第17話 知っているかもしれない匂い

(暑い……)


 明くる日の体育の時間。

 この日、二郎のクラスは持久走をやらされていた。

 

 炎天下の7月上旬。

 学校外の3キロ近いコースを走らされるこの地獄の授業において、二郎は陰キャらしさを演出するために最後方のそのまた更に後ろくらいのポジションでだらだらと孤独に走っていた。


 本来、3キロ程度のコースなら10分未満で駆け抜けられる二郎だが、そのような運動神経の良さを見せてしまっては目立つ。

 なのでダメっぷりを遺憾なく演出し、集団から50メートルは離れて追走中。

 そんな中、ちょっとした異常事態が発生する。


「あ、二式くん……奇遇ね……」


 最終直線でズルズルと逆噴射してしまった逃げ馬のように、この持久走の最後方まで下がってくる女子生徒が1人現れた。

 綺麗になびく白銀髪。

 飛び散る汗すら美しいそんな風貌。

 しかしその表情は今、苦痛に歪んでいた。

 そう、隣に逆噴射してきたのは――何を隠そう清歌である。


「だ、大丈夫か白川さん……?」


 意気揚々と前方を走っていた清歌の逆噴射は、二郎にしてみると予想外だった。

 なんせ清歌は運動神経に優れている。

 体力もないわけではなく、某鬼ごっこバラエティに出演して逃げ切った実績まである。

 それなのに逆噴射。

 少し心配だ。

 

「……熱中症とかじゃないよな?」

 

 正体をひた隠したい二郎としては、清歌との物理的な距離はあまり縮めたくないわけだが、もし具合が悪いなら話は変わる。色々と尽力するべきだろう。


「ど、どうかしらね……ちょっとめまいがする感じはあるけれど……」

「それは……熱中症っぽいな。無理はしない方がいいと思う」


 二郎は足を止め、清歌の身体に手を添えて走るのをやめさせた。

 清歌を気遣えば目立ってしまう恐れがあったものの、それは緊急時ゆえに甘んじて受け入れる。

 男子の嫉妬の眼差し、里穂のムッとした視線。

 先団から飛んでくるそういった注目はすべて無視して、二郎は清歌を気遣った。


 清歌の体操着は汗で酷く濡れていた。

 これだけ汗を掻くような状態なら、熱中症にもなろうというものだ。

 その上、汗で体操着が透けて、白いブラが見えていることに気付く。

 それをまじまじと見るような趣味はないので、サッと顔を背けて周囲に目を向けた。


「……公園があるな。そこで休んでいこう」


 持久走の最中、具合が悪くなったら無理せず休んでいい、とのお達しがあらかじめ出ている。

 今走っている幹線道路沿いのコース横にちょうどよく公園を見つけたので、二郎は木陰のベンチに清歌を連れて行き、座らせた。


「ハンカチ、のせるぞ?」


 近くの水飲み場で濡らしてきたハンカチを清歌の額にのせる。


「ありがとう……」

「いいんだ。とにかく回復に努めてくれ」


 あとはどうにか飲み物をゲットしたいところである。

 水飲み場の水を飲ませるか? 

 あるいは一応持ち歩いている小銭でスポーツドリンクでも買ってくるか?

 そう考えていると――


「あら、白川清歌ちゃんじゃない?」

「わっ、ホントだ。近所の高校に通ってるんだっけ?」

「具合悪そう。平気ですか?」

 

 と、公園にたむろしていた子連れのママさんたちが集まってきたことに気付く。

 二郎は身構えた。

 善悪の判断に迷う。

 騒ぐようなら清歌を守らなければならない。

 

 ところが――ママさんたちは二郎の心配を杞憂に変えてくれた。

 水筒のお茶を恵むことで、写真すら撮らずに清歌を助けてくれたのである。


「ありがとうございます……」と清歌。

 それに対して「いいのいいの」と穏やかな返事が返される。


 一芸能人として、囲まれることにはあまり良い思い出がない二郎だが、ローカルではこうした温かな出会いもあるのでバカには出来ないな、と思う。


(こういう人たちばかりなら、正体を隠す必要もないんだがな……)


 今の時代はどうにも個人のプライバシーが紙切れよりも薄い扱いになっている気がしなくもない。

 そんな状況下において、清歌はやはり堂々とし過ぎていてリスキーではないかと二郎は心配になってしまう。ママさんたちが精神的に大人でなかったら、面倒なことになっていたのは間違いない状況である。


「じゃあキミ、あとはしっかりとナイトになってあげてね?」


 ママさんたちは二郎にそう告げると、この場を離れていった。

 一礼して彼女らを見送った二郎は、改めて清歌に目を向ける。


 先ほどまでに比べると、随分と回復しているのは確実だ。

 とはいえ、まだ若干つらそうではある。


「ごめんなさい二式くん……迷惑、かけてるわね……」

「気にしないでくれ」


 そう告げてから更に5分ほど休んだのち、二郎は問いかける。


「そろそろ学校に向けて移動すべきだと思うが、歩けるか?」

「ええ、大丈夫なはず……」


 そう言って立ち上がった清歌が直後に若干よろけたのを見て、二郎は決心した。


「しょうがない。おんぶするよ」

「……いやらしい」

「なんでだよ」

「ふふ、冗談……でもおんぶはちょっと、恥ずかしいわね……」

「額のハンカチで頭を覆えば日光と一緒に注目も誤魔化せるだろうし、我慢してくれないか?」


 無駄に注目を浴びかねない清歌のおんぶなど、二郎だって本当ならやりたくはないのだ。しかしそうも言ってられない状況である。


「さあ、我慢してくれるか白川さん?」

「うぅ……しょうがないわね……」


 清歌は少し渋るような表情を浮かべつつも、やがて小さくこくりと頷いてくれたのだった。


    ※side:清歌※


 そんなこんなで、清歌は二郎の背中に身体を預けることになっていた。


(は、恥ずかしい……! 案の定すごく恥ずかしいわこれ……! この歳にもなっておんぶだなんて……!)


 二郎に背負われて学校への移動を開始している清歌の胸中は、とにもかくにも恥じらいでいっぱいだった。単純な恥ずかしさの他、二郎に背負われていることそれ自体への照れ臭さも存在している。

 

 去年からずっと気に掛けている二郎。

 清歌は不思議とそんな彼に興味を持ってしまっている。

 好意を持っているわけではない……はずだが、何かと二郎には入れ込んでしまうのである。


(背中……実際に触れるとこんなにおっきいのね)


 一旦恥じらいを抑えつつ、清歌は二郎の背中に意識を向けた。

 なんと言っても、二郎は長身である。

 細かい数値は分からないが、180は確実にあるだろう。

 密着して分かったが、思いのほか筋肉質でもある。

 そんなスタイルの良さを打ち消すかのように普段は猫背なので、清歌はその様子を見るたびにもったいないなと思ったりしている。


「あ、ねえ二式くん……そういえば私、重くない? 平気?」


 ふと気になって尋ねる。

 すると二郎は首を横に振ってくれた。


「平気だよ。なんなら軽いと思う。……むしろ僕の乗り心地はどうなんだ?」

「は、恥ずかしいけれど……すごく良いわよ」

「なら良かった。それと、僕の手の置き場所は気にならないか?」


 清歌をおんぶする上で、二郎の手がハーフパンツ越しに清歌の太ももを掴んでいる。意識するとそれも恥ずかしく思える清歌だったが、嫌悪感は微塵もなかった。


「……平気だから、気にしないで」


 そう言って清歌は二郎の背中に顔をくっつけた。

 体勢的に、その方が楽だからだ。


「お、おい……汗臭いだろ……」

「ううん……平気よ」


 二郎はまかり間違っても身なりがきっちりしている男子ではないが、匂いはそんじょそこらの陽キャ男子とすれ違った場合に比べてもかなり爽やかであり、清歌はまったくと言って良いほど生理的な嫌悪を感じなかった。

 香水などを使用しているようには思えないので、持って生まれた生来の香りがこれなのだと思う。


(にしても……この匂い、どこかで嗅いだ覚えがあるのよね……)


 爽やかな香りが清歌の脳裏を刺激し、過去の記憶を呼び覚まそうとする。

 それはそう、確か――


(……一式くん……?)


 一式との共演時――彼に近付くとこの匂いが漂っていた気がする。

 そう、つまり目の前の二郎と一式の体臭は似ているのだ。


(……いや、でも……偶然よね……)


 一瞬、妙な憶測を頭の中に構築してしまったが、清歌はそれを振り払う。

 一式は一式。

 二郎は二郎。

 一緒くたにするのは双方に失礼だと思い直し、引っかかる部分はありつつも、それ以上は考えないことにしたのである。


(それより今は……この背中を楽しむことにしましょう)


 二郎の乗り心地はすこぶる良好。

 少し浮かせ気味だった胸もべったりと押し付けて、清歌は信頼する彼に対して完全に身体を委ねてしまう。

 胸を押し付けた瞬間、二郎が落ち着かなさそうに変な挙動を行なったが、そんな様子もアクセントとして楽しみながら、清歌は大人しく学校まで運ばれたのであった。

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