iv

 教室内はいつもどおり、制服の者とそれ以外とで2:1位になっていた。我が校に、法律が定めるところ以上の身だしなみに関する規則はない。制服を着ると着ないと、頭髪を染めようと、ストレートチップの革靴から下駄まで、最低限文化的な装い——半裸でもない限りは——生徒も教師も親も頓着しない。より正確に言えば、「規則はなくなった」のである。我が校はこと学問の成績だけは申し分ないが、創意工夫に富んだ生徒たちが何をおっ始めるかは大体想像の外で、この件の発端は生徒会がゴプニクスタイル上下アディダスを組織のアイデンティティとして欲したがために、それに便乗した生徒たちが結社、ついでに身なりの自由を巡って集団交渉をふっかけたことにある。まず学内新聞が我先に中立を捨てて極左報道に転じたし、美術部は「一体何が今日の学校をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか?」という学校首脳陣の顔写真をグラビア雑誌のビキニやらコスプレやら、あるいはまたマックイーンのキャットウォークやらに切り貼りした巨大な一幅のコラージュを職員室前に展開したし、運動部は毎試合お互いのチームが自由にむかって忠誠を誓ったり、まあ当時の様相は枚挙に遑がない。理事会としても、こういう生徒たちの若き破壊衝動が、多少なりファッションに逃げてくれればこれ以上のことはあるまい。かくて我々は一連の権利を奪取したのだが、人間の心とはアンビバレントなもので、行く所まで行っておきながら、結局ほとんどの生徒が制服にとどまっていた。彼らにとって看過し難いのは一方的な専制であり、自由の名による抑圧の選択は、何より甘美な嗜みでもあった。ささやかな勝利の象徴として、ちょっとしたアクセサリーをつけたり、靴だけはエアジョーダンにしてみたり、いわば高校生の仮装をした高校生の集団というわけである。

 かかるデモ活動により最大の恩恵を得たのは、実は教師陣という見方もある。最近は新任(一昨日まで大学生だったような)教師が生徒に負けじと不摂生な格好で教壇に立つことに躊躇もなく、いわば教職の神聖なんてものはとっくに失われている。

 HRを気だるい態度で進行中の彼、坂本もその一味である。もう満身創痍という感じのシワやヨレがおびただしい紺色の背広は、彼ごと脱ぎ捨てたように見える。彼が生気を取り戻すのは、ただ自らの趣味が反映された、凡そ畜生の飼料にも役立たない数学の問題を生徒に頒布するときだけ。それ以外の勤務時間は常に水分不足じみた死相を湛え、油の回りの悪いブリキ人形よろしく、錆びついた関節を動かすマシンだ。


*


 四限から開放された途端、人口密度の半分がおもてにさらわれていって、心もち息がしやすくなった。もう半分は惣菜パンや弁当箱を取り出し、左右の仲間と群れ始めた。自分もさあメシにしようと考えたものの、午下の睡魔に意識をほぐされて、食欲ごときは赤子の手を捻るように負かされてしまう。机の薄汚れた合板をしとねに、自分の精神はもう殆ど昏蒙(寝心地が最悪なので、よほどのコンディションでなければ完全に意識を手放すことは叶わない)のビザを取りかけていたとき、ガウシアンブラーの覆ったような視界に、どこか企みをもつ笑顔とぴったり目があった。無遠慮なジャンプスケアに堪らず飛び起きると、90°に首を傾けた体勢から徐に復帰する、三つ編みを下げた浮原の顔がそこに居た。

 「おはよう」

 「浮原のお陰で一睡もしてない」

 「個人的には辛そうだったよ。見るからに硬いし」

 「それは否定できない。枕がこんなにほしいと思った日はない」

 「私の腕でも貸す?」

 「寝心地を褒めたら殺されそうだよ」

 浮原は正中が薄っすら沈んだ繊手をひらひら遊ばせる。手の甲や指先の筋肉が器用に発達しており、か細い線にも画家としての無数の研鑽の形跡を湛えていた。そして椅子をその背が此方の机と衝突しないような形に設置し、そこに横向きに座りながら手際よくカロリーメイト(フルーツ味)とルイボス茶の500mlペットボトルとで屋台を広げ始める。むろん我が机に。おまけに租借地の境界と言わんばかり、白い薄手のハンカチをそれらの下に敷いていた。

 「お決まりの粗食ですこと」

 「お決まりの回答だけど、私なりに気を遣っている方。頑張ってる」

 「それ以上どう悪くなりようがあるんだよ」

 「君がとやかく感想くれなければ、一ヶ月乾パンかシリアルだけで生活できるよ」

 「浮原、あなたはいっぺんうちに来い。食文化の尊さを身に調教してやる」

 あくまで調教師は楠見および神田だと注釈しておく。自分は毒見担当である。

 「知っての通り、あまり食に興味がないんだ。どちらかといえば、早く少なくが私にとっては嬉しい。手間取って集中が切れたり、イメージを忘れたりすると、私は困ってしまうから。まあ、世界にはこういう奴もたまに居るんだよ」

 「ナスが嫌いな癖に。あと椎茸も。ほんとに興味ないなら選り好むなよ」

 「ナスは食べ物じゃないので」

 でもまあ、と窓辺の景色に視線をやりながら、目を喜ばせるものが何もなかったように肩をすくめて、またすぐ此方に向き直した。

 「その君のおうちとやらは若干気になるけれど」

 生成りのブロックを半分に割って、片方を小さく開けた口の中にしまう。未熟な破片がハンカチに崩れ落ちる。親指についた粉末は、一瞬の間に舌の僅かな先端で調べとった。

 「別に素敵ではない。寮崩れの掘っ立て小屋だよ」

 「君以外にもいるの?」

 「何人かは。神田とか楠見——」

 「楠見って、あの楠見晴。まっさらの髪のビスクドールみたいな」

 「その形容がどうかは知らないが、まあ、さよう」

 「おやおや。楽しそうで結構。実際どうなの、おにーさん」

 「浮原に説明すると面倒くさい」

 「言えてる。私その辺はしつこいし」

 口は戯けて深刻な声色を発しつつも、手遊びでノートの切れ端に猫とセーラームーンとモリエール像を混血にしたキメラを落書きしている。端的に少女趣味の猫耳親父なのだが、それでいてドラマチックな濃淡といい輪郭の精緻さといい、端正に構えた説得力がかえって可笑しさを助長している。そのうち、はっとした様子で言った。

 「ところで、君、ごはんは? 休み時間、もう半分終わっちゃったけど」

 「……ございません。買いに行く時間も気力も」

 「そんな身分でよく食の大切さをああ説けたね。馬鹿でしょもう」

 浮原は二分割されたブロックのもう片方を親指と中指の二点ではさみ、呆れ気味に「手を出す」と告げる。指示通り広げた右手の上に、それをそっと置いた。

 「私の貴重な栄養源。貸しです」

 バランス栄養食の一欠片から生まれる負債。しかも拒み難い微妙な水準の利子を上乗せして取り立てるのだろう。それは例えば荷物持ちであったり、席取りであったり、とにかく一個の面倒事に退路を断つだけの口実さえ作れれば結構なのだ。

 しかし手に握った以上、今更返すこともできない。自分はやたらに高くつくそれを複雑な心境で口に放り込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

顔が良いだけで可愛くない女 hwnt (挽割納豆) @hwnt

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る