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その建物は、梅雨には真菌の洞窟となり、夏には蚊や蟻の故郷となり、冬には刺身や惣菜の保管に困らぬ氷室となる。しかも人間の逞しさはこういう人造の自然選択に順応して、結構快適に生活を営んだりもしていけるものだ。
名状し難い体臭をもつ日に焼けた六畳の中心で、左横臥の所を右向きに寝返ると、濁った型板硝子を透る陽の微妙な入射角から、現今の時刻に関して断定を得られる。順応の神秘は、長いことある環境下に棲息した暁に、かかる理屈では片付かない野生の嗅覚を賦与して下さるのだ。ただいま七時四十五分。自分はこの数字に確信めいたものをもっている。
カーテンレールに吊るされた針金のハンガーから白いシャツをさらって、足早に第一ボタンまで締める。身ごろはもとより袖や衿の厚い織地も抜かりなくアイロン掛けされた若々しいシャツは、ことごとく時代がかった部屋にひとり、反体制的な気高い生命力を感ぜさせる。
黒ずんだ真鍮のドアノブを回して、廊下を突き当った先に、一階に連絡する急勾配の階段がある。縦に長いかわりに幅は短いので、通常、朝夕の混雑時には譲り合いの精神などと取り澄ましてはおられず、やはり周期的に痛ましい交通事故が起こるのも一種の伝統であるが、既に往来の影は見られない。
共用室は、案の定あと片付けの風潮に一丸となっていた。今更になってむざむざよりついてきた世間知らずを応接するつもりは毛頭なさそうであった。
差当りキチンの角でグロッサリーを物色することに決めた。キチンやバスを始め、一階の設備はいきなり西海岸的な趣きを呈する。タイルの床、金属質のトースター、就中スイスか何かより輸入した家電ガス周り一式はまことに場違いな
ここは、社会的に学生寮と目されるべき住居である。実態は、言葉の半分も機能していない。それでいて事足りているのも本当なのだ。起源を戦後まもなくに遡り、頃しも資産家の学長が無計画に普請したまではよいが、後世に持て余して廉価で学生に間貸しするに至った。尤も校舎の立地自体がアクセスに申し分ないので、今日では熱心かつ数奇な地方出身の青年数名が身を寄せる、異質な長屋と化している。
さて、小柄な冷蔵庫の下段を覗いても、水に枇杷茶に卵はあれど、即席に腹満たる既製品が見当たらない。朝食を半ば諦めた矢先、にわかに人の手が肩口を触れた。
「おは。サンドウィッチあるよ。ねぼすけ用」
「以後三代に恩は伝える。
「感謝は神田にもして。わたしは具材を切っただけ」
「彼は……もう仏壇にでも祀っておくね」
そして
「お口にあう?」
「急いで食べるのが罪悪という味です」
一口目で早速このサンドウィッチをつくるに充てた労力の行方を考えてしまう。
ハム、チーズ、スクランブルエッグ、ピクルス、レタス、マヨネーズのソース、オニオン、フライパンで焼いたバター香る四枚切りのパンに、胡椒の表現を探り当てると、一層詩的な融和の喜びが引き立ってくる。それを賞翫するような寸暇も惜しみ、文明の片鱗もなくただ冒涜的に摂取するデカダンス。ブラヴォ。
「焦りすぎ。喉に詰まって、死んで、神田が泣くよ。恩知らず」
「線香も上がらん最後だなそりゃ」
晴はカウンターを背によりかかり、濃緑のブレザーにネクタイを締めた制服姿だ。整髪の面倒を唱えては毎朝一番に起床してシャワーを浴びるというそれこそ面倒この上ない強硬策にでており、皮膚の表面には昂まった体温の名残がある。ヘアオイルの光沢を帯びた毛束から仄かにスパイシーなサンダルウッドの香りがした。おろしたてのベッドリネンに似た柔い乳白色の髪にタッセルボブがよく似合う。
それからとりとめのない朝の雑務に、済んだ皿を洗っていたとき、シンクを伝う流水のリズムのうちを、やおらくぐもった呼び鈴が割り込んできた。後付け工事の土産ながら、実に築年数相当の印象を裏切らない。歯切れよくポップな現代的チャイムと違い、事故物件よろしく、独特の反響のうちに深刻な不協和音を蔵した端から良い報せを期待させない音が、たいへん気に入っている。よりによってここを訪ねなければならない人種は、それこそ国税庁か地元の営業戦士か新興宗教の伝道師かと相場が決まっているからである。
「わたし、ちょっとでてくる」
「や、こっちも手が空いたから俺がでるよ」
どのみち何か勧誘されるか押し売られるかで目に見えている以上、学生服の女子高生よりかは、野郎どうし自分を窓口にしたほうがましだろう。コップと食器を隅によけて玄関口に向った。建付けの悪い引戸を上下に軋ませつつ左に開き切ってから、自分が首掛けエプロンを着たままの状況を思い出した。とても家庭的な刺繍である。急に気恥ずかしいやら威厳の失墜やらを感じたが、
百戦錬磨たる老婆に着想を得た一種の般若を努めて我が顔に憑依せしめんと、いかばかり間抜けな面持ちの自分が現れたかに察して余りあるが、先方は前で手を組み、宛然と微笑み返した。
「おはようございます」
晴とおなじ制服に、綰髪を黒のレースのリボン(笑いごとにならないクチュールの手仕事)で束ねた可憐な佇まい。そして背後に控える可憐とは無縁のBMW。相殺して漸く現実に戻ってこられる。
「……あの、御迷惑でしたでしょうか」
「あ、いえ。全然そんな。おはようございます」
失念していた。こういう約束になってしまっていたことも、またもし彼女が迎えをよこすとしたら、当然こういう構図になって然るべきだということも。
「物々しい感じになってしまってごめんなさい。両親がすこし、心配性なんです。ここからはふたりですし、歩いていきましょ?」
「ハイ」
無言でエプロンを脱ぎ、ジャケットを羽織り、鞄をさげた。塀の側に停留した車を横切ると、ハンドルを握る紺の背広の男性に後部座席から目線を送る女性を視界に入れざるをえないが、自分の注意はもう次の曲がり角がいつあるかというその一点のみに集中していた。
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