iii

 おんなじ制服なのに、ふと自分ばかりがやくざな身の上に思われてくる。

 「独立した二つ以上の点が面に接した状態で、それぞれの点は同時に面を離れることなく、交互に入れ替わりながら進む様子」を、日本語は「歩く」としか言えない。故に当座の状況を日本語話者の自分が言うならば、「並んで歩道を歩いている」という文句に仕方なく行き着く次第だが、しかしそうなると文法以外は誤りである。

 おんなじ「歩く」でも、手足の振り子の、その扇形は孔雀とディアボラピザ、その

緩急はチャイコフスキーと店内有線、その造形はピエタ像と変死体にアナロジーが成り立っており、たって「歩く」に要約するのは、六人辿れば合衆国大統領も知り合いという次元の、窮極的な抽象表現に打ち寄せられてしまう。

 「そこは左折です」

 車道側を僅かに下がって歩き、交差点ごとに方向を教授する。その都度、彼女はバンブーがついた深緑の日傘と一緒に見返って、気まずそうに頷く。

 結論から言うと、彼女には道が一切分からない。そんな自分が歩いて行こうなどと結構な口を利き、申し上げる言葉もない。だが、さもありなん。ここ一帯は古くから住宅街で、滅多に車も通らず、銀杏並木と煉瓦造りの垣が続く中々上品な通りだが、彼女にとっては陋巷も同然、かかる地理に明るいほうがかえってふしぎな位である。

 動いた拍子に額の汗が崩れる。まだ六月の頭なのに、初夏というには些か張り切りすぎの気候だ。木陰から一歩はみ出した途端、皮膚が蒸発していく。蒸した空気に息継ぎをして、前髪を手で梳いていると、視界の右半分がうっすら暗くなった。

 「今日、暑いですね。少々手狭ですが」

 真隣から1/2歩分だけ引いた傍らで、彼女は此方側に日傘を若干傾けていた。そのことに気付いたときには、既に道なりを向く横顔だった。しかし腕がやや不自然に高く上がっていた。小柄の体躯で二人をこまの下に収めようと試みているからだ。

 「俺なら、ほら、大丈夫ですよ。お気遣いはありがたいですが」

 「私が気になるというだけです」

 「……諦めませんね」

 「そうかもしれません」

 「……せめて俺が持ちます」

 半ば場の勢い任せで受け取ったハンドルに手の体温が残っていた。美しい放射線状に繊細に配した露先や受骨に何となくエスプリがある。軽やかな外観の割に、実際に握ってみると予想よりは量感があって、それは金属のためだと思われた。自分は努めて彼女の上背に合うよう手元の位置を調整した。一応の体裁に、ごく僅かだけ自分の身体をその陰に含めた。

 この構図は案外しっくりきた。自分も日に焼けないインドア市民だが、彼女は常軌を逸したインドア星の申し子で、ちょうど主従に近い。それは畢竟、一緒になった相手を足元に置くことに通暁した、筋金入りのノブレスという意味であろう。

 実際、深山木傘みやまこがさは由緒正しいハイソの使者といって差支えない。幕末に先立ち財成した旧家の末裔であり、第二帝政式に連なるアーチ窓とマンサード屋根のついた洋館(国土地理院地図に固有名詞つきで載っている)に今も住み継ぐ、門外不出のマドモアゼルである。日本とイギリスのクウォーターらしいが、いずれにせよ病的に蒼白で、通年日傘を戴く佇まいやグリム童話の実演が如し、我が校の最も見どころに富んだ観光資源という理解で一致している。

 それはまた一種の不可侵条約でもある。暗黙知、あるいは無難の心得として、下手に彼女を手出しすべきではない。たしかに本体は可憐だが、その衛星が強面にすぎると誰でも分かっている。なるほど、ならば何故このような状況に立ち至ったか。

 「誘ってくださって、嬉しいと思っています。それは本当です。でも、やはり私がいては、その……みなさんのお邪魔になるのでは?」

 「俺は、あー、「ミヤを命に換えても連れてこい」と仰せつかってるんです。マジですよ。あなた抜きでは、むしろ俺の立場がない。もし気が乗ったら、ぜひ」

 七月に控えた文化祭、我々文藝部(名ばかりだが)は、部長の一存によって出展を試みる。徹頭徹尾いい加減だけが部是なので、籍を置く理想的デコイと化しており、深山小傘も数多いる幽霊部員のひとりだった。しかし、律儀な性格なのか、読書家ゆえか、一ヶ月に一度はおずおずと顔を出す。それを実質上の部員若干名が気に入るのも無理はなく、今やマスコットに準ずる扱いになっている。酷い場合、彼女が何日にやってくるかを巡って、賭場が開かれることもあった。部員らのロジックによれば、「これは相互理解であり、カルチャーの交換留学だ。我々もブッキーを倣って、UKの風俗に連絡しよう」。胴元は部長だった。

 かくて関係性が一番中庸マシな部類の、かつ部内の小間使いの板についた自分に、勧誘せよと白羽の矢が立つ経緯になった。諸々の予定に忙しい彼女は、話すなら登校中が一番手持ち無沙汰だと言うのだ。

 「今日の放課後、部室に伺っても良いですか? 送迎の方に頼んで、少し暇をつくってみます」

 「勿論。深山さんも部員ですから」

 「深山でいいですよ。敬語も必要ありません」

 「畏れ多い」

 「深山のほうが年下だからいいんです。そうだ、さっきみたいにミヤにしませんか? ミヤって響き、ちょっと可愛いですよね」

 深山本家が刺客を遣ってはきまいか? 就中過保護なご両親てずからその筋の人間を組織されるかもしれん。しかし、ここまで言わせておいて、なお距離を隔てることがどうしてできようか。部の人間が彼女にかかずらうのも少し納得できる。凡そ趣味と独自研究を基調にしたあの空間に、彼女は重宝どころではない。

 とりとめなく彼女に意識を割いていると、もうそこを曲がれば校舎という、大通りに合流する出口に着いてしまった。自分は弾かれたように傘を返却した。幸い今までの道のりは植木に水をやる老人の他にすれ違わなかったが、この格好を口軽い学校関係者に見られでもすれば、いよいよ一族が黙視しまい。

 しかし、あの深山が誰かと徒歩でやってきたという現実を覆す術はなかった。目的地直前で別行動の提案など、どういうレトリックを以てしようが、いま芽生えた友好に疑問を投げかけるのは間違いない。自分はしばらく深山家に買われただの、下心の博徒だのと、種々なる偏見および逆さまのリスペクトで記憶される羽目になった。

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