第九話 無礼な説得 ー2032年11月ー

「メイサさんにすぐに大人になることを強要しないでください。メイサさんはまだ子どもなのですから」


 帰る気配を見せるどころかまだ反論をしようとする私に、お母様の顔から作られた微笑みが消えた。


「……先生、それはどういう意味ですか?」


「メイサさんは学校でも大人っぽいと言われています。落ち着いていて、周りの空気を読むことに長け、人が望むことを先回りして行動している節があるからです。おそらくですがその才能は彼女が持って生まれたものではなく、後天的に身についた力なのだと感じます。幼い頃からお母様の顔色を窺ってきたのではないでしょうか」


 それにおそらく、この人が交際してきた男たちの顔色も。上原さん自身が自分の力を卑下する傾向にあるのは、きっとそのせいで嫌な思いをしてきたからだと思っている。


 だけど、私は――


「先生の言わんとしていることがわかりません。空気が読めるのは別に悪いことではないでしょう? 立派な処世術の一つじゃないですか。責められる謂れはありませんよ」


「責めてなどいません。むしろ私は、大人であり教師という立場ではございますが、メイサさんのそういうところに憧れてすらいます」


 私は、彼女を肯定する。


 私にはないものを持ち、驕らず、腐らないところを、人として尊敬しているからだ。


「先生……」


 目が合った上原さんの瞳が、揺れている。彼女が今何を思っているのか私にはわからないけれど、少しでもこの先の勇気を与えられていることを願うばかりだ。


 対照的に、お母様はその綺麗な顔に冷たい怒りを浮かべていた。


「……なかなか失礼なことを仰るじゃないですか。こういうのって、学校にクレームを入れてもいいんですよね?」


「はい。それはお母様の自由ですので、私が止めることはできません。ただ、申し上げたことを撤回はしません。メイサさんはずっと自分の気持ちを抑えているように思います。お母様に対して最後に我儘を言ったのはいつですか? 記憶にありますか?」


「それは……」


 お母様は目を泳がせたあと、黙り込んだ。


「私はつい先日、メイサさんの『大学って面白そう』『できれば行ってみたい』という我儘を聞きました。私は最大限の力をもって、彼女の我儘を支援します。ですが、お金が絡んでくる限りいち教師の私ができることには限界があるので……ここまでメイサさんを大切に育てあげられてきたお母様にどうか、ご協力をいただきたいのです」


 真正面から頭を下げると、上原さんも私に倣って「お願いします」と座礼した。


 ……少しの間、部屋の中に沈黙の帳が下りた。


「……あなた、担任でも進路指導の先生でもないのに、自宅までやって来て親に説教だなんて……ご自身がどれくらい失礼なことをしているかわかってます?」


「わかっています。ただ私にとっては、メイサさんが希望の進路に行けるように環境を整えてあげることが最優先事項なので」


「遜りさえすれば私が希望をきくと思いましたか? バカにして……! 私だってねえ、大学に通っていたんですよ。母親から厳しい教育を受けて育ちましたからね。努力の末、これでも難関に分類される大学に合格したんですよ」


 突然自分の過去を語り出したお母様の話を、私と上原さんは黙って聞いていた。


「無事に入学できて安堵していたのですが……ふふっ、なんの意味もなかったんですよ。合格して目標を失っているときに、恋を知ってしまって、教授と不倫なんてバカなことをして……結局、妊娠して中退しました。だから、目的もないまま大学に入ったところで意味がないんです。私は大学を中退してからようやく自分の人生を歩き出せたように思いますし、大卒という経歴がなくとも充実した毎日を過ごせています。メイサには話していたことなので、わかってくれていると思っていたんですがね」


 ちらりと上原さんを見るその視線に、無性に腹が立った。彼女が咎められる理由なんて微塵もないはずなのに、優しい彼女に同情させようと無駄な自分語りまでして、まだ「察して」を繰り返すつもりなのか。


 だから私は、それをやらない。いわば得意分野ともいえよう。


「それは、お母様の人生です。メイサさんには一切関係ないので、説明にも説得にもなっていないと思いますが」


「だったら先生にはもっと関係ないですよね? メイサの人生のことなんて。大学に行くのがそんなに偉いんですか? 私が稼いだお金を使って遊ぶことが? それともあなたはメイサに借金背負ってでも大学に行けってそそのかしたいんですか? なんのために?」


「進学の意味なんて、教師に聞いてもインターネットで検索しても似たり寄ったりの意見しか出てきません。どうせ自分自身で見つけるしかないんです。大学に行くことが人生のすべてではないという点は同意します。ですが、メイサさんの選択肢をお母様の人生観だけで狭めたりしないでください。彼女はまだ十七歳です。やりたいと思った方向に舵を切ることを周囲の大人に支援してもらって当然の年齢です。学力については私が全力でサポートします。奨学金制度についても調べます。だから今はとにかく、お母様からの許可がほしいのです。私がお願いしていることって、そんなに難しいでしょうか?」


 慌てる上原さんの表情に気づかないフリをして、目を剥くお母様をじっと見据えた。


「……本当に、驚くくらい無礼な人……」


 呆れたように呟いて、お母様は大きく息を吐いた。


 誰も何も言わない、無言の時間が流れる。外を走る車の音、行き交う人たちの声だけが耳に届いている。


 普段の私なら沈黙を気にしないが、今は違う。


 上原さんから、緊張と不安で苦しんでいる様子が伝わってくる。今は心の中で頑張れと言ってあげることしかできないもどかしさが辛い。


 永遠にも感じられるような時間が流れたあと、お母様はふと、呟いた。


「……メイサは一体、どうしたいの? あんたの口から聞きたいんだけど」


 一筋の光が見えて、私の気持ちは逸る。


「あ、あたしは……」


 そう。上原さんはまだ、自分でその言葉を言っていない。


 ――がんばれ、上原さん。


「……大学に行ってみたい! まだやりたいこととかわかんないけど、見つけるためにも学んでみたい!」


 欲望だけを繋げたいかにも子どもっぽい我儘を聞いたお母様は、一度目を瞑ってからゆっくりと目を開いた。


「…………大学に行って……メイサがママのときみたいに怠惰な生活をするようになったら、学費は払わない。それから、遊ぶお金は一切出さないから」


 そう言って上原さんにしっかりと釘を刺した。冷たく聞こえたかもしれないけれど、それは間違いなく、進学の許可を出した言葉にほかならない。


 思わず上原さんの顔を見ると、彼女の顔は光を放つほどに輝いていた。


「約束する! ママと先生がくれた四年間を、絶対に無駄にはしないから!」


「どうだか。口ではいくらでも言えるしね」


「ちゃんとやるって! ママとは違うってところを証明するし!」


「へえ、言うようになったじゃない。偉そうなことは合格してから言いなさいね。あと、浪人は許さないから。何がなんでも現役で合格しなさい」


 ようやく本来の上原さんらしさが出ているというか、遠慮のない親子のやり取りを見て私は胸を撫で下ろす。


 上原さんはきっともう、大丈夫だろう。


「わかってる。……とにかく! ありがとう、ママ!」


 喜びが隠し切れない様子でお母様に抱きつく上原さんを見て、お母様は「仕方がない子ね」と言わんばかりに笑って、頭を撫でていた。


 さっきまで私に見せていた綺麗すぎる微笑みとは、また違う。


 この家に来てから私が初めて見た、母親らしい表情だった。

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