第32話 最後の晩餐 ④
探偵事務所に戻った香織と涼介は、改めて谷村正彦の料理ノートを広げた。机の上には、正彦が残したレシピやメモが並べられ、二人はその一つ一つを丁寧に読み解いていく。
「このノートには、彼の創作の過程がすべて詰まっているようね。」香織はペンを取り、メモを取りながら言った。「でも、どこかに彼の内面的な葛藤が表れているはず。」
涼介はページをめくりながら、あるページで手を止めた。「香織、ここを見て。彼が最後に書いたメモだ。」
そこには、正彦の手書きの文字がびっしりと書かれていた。文字の端々には、彼の焦りや絶望が滲んでいるように見えた。
「彼はここで、自分の限界に対する恐れを語っているわ。」香織は声を潜めて読み上げた。「『もうこれ以上進化できない。自分の料理がこれ以上高みに達することはない』。」
涼介はノートをさらに読み進め、正彦の料理に対する情熱と同時に、彼が抱えていたプレッシャーが明らかになる部分を見つけた。「彼は自分の料理が完璧であることを常に求めていた。でも、その完璧さを求めることが、逆に彼を追い詰めていたようだ。」
香織は、正彦が「関門海峡タコとカブのヴァンブランソース」にどれだけの思いを込めたのかを改めて感じ取った。「この料理が、彼の最後のメッセージだったのね。」
「でも、ただの自殺とは思えない。」涼介は考え込んだ。「彼の周囲には、もっと深い事情が隠されているはずだ。」
香織はノートの端に書かれた小さなメモに気づいた。「ここに、ある日付と名前が書かれている。『11月15日、村上健一』。」
「村上健一?」涼介は眉をひそめた。「それは彼のライバルシェフじゃないか。」
「ええ。村上さんに話を聞いてみる必要があるわ。」香織は決意を固めた。
その日の午後、香織と涼介は村上健一のレストランを訪れた。村上は、正彦と同じようにフランスで修行を積み、帰国後に自身のレストランを開いたシェフだった。彼の店は、正彦の「ラ・ルミエール」と並んで高い評価を受けていた。
村上は二人を迎え入れ、落ち着いた表情で話を始めた。「正彦のことを聞きに来たんだな。彼の死は本当に悲しい出来事だ。」
香織は率直に質問した。「村上さん、11月15日に正彦さんと会っていたことについて、詳しく教えていただけますか?」
村上は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに冷静さを取り戻した。「ああ、その日か。実は正彦が私の店に来て、一緒に夕食を取ったんだ。彼はその時、自分の料理に対する悩みを打ち明けてくれた。」
「具体的にどんな悩みを?」涼介が尋ねた。
「彼は、自分の料理がこれ以上進化できないという焦りを感じていた。そして、私に助言を求めてきたんだ。」村上は静かに答えた。「私は彼に、自分自身を信じることが大切だと言ったが、それが彼の心を軽くすることはできなかったようだ。」
香織は村上の言葉に耳を傾けながら、「正彦さんが何か異常な行動を取ったり、何か不審なことがあったと感じたことはありますか?」と尋ねた。
村上は首を振った。「特にはない。ただ、彼の目には深い悲しみが宿っていた。私は彼がこんな形で終わりを迎えるとは思ってもみなかった。」
香織と涼介は村上に感謝の言葉を述べ、店を後にした。港の風が二人の顔を撫で、冷たい潮の香りが漂っていた。
「村上さんの話から、正彦さんが抱えていたプレッシャーがさらに明確になったわね。」香織は言った。
「そうだね。でも、まだ足りない部分がある。」涼介は深く考え込んだ。「彼の死の背後にある本当の理由を見つけなければならない。」
香織はノートに再び目を通しながら、「次に、正彦さんの親しい友人や家族に話を聞いてみましょう。彼の内面的な葛藤や、何が彼を追い詰めたのかを明らかにするために。」
「その通りだ。美咲さんや、他のスタッフたちの証言も重要だ。」涼介も同意した。
二人は調査を続ける決意を新たにし、正彦の死の真相に迫るための次の一歩を踏み出した。門司港の夕陽が再び海を染める中、彼らの探偵としての旅はさらに深まっていくのだった。
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