第六話 「ただいま」と「おかえりなさい」 ー2032年11月ー

 二年生が修学旅行から帰ってくるのは、今日の十八時過ぎになるらしい。誰も来ない第二選択教室で、私はひとり小テストの採点をしながら溜息を吐いた。


 今日は金曜日なので毎週恒例の勉強会の準備をして待っていたものの、上原さんが来られないということは参加する生徒はいないということだ。


 勉強会の設定時間は、十七時半までだ。だからそれまでは教室にいようと思い本を読んでいると、グラウンドが突然騒がしくなった。


『先生、まだ学校にいる? バスが早めに学校に着いたから会いたいな』


 上原さんからのメッセージだった。二年生が予定より早く学校に帰還したらしい。


 窓から外の様子を確認する。たくさんの生徒たちの中から上原さんの姿を探している自分に気がつき、逃げるように窓に背を向けた。


『第二選択教室にいます。待ってます』


 そっと返信を済ませ、なんでもないフリをして再び採点に戻る。


 私の心が少しだけ弾んでいるのはきっと、誰も来ない勉強会に寂しさと虚しさを覚えてときに連絡が来たからなのだろう。


 しばらくして、一つの足音が近づいてきた。


「ただいま先生! あたしに会えなくて寂しかった?」


 上原さんが教室に一歩足を踏み入れただけで、おそらく彼女の華やかな雰囲気がそうさせるのだろうけれど、なんだか空気が変わった気がするのが不思議だった。


「おかえりなさい。たった三日、顔を見なかっただけじゃないですか」


「先生はわかってないなあ。好きな人と会えないのっていうのはね、一日でも一時間でも寂しいものなの」


 少し前まで恋を知らないと言っていた彼女は、上から目線で恋を語る。


 嫌な気持ちにはならないけれど、直接的なアピールゆえになんて返せばいいのかわからなかった。


 口には出さないものの、好きな人に会えない寂しさは私にもわかる。


 私の場合、数ヶ月会えないときもあったから、尚更に。


「はいこれ、先生にお土産ね」


「あ……わざわざありがとうございます。中を見てもいいですか?」


「いいよ。完全にあたしのセンスで選んだけど、文句は受け付けないから」


 そう言って白い歯を見せる上原さんは、何を買ってきてくれたのだろう。袋から四角い箱を取り出す。熊カレーだった。


「食べたことないですね……うれしいです。大事にいただきますね」


 お土産を買うときは必ず、あげる人のことを考える必要がある。ゆえに、友達のいなかった私はお土産をもらうという経験がほとんどなかった。


 今こんなに心の中が温かくなっているのは、熊カレーを貰ったという事実よりも、上原さんが私のことを考えてお土産を選んでくれたことがうれしかったからだ。


「あたしにもっとお金があったらカニとかウニをたくさん買いたかったー。凄いの! 海産物が美味しすぎてビックリした! 回転寿司ですらこっちのと全然違ってさ! 衝撃的すぎてウチのグループ自由時間は飲食店しか行ってないし」


 いつもより饒舌に喋る上原さんに、思わず目尻が下がる。はしゃいでいる姿が子どもっぽくて可愛らしいと思った。


「上原さん、修学旅行は楽しかったですか?」


「うん! 超楽しかった! 北海道ってあたし初めてだったんだけど、ごはん美味しいし雰囲気もいいし、めっちゃいいところだね! 季節がよかったのかもしんないけど!」


 再び火が点いたように北海道の魅力を語る上原さんの話をラジオを聴くように耳に入れながら、私は誰も来なかった今日の勉強会の片付けをはじめた。ノートパソコンをシャットダウンして、筆記用具を鞄にしまう。


「涼香も北海道が気に入ったみたいでね、北海道の大学に進学しようかなって言ってるんだよねー」


 思わず、手を止めた。


「そうなのですか? 元々、佐々木さんの進路希望って……」


「都内の私立文系ならどこでもいいって感じだったよ。一週間前まではね」


「そうですか……」


 進学先が北海道となると、ご両親の許可は得られるのだろうか。向こうの大学についての情報はこの学校で過不足なく提供できるのだろうか。


 私は佐々木さんの担任でも進路指導の教員でもないが、教師としては懸念ばかりが先にきてしまう。


「修学旅行でハイテンションになった勢いだけで言ってるならいいんだけどさ。涼香って一度決めたら一直線なトコあるからなー。ほんとに行っちゃう気もするんだよね」


「上原さんは、佐々木さんが北海道の大学に進学することをどう思ってるんですか?」


「そんなの寂しいに決まってる。でも、涼香に言ったところであの子が意見を曲げることはないから。悪い男に引っかかってるとかなら全力で止めるけど、進路に関してはあたしもとやかく言うつもりないしね」


 上原さんには友達は多いけれど、本当に心を許している親友と呼べる存在は佐々木さんしかいないらしい。そんな大切な親友が気軽に会えない距離に行ってしまうなんて、上原さんはどれだけ寂しいことだろう。


「ちなみに、上原さんはもう進路は決めているのですか?」


 ここ数年の卒業生徒の進路先を見るに、圧倒的に大学、短大、専門学校へ進学する生徒が多い。


 だから漠然と、上原さんも進学するものだと考えていた。


 上原さんと親しくなるきっかけの一学期末テスト後の補習は彼女にとってはイレギュラーな出来事であって、彼女は平均点以下を取ったことはなかったし、総合順位も決して悪いほうではなかったからだ。


「とりあえず就職するつもり。職種は全然決めてないけどね」


 だから、上原さんの口から就職と聞いて驚いてしまった。

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