顔が良いだけで可愛くない女
hwnt (挽割納豆)
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十二分ほど前倒して着いたのに、会計を探すいとまもなく、ポケットが振動した。ウールの、強撚糸の弾いた雨粒がぽたぽた散った。
「右手奥から三列目の席。」例によって電信じみた挨拶である。折畳み傘を鞄に仕舞った。そして三、四所帯で列になった入口の混雑を横目に跨ぎ、暫し歩いていくと、視界の一隅が、肩上の位置でちいさく手を振る先客を捉えた。
「お疲れ様」
今しがたの軍仕込み的な連絡に比べれば幾分人格を垣間見させる、控え目ながらに抑揚の効いた声の人物は、テーブルの差向いに広がる三面開きのメニュー表と皿類とを窓際に片付けた。催促されるままに黙って長椅子の塩ビの奥に座ると、彼女は漸く口元の緊張をやわらげた。含みがあって、しかも屈託のない微笑だった。週末に掘削した愉しい落とし穴の一部始終を定点観察している人間のようだ。不敵というよりも、かえって期待が隙だらけで、罠を踏むのも結構エンタメになりそうなあべこべの信頼性を備えている。こういう見方を催させるのも、要は顔の良さの産物である。
「タオルハンカチならあるけど」
細かい水滴が髪の毛先にしなだる感覚を言われてから意識した。目が荒い矩形の布地は、清潔に乾燥している。洗濯したばかりなのだろう。
「そのうち乾く」
「そういうの、風邪引くと思うよ」
頬杖ついて呆れ気味に漏らしつつも、それきり追求する素振はもたない。というか諦め半分なのは声音の温度で分かった。それは全き正しい判断だとも思った。男児の基本生態として己の健康には興味がないからだ。それにしてもと彼女は続ける。
「重役出勤」
「まあな。文藝部の連中に絡まれた」
我々における暗黙の慣例は、
「君に友達っているんだ……!」
彼女はごく自然な感動をあらわにした。自分もまた、俺って友達いたんだな——と思わず納得してしまった。ただその感動をそっくりの文句で返すのはあまりにも赤貧という感じがしたので、何か既得の持ち物から捻出しようと考えた。私的交友をくまなく物色した結果、彼女以外にひとつも思いつかなかった。
「浮原がいるだろ」
「うわ、少し萌えたかも。今みたいな萌え要素を皆に出していけば良いのに」
結構萌えキャラで売っていけるよ、と笑うが、再現性はない。
「ご注文お伺いします」
青いエプロンの給仕が、右にクリップペンシルを、左に板付きの伝票とを手に突っ立っていた。浮原が呼んだのだろう。定めてアルバイトの、上京に順応した垢抜けない私大二回生というべき風貌であり、割合大き目の掌中に、今にも折れそうな矮躯の筆をもう慣れっこの手腕で巧く扱う姿は、なべて
「レモンチーズケーキ、ひとつ、お願いします」
「おなじやつをもうひとつお願いします」
「あとキノコのグラタンも」
「それはいいや。以上です」
明らかに浮原はこの場で夕食を済ませる算段だ。換言すれば、話しが蛇足にもつれ込む疑いなき信号シグナルである。尾もつき背もつき、理不尽な温度で煮込みにしたという理不尽な理由のためだけに不自然に糸引いたゲル状に戻され、直視を憚り処分のあてもつかず、黙殺だけが出口、そういう時間の斥候である。
栄養価なきダイアログは我々の関係それ全体の地図でもある。オトモダチだとか、同期のよしみだとかよりも、常にもっと猥褻で、高カロリーで高脂質。
「で。君の部とやらでの青春を聞かせてくれたまえ」
「トクベツ何も。文は名ばかりの道楽研究会だしな」
「楽しかった?」
「……や」
「なら良かった」
「保護者か」
声に出した音が生々しい量感を伴って馴染む。保護者。いったん言葉を得ると父祖の代からもネイティブだったような犯し難さを帯びて浮原の三人称に領土を占める。
どことなく彼女は自分以上に自分の秘密を存じていそうな気がして、こんな彼我がそっくり包摂と内容に当る状況を形容すれば、保護者はかなりいい線をいっている。とても、隠しごとをできる気がしない。
「君も書いたりするのかな。詩とか小説とか。見せてよ」
「死んでも見せない」
「私の絵はいちいち見るくせに。トクベツ何もないなら美術部が歓迎するよ」
「あなたたち、風刺画描いたり春画描いたり、もうじき廃部しそうだぜ」
「表現の嗜みとして、君たちもそのくらいはすれば」
「フザケンナ。女子も多いんだよ」
「うちもだけれど。というか私も実は女子だね」
にわかに数秒の沈黙が横たわった。浮原は収まりに困って、若干量の後悔が沈殿するぎこちないなはにかみを湛えた。珍しく自分を持て余しているようだった。
気の利いた冗談の一句でも考えつくべきだったが、浮原のほうがとっくに結論を決めていて、今更何を付け加える余地もなく思われた。
「ごめん。慣れないこと言った。忘れる」
「知ってるよ。でも慣れないな」
あるいは死より慣れないかもしれない。肩口に届くオリブ色の猫毛、直射日光に弱そうな薄い双眸と、そのおもてを覆う愁いに富んだ翠黛、のびやかな白皙の肢体。
「ま、私はちょっと顔が良いだけですから」
「はいはい」
定型文は更に「可愛くないし、昔から女子が下手くそ」と続く。
自分という状況を幼少から検証した回答として、比較的恵まれた外観を与えられているとは、他ならぬ彼女の弁である。然しまた一連の検証により、自分の概念が定義する女子への不適性を確認したので、それはそれと前向きに料理した産物に今の私ができたのだと、いつかの話半分に他人事のように語っていた。
お陰で浮原には一種の自覚が頭から欠落している。彼女が自分の容姿に関して言及するときも、それは一人称の主張ではなく、むしろ二人称の此方側に一緒に立って、客観から自分を鑑賞するような口振りなのだ。顔が良いなんて自評も土手の坂道に咲く草花を愛でるのと大した違いがない。それが何より一番、困る。
「それで」
窓硝子ごしのコンクリートを穿つ鈍い雨音に混ざって、さく、と衣のほどける音がする。浮原の指は、フィッシュ・アンド・チップスから接続詞を減じてチップスを除したもの、特に白身魚のフライを挟んでいた。
「潔癖な君の部に、気になる子はいないの? 聞かせてもらうよ」
かくて浮原は自分を脇によけてから、人の関係に立ち見席を要求する。ところが彼女という従軍記者の同行を許すと、じきその背後に控えた狂おしい気配にあてられてしまい、おしまいにはもう戦も報道も全部釈迦になってしまう。
これは人生に発見した直近の地獄絵図であった。
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