第八話 家庭訪問 ー2032年11月ー

 上原さんからの事前情報をまとめてみる。


 上原さんは母子家庭で育っており、父親の顔も知らないそうだ。お母様は現在大宮でスナックバーを経営していて、夜は家にいないことが多いとのことだ。


 お母様は上原さんからしたら祖母にあたる方に「学歴はあなた自身を守る」と言われ続けて小さい頃から勉強漬けだったそうだが、厳しい教育の反動もあって、大学二年生のときに上原さんを妊娠して中退したらしい。


「私は大学を中退してからのほうが充実した人生を送っているし、お金だってちゃんと稼いでいる。大学に行くのってそんなに意味もないのよ」


 お母様は上原さんが中学生の頃から、そういう考えを押しつけているということだ。


          ◇


 今日はいよいよ上原さんのご自宅に伺って、お母様と進路の話をする日である。


 一番近い有料駐車場に車を停め、家までの道を私と上原さんは肩を並べて歩いていた。


「あー、なんか緊張する」


 顔を強張らせながら、上原さんは胸を押さえていた。


「主に話すのは私なのですから、そんなに緊張する必要はないと思うのですが」


「……先生、ウチのママって結構強いんだよ。先生の話を聞いてくれるかなー……娘のあたしから言うのもなんだけど、マジで面倒臭いから」


 何度も不安そうにネガティブな発言を繰り返すのは私を怖がらせようとしているわけではなく、私が受けるであろうショックを考慮し、心の準備をしてもらおうとする彼女の優しさなのだろう。


「あ、全然大丈夫です。相手がどんな感じでも私は仕事をするだけなので」


 だけど別段私は緊張していない。やれることをやるだけなのだから。


「どんなときでも先生は先生だね。ちょっと安心したかも」


 勇気づけるために言ったつもりではなかったけれど、上原さんの表情は緩んでいた。


「先生が進路を決めるときはどうだったの? 高校教師になるって決めたとき、ご両親はやっぱ喜んでた感じ?」


「いえ、反対されました。両親はもっと高収入が期待できる一般企業か、士業に就くことを望んでいましたね」


「え、そうなの⁉ 教師って公務員だし、喜ばれるものだと思ってた……」


「その辺の価値観は人それぞれでしょう。私の親はいつだって高望みしますから」


 私が幼い頃からずっと、私の能力ややりたいことよりも、自分たちの理想を要求してくる人たちだ。窮屈さゆえに家を出る理由の一つにもなったが、上原さんをはじめご両親の理不尽さによって生徒が進路に悩んだり迷ったりしたときに、できるだけ助けてあげたいという気持ちは強く持つようになった。


「先生、着いたよ」


 話をしながら歩いていたら、あっという間にご自宅の前まで着いていた。以前に上原さんを家まで送ったときにも思ったが、かつては祖父母が住んでいたという築古の一軒家は、彼女のイメージとは少し合わない。


「じゃあ、開けるからね……ただいまー。ママ、先生来たよ」


 玄関のドアを開けて上原さんが声をかけると、パタパタと足音が近づいてきた。


「おかえりメイサ。先生、よくお越しくださいました」


 背筋を伸ばす私を玄関先まで迎えに出てきてくれたその女性の若さと美しさに、思わず目を奪われた。


 年齢を感じさせない艶やかな栗色の長髪、華奢で色白で一見儚げにも見えるのに、真っ直ぐ伸びた背筋と凛とした声色から自立した女性にも見える。


「初めまして。彩川南高校で教師をしております、筧莉緒りおと申します」


 いくら見惚れたとしても驚いたとしても、社会人として挨拶はしっかりしなければならない。


 特に今日は、この人から信頼されるかどうかで成否が大きく左右されるのだから。


「メイサの母です。さあ先生、どうぞお入りください」


 上原さんの人目を惹く容姿は間違いなく母親からの遺伝だろう。恋愛体質だというお母様の隣にいる男性は定期的に変わっていて、途切れることはないと口にしていた彼女の言葉に説得力が生まれた。


 後ろ姿まで洗練された美に圧倒されながら、居間に通された。大きな木製のテーブルがあって、座布団の上に正座する。お母様がお茶を出してくれたので座礼して頂戴した。


 対面にお母様、斜め前に上原さんが座った。


「改めまして、本日はお忙しいところお時間をくださいまして、ありがとうございます」


「いえ、こちらこそ先生にはお手数をおかけしてしまって、申し訳ないです。……それにしても、筧先生はお若いのにずいぶんと佇まいがしっかりしていらっしゃいますね。メイサにも見習ってほしいものです」


 お母様の言葉は丁寧ではあるものの、その視線は私を上から下まで観察しているような、言葉は悪いが不躾なものだった。娘が大切な気持ちゆえの視線なのだろうけれど。


「恐縮です。メイサさんは十分にしっかりしていらっしゃいますよ。服装や言葉遣いに指導が入ることもありますが、芯があって、自分の意思を持っていて、十七歳とは思えない言動に驚かされることもあります」


 お母様の前だから大袈裟に褒めているのではない。本心をそのまま伝えると、


「ありがとうございます。あの……メイサから聞いたんですけど、筧先生は担任の先生ではないんですよね? メイサとはどういう関係で、家庭訪問を?」


 お母様は美しい微笑を湛えて、単刀直入に切り出してきた。


「私はメイサさんの言語文化の授業を担当しております。メイサさんはとても熱心に勉強に取り組んでいて、私は週に一度金曜日に希望者を募って自主参加型の勉強会を開催しているのですが、メイサさんは毎週欠かさず参加しています。意欲的で覚えもいいので、成績も右肩上がりなんですよ」


 上原さんが勉強会に参加するのにたとえ不純な動機があるにせよ、国語の成績がぐんと伸びているのは彼女の努力による功績だ。


「よりによって古典と漢文ですか……なんというか、将来一番役に立たない教科ですよね」


 だが上原さんの成績を褒めることもなく、お母様はそう言い切った。


 最初から、私の心を折って下手に上原さんに干渉しないように仕向ける作戦だったのだろう。今まで猫を被っていたらしいお母様は急に、切れ味の鋭いナイフを向けるかのごとく私への敵意を剝き出しにしてきた。


 その態度に、その言葉に、一瞬だけ反論の言葉が出そうになった。国語教師の前で「古典と漢文は役に立たない」なんて、よく言えたものだ。失礼な人だと思ったが、ここは腹を立てるべきところではないと堪えた。


 それよりも、上原さんの努力が認めてもらえないことの方が問題だ。彼女がどれだけ頑張っているのか伝えようと口を開こうとすると、


「ママ、今のは先生に失礼じゃん。謝ってよ」


 上原さんが明らかに声に怒気を含んで、お母様に反論していた。


 ――私の代わりに、怒ってくれるのか。


 そう思ったら、心がすっと落ち着いてきた。目的を違えてはならない。優しい彼女のために、できることをやらなければ。


「ごめんなさいね、先生。本当に個人的な私情なんですけど、私は人にものを教える立場の人間が好きではないんです。だから少し攻撃的になってしまうかもしれません」


 お母様は上原さんの言葉を無視して、笑顔でさらりと、とても怖いことを口にした。


 だけど同時に、失礼かもしれないけれど、とても子どもっぽいとも思った。


「いえ、お子様を大切に想う親御さんであれば、信用のできない人間に対して攻撃的になるのは当然かと思います。……担任ではない私が今日、お母様とお話をさせていただく機会を与えていただいたことに、改めてお礼を申し上げます」


 もう一度頭を下げてから、再度お母様の顔を見る。


「私がこのような機会を設けていただくことをお願いしたのは、メイサさんの進路についてお話ししたいから以外に理由はありません。お母様はメイサさんが大学に興味をお持ちでいらっしゃることを、ご存じでしょうか?」


 お母様の視線が、私から上原さんに移った。


「……メイサ、大学に行きたいの? ママ、一度もそんな話聞いたことないけど」


「……う、ん。あ、あのさ……ママって、あたしが中学生のときからずっと、『大学は意味がない』とか、『大学に行かせてあげられるお金はないから』って……言ってたでしょ?」


「だから?」


「あの、だ、だから……ほんとはちょっと興味があったんだけど、その……言えなかっただけ、っていうか……」


 上原さんの声色にいつもの凛とした雰囲気はない。この美しい母親にとっての地雷が、進学の話らしい。彼女は空気を読むのが上手だ。だからこそ、地雷だとわかっていて自ら踏みに行くことは怖くて仕方がないだろうと思う。


「メイサさん本人が言えなかっただけでご本人はずっと大学で学びたいという気持ちを持っていたようですし、本校は生徒たちの進学を全力でサポートする環境が整っています。ただ、私たち学校側の人間がどれだけ応援してあげたくても、高校生がやりたい道を選ぶためには保護者の理解と協力が必要です。ここまでメイサさんを大切に育てあげられてきたお母様のご了承をいただきたいのです」


 説明をしている間、お母様は私の顔をじっと見つめていた。少しの失言も許さないと言わんばかりの視線だった。


「……メイサ、将来の夢は決まっているの? やりたいことはあるの? 大学で何か学びたいことはあるの?」


「それは……まだ、ないけど」


 お母様はこれ見よがしに肩をすくめてみせた。


「先生、やりたいこともないっていう子が進学する意味ってあります?」


「まだやりたいことが見つけられていないからこそ、進学を選択肢に入れてあげてほしいのです」


「裕福な家庭で育った人の考えですね」


 お母様は溜息を吐いた。


「……失礼ですが先生、学歴は?」


「横浜国立大学を卒業しています」


「まあ、有名大学のご出身なのですね。幼い頃からご両親にしっかりとした教育を受けさせてもらってきたのでしょう?」


「そうですね。小学校から高校を卒業するまでは学習塾に通っていましたし、中高一貫の私立校でしたし、学ぶ機会は多く与えられていたかと思います」


 聞かれたことに対して答えているだけなのに、お母様はひとりで何かを納得したかのように笑って頷いていた。


「……ママ? ど、どうして先生に、そんな質問……?」


「ん? 先生と私たちでは、生きている世界が違うということを確認していただけ。この間お客さんに教えてもらったの。今の子って『親ガチャ』って言葉を使うんでしょ? あのね、ウチにはメイサを進学させてあげられる余裕なんて、全然ないの。メイサだってよくわかっているはずでしょ?」


 有無を言わさない勢いで話しかけられて言葉を飲み込んでいる上原さんの代わりに、私が声を上げる。


「事情により進学が難しいとされるご家庭は『授業料等減免』といって、入学金及び授業料の支援が受けられます。『給付型奨学金』という、卒業後の返還が不要である奨学金制度もあります。もちろん、メイサさん自身の評定平均値がある程度以上は必要になりますが」


「奨学金ですよね? それくらい知ってます。でもそれって、借金でしょう?」


「給付型はその名の通り、返金は要求されていません。……ただ、給付型奨学金は受給のための選考が厳しいのは確かです。およそ十人に一人しか受からない狭き門なので、現実的には貸与型奨学金を借りることを視野に入れたほうがいいでしょう。こちらは、仰る通り卒業後の返済が必要な奨学金ではありますが、これらの制度を利用してみるのはいかがでしょうか」


 お母様の私を見る目が、私が小さい頃からよく向けられていたものになっている。

『空気を読めよ』という白い目である。


「せっかく来てくださったのに、ごめんなさいね先生。ウチは先生のご家庭と違って裕福じゃないんですよお。ダラダラと四年間遊ばせるなんて考えられないです。それに、メイサ? あんたが本当に大学で学びたいという気持ちがあるのなら、自分でお金を借りて自分で返すくらいの覚悟を見せたらどうなの? 全く、いつまでたっても親を頼ろうとする子どもなんだから」


 お母様は上原さんに向けていた視線を私に戻して、頭を下げた。


「そろそろ仕事へ行く準備をしなければならないので、どうかお引き取りを」


 強制的に話を切り上げられてしまった。いち教師が介入できるのは、おそらくここまでなのだろう。


 子どもを育ててきたのもこれから育てていくのも、金銭的な負担を担うのも基本的には親の役割だ。上原さんが未成年である以上、原則として代わりはいない。


 私はもう一度背筋を伸ばした。


 だからこそ、大人ははおやに伝えたいことがあるからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る