできるはずよ」

「そ、そんな、どこかの悪徳高利貸しの親玉みたいなこと言われても……」


 涙声になりながら、真っ赤に色を変えた岩肌に目を向ける。

 ズボンを通して足を着けているだけでも悶絶しそうなのに、ここに額をつけるなんて耐えられる筈がない。


「ううっ……」

「……仕方がないわね」


 たっぷり間をとってからミズカがまた杖を振ると、今度は青い光が岩へと放出され、瞬く間に冷気に包まれる。


「——! つっ、冷たい! 今度は冷たい!! あっ、でも熱せられた足にはこの冷たさが心地良いぃ!!」


 ほとんど混乱して、よくわからない喚声をあげてしまう。

 そんなアシットに、ミズカは諭すように告げる。


「覚えておくといいわ。それが『整う』という感覚よ」


 身体とともに頭も急速に冷やされてはいたものの、アシットには彼女が何を言っているのか全く理解できなかった。

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