第十話 いいわけ ー2032年11月ー

 見送りは断ったものの上原さんは応じてはくれず、車を停めた彼女の家の近くの駐車場まで私たちは再び肩を並べて歩いていた。


「ありがとね、先生。あたしのためにママを説得しに来てくれて」


「お礼を言われるようなことは何もしていませんよ。私はただ、教師として当然のことをしたまでです」


「ふふ、先生ならそう言うと思った。ねー先生、今日ウチのママに挨拶を済ませておいて正解だったかもね。先生が『娘さんを私にください』って挨拶にくるときにさ、ハードルが少し下がった気がするし」


「そんな日が来る予定は今のところないです」


「今のところ? じゃあ、この先は可能性があるってことだね」


 無意識のうちに出ていた自分の発言に、言葉を失った。


 ――私は潜在意識のどこかで、上原さんとの未来を想像したことがあるのだろうか? ありえないのに?


「あ、ごめんね、冗談。困らせるつもりはなかったの。今は冗談とか言っていないと、じっとしていられないんだもん。今でもドキドキが収まらないくらいなんだよ。触って確かめてみる?」


 また、上原さんの優しさと察しの良さに助けられてしまった。


 私は教師だ。せめて生徒の前でだけは、背筋を伸ばし続けなければならないというのに。


「上原さんの冗談で社会的に抹殺されてしまうのは、ご勘弁いただきたいですね」


「女同士なのに?」


「他人の体に触れるのに性は関係ないでしょう」


「……やっぱり、先生は偏見がない人っぽいね」


 上原さんがぼそりと呟いたが、私にはよく聞こえなかった。


「でも上原さん、大変なのはここからですよ。他の受験生よりもかなり出遅れている分、一日でも早く本腰入れて受験勉強をしないと」


 もう二年生の秋だというのに、受験勉強に全く取り掛かっていないなんてスタートが遅すぎる。人より少しでも多く勉強しないと、とてもじゃないがずっと頑張って勉強してきた生徒たちには追いつけないだろう。


「はーい。矢部先生にもすぐに報告して、今後の対策を考えていこうと思ってるよ。先生も応援してくれるよね?」


「もちろんです。上原さんが希望の大学に入れるように、私も全力でサポートするつもりです」


 何一つ偽りのない心からの気持ちを伝えたとき、ちょうど駐車場に着いた。清算を済ませて車に乗り込み、窓を開ける。


「また何かありましたら、気軽に相談してくださいね。私はいつだって上原さんの味方ですから」


「……あたしのためにここまでしてくれるっていうのに、ほんとにあたしのこと好きじゃないの?」


「なんですぐにそっち方面に持っていこうとするのですか。あくまで教師としての仕事ですよ」


「わかってる。『教師として』の先生のおかげであたしの人生が変わったし、感謝だってしてる。でもね……」


 上原さんは車窓に顔を近づける。高校生にしては大人びた端整な顔立ちを、驚くほど間近で視認した。


「今日のことで、ますます好きになっちゃった」


 じっと見つめられ、さすがに私だってドキッとさせられてしまった。


 落陽したばかりの外の暗がりは、よくない誘惑にもさっと乗ってしまいそうな蠱惑的な空気が満ちていて、彼女が持つ大きな瞳に吸い込まれそうになってしまう。


「ね、先生。抱きついてもいい?」


「…………ダメです」


 私には理性がある。責任がある。自分の立場を理解している。ゆえに、私が彼女の好意に応えることは、絶対にない。


 ただ――今日、彼女がお母様の前で自分の意思を告げられたこと、我儘を口にする勇気を出したことに対しては、『教師として』褒めてあげるべきだと思った。


「でも、今日は本当によく頑張りましたね、上原さん」


 運転席から手を伸ばして屈んでいる上原さんの頭を撫でてあげると、


「……そうかな? うん……頑張ったかも、あたし」


 上原さんは年相応の、無垢な笑顔を見せてくれた。


 そしてその瞬間、私は、強い罪悪感に襲われていた。


          ◇


 上原さんと解散してから私は、自分自身への情けなさを振り切るように車を走らせた。


 何が『教師として』、だ。あのとき私は一瞬にして、頭の中で言い訳を並べていた。……彼女に触れる理由を、自発的に求めたのだ。


 せっかく上原さんの人生の転機となった素晴らしい日だというのに、教師という言葉の卑怯な使い方をしてしまった。


 ”あの人”への恋を自覚したとき、私は、自分の臆病を時代のせいにしたことが何度かある。


 もしも百年前に生まれていたならば、私は世の中に絶望して自ら命を絶っていたかもしれない。


 もしも百年後に生まれていたならば、私はもっと堂々と胸を張って恋愛していたかもしれない、と。


 そうやって、壊れそうになった夜を幾度も乗り越えてきた。


 だけど――上原さんと出会って。


 私とは違って自分の気持ちを真っ直ぐに伝えてきてくれる彼女に、気持ちを受け取ることはできなくとも私は少なからず影響を受けてきたはずだ。勇気も度胸もない私だって、何か変われるのではないかと漠然と思っていた。


 それなのに、今度は職業のせいにしてしまったのだ。八年前から何も成長していないじゃないか。


 苦い気持ちが腹の底から溢れてきて、溺死しそうになる。後悔と自己嫌悪に陥っていた私は、スマホが震えたことに気づかなかった。


 家に着いてからスマホを確認した私は、思わず目を見開いた。


『話したいことがあるんだけど、近いうちに会える?』


 それは私の恩師であり、初恋の人でもある――緋沙子ひさこ先生からのメッセージだった。

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