第9話 サイン会 後編

 サイン会が始まって1時間ほどが経過した。

 並ぶファンの数も徐々に少なくなってきたそんな中、二郎の前にはまたも見知った顔が現れていた。


「――わっ、本物かっこいいー! 顔もスタイルもサイコーですね! でもボクが何よりも好きなのは一式くんの声なんですっ! 珍しいですかねっ!?」


 そう言って目の前にやってきたのは、ダメ絶対音感保持者の黒髪ボーイッシュ少女――仁科美奈であった。

 二郎は澄ました笑顔で「珍しいかもしれませんね」と呟きながら困惑していた。


(ちょ、ちょっと待て……さっき富山さんが来て、今度は仁科さんも来て、列の中にはまだ変装状態の白川さんも居るわけだろ……?)


 クラスメイトの当選率、高過ぎ問題である。

 サイン会の抽選には数万の応募があったと聞いている。

 そして実際の当選数は100組。

 それなりの高倍率を運だけで勝ち抜いたクラスメイトが3人も混じっているというのは、割と奇跡的なことに違いない。


(……マジで二式だって気付かれないようにしないとな)


 里穂との遭遇時にも意識したように、二郎は改めて一式としての爽やかな笑顔を作って美奈に対応する。


「僕の声、そんなに良いですかね? 特徴無いなって言われることもあるんですけど」

「そんなことないですっ。ちょっと低くてサラッとしてて涼しげな、たとえるならこう、穏やかな南国の夜を思わせる素敵な声だと思いますっ!」


(ぽ、ポエミー……)


 そう思いながら、二郎は写真集にサインを書き込んでいく。


「あ――ところで一式くんにお願いがあるんですけどっ」

「なんでしょう?」

「ボク、美奈って名前なんですけど、このあと並んでチェキ撮るときに『好きだよ、美奈……』ってイケボで囁いてもらっても大丈夫ですかっ?」

「……まぁ、それくらいなら全然いいですよ」

「やったー! ありがとうございます!」


 心底嬉しそうな笑みを浮かべながら、美奈はふと思い出したように言葉を続ける。


「――あ、そうだ聞いてくださいよ一式くんっ。実はボクの同級生に一式くんと背格好が似てて声もそっくりな男の子が居るんですっ!」

「へ、へえ……」

「ちょっと地味めな男の子なんですけど、髪を整えてメガネも外したらホントに一式くんっぽいなって思うんですよねっ。週明け学校で会ったらイメチェンさせてみようかなって思ってます!」


(――やめてくれ……!)


 美奈のおぞましい計画を聞いて二郎は戦慄した。

 しかしながら、この場で事前にその計画を聞くことが出来たのは僥倖と言えよう。


(……週明けは警戒しないとな……)


 そう考えながら二郎は写真集を手渡して美奈と握手。

 そしてチェキを撮りながら「好きだよ、美奈……」と囁いてあげた。


「あっ……耳が孕むってこういうことかあ……」


 ぽっ、と頬を赤くして放心したように美奈は呟いた。

 そのまま「……ありがとうございましたあ……」とふわふわした足取りで立ち去っていく姿を見て心配になったので、近場のスタッフにあとを追わせ、のちほど「無事に歩き去って行った」との報告を得て、二郎はホッとした。


 こうして嵐がまたひとつ過ぎ去ったわけだが、まだ油断は出来ない。

 なんせ最大の嵐がまだ残っているわけだ。

 

 ――白川清歌という最大の嵐が。


   ※


「さあファイトだよ。次の人で最後だからね」


 マネージャーの眞理がそう呟いた通り、サイン会はいよいよ大詰めを迎えていた。

 ラスト1人。

 そして――ここまで清歌らしき人物とは遭遇していないのである。

 

 ということで、二郎はその最後の1人に目を向けた。


 見るからにスタイルの良い、しかし地味な雰囲気の黒髪の少女。

 どの学校のどのクラスにも1人か2人くらいは居そうな見た目の彼女は、しかし所作のところどころに隠しきれない気品をあふれさせていた。

 常人ならば見逃す程度の特徴だが、役作りをする上での人間観察力を鍛えている二郎の目は誤魔化せない。


「すごい変装だな」


 二郎は目の前にやってきた地味な少女にそう告げた。


「さすがは若手ナンバーワン女優」


 え!? と隣で眞理が驚きを見せる中、言い当てられた清歌は静かに微笑んでいた。


「一式くんこそ、ウィッグまで駆使したこの本気の変装をよく見破れたじゃない」

「そりゃ、最後の1人まで現れないんだから簡単過ぎる」

「とはいえ、素通りさせている可能性だってあったわけだからね。最後の1人まで見極められたのはさすがと言えるわ」


 清歌に軽い賛辞を送られ、二郎は「どうも」と写真集へのサインを綴り始める。

 隣では「え? え? 白川さん来ちゃったの……?」と眞理が引き続き小声で驚いていた。

 清歌がそんな眞理に目礼する中、二郎は静かに問いかける。


「で、白川さん、心ゆくまで敵情視察は出来たのか?」

「……敵情視察?」

「そういう理由で今日はこの場に来たんじゃなかったのか?」

「あ、ああそうだったわねっ! もちろんよっ、私は別に一式くんの応援に来たわけじゃないわっ。こ、この私が君の応援なんてするはずがないじゃないっ」


(……なんだそのツンデレ感)


 一式への憧憬を隠すための誤魔化しなのだろうが、もうちょっと上手いやり方があったのでは、と思った二郎である。


「そ、それはそうと、最近プライベートではどうなの?」


 更なる誤魔化しのためか、清歌は急な話題転換を行った。


「私のライバルたる者、私生活における不甲斐ない不祥事は起こさないようにしてちょうだいね?」

「ああ、分かってるよ」

「にしても……、あなたのプライベートって本当にまったく情報がないわよね?」

「……気になるのか?」

「まあね。たとえば学校ではどう過ごしているの?」


(どうって……どこぞのお節介女優様に追っかけられているんだが)


「え? 何か言ったかしら?」

「い、言ってない……まぁ学校生活は普通だよ。そう言う君こそどうなんだ?」

「学校生活なら楽しいわよ。最近は特にね」


 変装していても変わらない綺麗な笑顔で、清歌はそう言った。


「私のクラスにね、不登校気味の男の子が居たの。でもその彼が最近、普通に登校してくれるようになっていてね。気に掛けていたから、すごく嬉しくて」

「…………」

「私としては、彼をきちんと楽しく青春させてあげるのが今の野望、といったところかしらね」

「なんで……その男子に入れ込んでるんだ?」


 それとなく探りを入れてみた。

 すると、清歌はどこか慈悲深い表情で応じる。


「放っておけないのよ……昔、現場のプレッシャーに気圧されて仕事に行きたくなかった時期があってね、なんとなくだけれど、そのときの自分と、不登校だった彼が、重なって見えるの。だから彼が学校に来やすいように、私だけは味方だからね、ってアピールしているつもり」


 優しい理由だった。

 ゆえに二郎はやはり心が痛む。

 騙しているのは忍びない。

 とはいえ、だからといって清歌にだけバラすというのは避けたい。

 平穏な私生活を望んでいる以上、二郎の正体を知る者は極力少なくあるべきだ。

 バラすべき理由がないのなら、現状を貫くのが一番だろう。


「……きっと、その男子生徒はありがたく思っているだろうな」


 だから二郎はそう告げる。

 遠回しなお礼だ。

 気付かれない範囲で感謝を示そうと思ったら、そう告げるしかなかった。


「だと良いけれどね」


 清歌は晴れやかに微笑む。

 そんな彼女にサイン入りの写真集を手渡し、チェキを撮る。


「じゃ、またいずれ現場で会いましょうね一式くん」


 ひらひらと手を振りながら、清歌は満足そうに立ち去っていった。

 清歌の胸の内を軽く知れた二郎も、どこか満足な気分だった。

 

 こうしてサイン会はひとまず無事に終わり、二郎はホッとひと息ついた。

 しかしながら、週明けからも騒がしい日々が待ち受けているのは間違いない。


 油断せずに行こう。

 自らの隠遁生活を守るべく、二郎はそんな思いを固く胸に誓うのだった。

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