――今から、魔法をかけてもいい?

 崖の上からメリバルの街を見下ろすと、あちこちでランタンの光が揺らめいていた。橙が大きな塊になったり、無数の小さな命になったりする。喧騒を遠くに置いて眺めるぶんには、悪くないと思った。


「あの日、何も言えなくてすみませんでした。本当なら……ロアさんは関係ないと、フォローをするべき場面だったのに」


 隣に座るへズちゃんが、懺悔のように小さく呟く。


「べ、べつに気にしなくていいよ。魔女って、色々言われるから。それに……知ってて黙ってたわたしも悪いもん」

「ありがとうございます。私の瞳が無くなるまでは、母もあんな性格じゃなかったのですが――」


 へズちゃんが、ぽつぽつと語り始める。


 丘の上に引っ越したのは、へズちゃんが奇異の目にさらされないように配慮したから。日中、ひとりぼっちなのは、お母さんが女手ひとつでへズちゃんを養っているから。


 聞けば聞くほど、へズちゃんの日常は一瞬で奪われたのだと理解できる。わたしはいつのまにか、自分の拳をかたく握りしめていた。


「やっぱり、へズちゃんは謝らなくていいよ。悪いのは、瞳を奪った魔女だよ……!」

「ええ。恨むべきは魔女ではなく、私の瞳を奪った個人です。でも、母は……そこまで割り切れる人じゃありません」

「そ、それは仕方ない、と思う。悲しいけど……気持ちは、理解できるから」


 もしもわたしが普通の人間で、シャルちゃんの瞳が同じように奪われたとしたら。きっと魔女全員を恨んでしまう。


 だから、ヘスちゃんはすごい。わたしが魔女だとわかってもなお、こうして仲良くしてくれるのだから。


「……ねえ、へズちゃん」


 友人として彼女に何かを遺してあげたい。魔女として、一族の罪をすこしでも償わなきゃいけない。


「――今から、魔法をかけてもいい?」


 突然の提案に、へズちゃんからは「ふぇ?」と間の抜けた相槌が漏れた。


「えと、どのような……魔法ですか?」

「……んとね、せ、成功するかわからないから、上手く説明できないの。でも、その、すごい魔法で、世界が変わる……かも?」


 我ながら、怪しすぎると思う。本当は効果だって説明したいけど、成功するかがわからないので過度な期待を抱かせるのはよくない。


「……えと、無理に、とは言わないよ。そもそも、魔女が使う怪しい魔法なんて」

「――構いませんよ」

「そ、そうだよね。うん。全然気にしな……。えっ、いいの!?」


 わたしが驚くと、へズちゃんは「ロアさんが提案したんじゃないですか」と大きく笑った。確かにそうだけど、こんなあっさりと受け入れられるなんて思ってもなかった。


「ほ、ホントにいいの? もしかしたら、唇がカスタネットになる魔法とか、両足がフルートになる魔法かもしれないよ?」

「そんな魔法だったらもちろん嫌ですけど」


 へズちゃんはツッコミを入れつつ、力を抜くようにしてふっと微笑んだ。


「ロアさんの魔法は、なんとなく私の世界を変えてくれる気がしますから」

「……ふ、ふひひ、よくわかってるね。わたしは魔女の中でも天才だから」


 わたしたちは笑いあう。それが合図だった。

 立ち上がり、目を瞑って魔力を練り上げる。


「へズちゃん。黒猫をそのまま頭の上に乗せておいてね」

「は、はい……わかりました」


 無から有は生み出せない。だからへズちゃんの瞳を復活させることはできないけれど、有を無と接続することはできる。それはまるで外科手術のように繊細な作業で、人と猫について深く知る必要がある。


 けれど、わたしなら問題がない。


「――へズちゃん、目を開けてみて」


 わたしが促すと、へズちゃんは閉じていた瞼を開いた。そこにあるのはいつもと変わらない、綺麗な義眼。虹彩や網膜はなく、脳とも繋がっていない。


 けれど。


「えっ……綺麗……」


 へズちゃんは静かに呟き、大粒の涙を流した。


 眼下に広がるのは、星空と海とメリバルの灯り。人々が手にしていたランタンが空に放たれたのか、橙色の光があちこちでゆらめきながら昇っていく。ランタンの数は次第に増え、やがて朝焼けのように辺りが染められていく。


 とても綺麗だ、と思った。


 呼吸さえ忘れるほどの光景。隣で泣きじゃくるへズちゃんもまた、うまく息ができていないみたいだ。わたしはへズちゃんの背中をさすりながら、魔法の説明をする。


「えと、これは黒猫の瞳と脳で処理した情報を、へズちゃんの義眼に投影してるの。あ、頭に乗せてるぶん、視線は少し高いし、そもそも見たい方向がいつでも映るワケじゃないけどね……」


 視界の共有。わたしが考えた苦肉の策であり、いまの精一杯。もちろん難点は沢山ある。

 

「……ね、猫の視力は人間より悪いし、取り込む光量も少ないみたいだし、だからきっと、まだこの景色は曖昧に移ってると思うけ……」


 そこまで言って、わたしの説明は中断される。へズちゃんが胸に飛び込んできたからだ。


「……それだけでも、十分すぎますから」


 短い言葉に、長年の苦悩が見て取れた。どれだけ気丈に振る舞っても、光を奪われる苦しみが褪せることはないはずだ。


「……色とりどりの夢を見るのに、毎朝目が覚めて絶望するんです。色がない、光さえない。こんな終わりのない日々を繰り返して、一体なんの意味があるんだろうって、ずっと……どこかで思ってました」


 心情を吐露しながらも、へズちゃんはぎこちなく笑っていた。十四歳の女の子が精神をすり減らしながら、他人に心配をかけないように貼り付けていた表情だ。


「……でも……生きることを諦めなくて良かったです。ロアさんと出会えて、本当に良かった……!」


 へズちゃんの表情が、堪えきれずにくしゃくしゃになる。わたしは初めて、等身大の素顔を見た気がする。


 だからといって、適切な言葉なんて見つからない。わたしはどこまでいっても引きこもりで、コミュ力が低いからだ。


「……こ、この魔法、猫が頭に乗っている時だけ発動するようにしたから、ね?」


 慰めと労いの言葉が見当たらず、わたしは不器用に説明を続ける。すると、へズちゃんがゆっくりと顔をあげた。遠くで揺れる橙色が、へズちゃんの頬に優しく色を乗せている。


「……ふふ。ロアさんは、そのようなお顔をされていたのですね」


 ああ、そっか。この瞬間が初めましてなんだ。わたしはなんだか照れくさくなって、おどけながら首を傾げてみせた。


「へ、へへ……整ってるでしょ?」

「……自分で言いますか、それ」


 わたしたちは目を見合せて、堪えきれずに吹き出した。見上げた夜には、へズちゃんの新しい日々を祝福するようにランタンの群れが広がっていた。



 へズちゃんのお母さんにバレないよう、自宅の前までこっそりと送る。でも、間接的とはいえ目が見えるようになったのだから、わたしの魔法の存在は隠せないだろう。


「……あ、そうだ。へズちゃん」

「はい、どうされました?」


 門をくぐったところで、へズちゃんが振り返る。いま伝えなきゃいけないことが、ひとつだけあった。


「わ、わたし、明日にはこの街を経つんだ。魔女の掟ってやつで、ひとつの街に長居はできなくて……。だから、引越し、キャンセルしたほうがいいよ」 

「……そうだったんですか。じゃあ、どのみち会えなくなるんですね」


 へズちゃんが悲しそうに目を伏せる。その姿に、わたしの心臓はきゅうと縮んでいくような感覚を抱いた。


 本当はもうひとつ、隠していることがあるんだけど、それはもう、伝えても仕方がない。


「で、でも……またどこかで会えますよね?」


 へズちゃんの瞳には、そうあってほしいという願望が乗せられている気がした。わたしは曖昧に微笑んで「うん、きっと」と返事をした。


「……ちなみに、明日の何時頃に旅立つのですか?」

「うーんと、目が覚めたら……」

「ふふふ。なんですか、それ」


 へズちゃんはおかしそうに笑う。

 その瞬間、家の中からがたりと物音が響いた。


「――へズ!?」


 お母さんの声だった。わたしは弾かれるように箒に跨り、挨拶もそこそこに急浮上する。


「じ、じゃあね!」

「――はい! またどこかで!」


 そんなわたしを、へズちゃんはきらきらとした表情で見つめている。新しく得た視界に、わたしの姿はどう映っているのだろう。でも、そんなことを聞いたって仕方がない。


 だって。


「……魔女の掟、かあ」


 逃げるようにメリバルの時計台へと飛んでいくと、すでにシャルちゃんの姿があった。煉瓦の屋根に腰をおろし、どこか惜しむように街を眺めている。


「お、お待たせシャルちゃん」

「うん。へズちゃんは見つかった?」


 シャルちゃんの問いかけに、わたしは親指をぐっと突き立てる。そして、そのまま箒から屋根の上へと飛び移った。


「……その様子だと、魔法も成功したみたいだね」

「へへ、天才だからね。もちろん、猫の寿命が尽きちゃったら魔法も解けるけど……それまでにまた、戻ってきたいなって」

「そうだね、私もこの街のこと、結構好きになっちゃったからわかるよ……」


 シャルちゃんの横顔は憂いを帯びている。

 

 わたしたちは今から魔法を使う。それは、流した汗も、くだならい会話も、ひといきで吹き飛ばす魔法だ。


 たった一ヶ月ほどの滞在だったけど、この街にはたくさんの思い出ができた。はじめての友達だってできた。それらがみんな消えてしまうなら、人と接することに意味なんてない。


 さっきまでは、そう思っていた。


「……ほらロアお姉ちゃん、手伝って。一ヶ月ぶんの魔力なんだから、私ひとりじゃ扱いきれないよ」

「うん、まかせて」


 わたしは重い腰をあげ、大きく息を吐く。せっかく仲直りできたのに。せっかく目を合わせられたのに。様々な感情が込み上げてきたせいか、わたしの頬には涙が伝っていた。


 でも、この一ヶ月は無意味じゃない。たとえ忘れられても、確かに残るものがある。わたしだけが覚えていることにだって、絶対に意味がある。


 胸に手をあてて、静かに呟く。


「……こういうときって、痛くなるんだね」


 そんなわたしを見て、シャルちゃんは泣きそうな顔で笑う。


「それでもロアお姉ちゃんは、向き合うことを選べたんだから凄いよ。私さ、この街に来てからは全然、できなかったから……」


 シャルちゃんが俯いて弱音を吐く。正しさなんてわからない。外に出て一ヶ月目の引きこもりが、わかるはずもない。


 でも、わたしは、十六年間お姉ちゃんをしていたのだ。


「大丈夫だよ、シャルちゃん。一緒に探そうね?」


 うんと背伸びをして頭を撫でてやる。さらりとした髪の毛が、指の隙間に挟まって少しだけくすぐったい。 


「……なんか、久しぶりにお姉ちゃんって感じだね」

「――い、い、いつも姉ですが!?」


 わたしが大声で訂正すると、シャルちゃんは勢いよく吹き出した。


 わたしたちには、たったそれだけで良かった。


「……いくよ、ロアお姉ちゃん」

「うん」


 シャルちゃんと協力して、ひとつの魔法を編む。それは魔女の一族に代々伝わる古代魔法で、無闇に使うことを禁じられている。


 唯一発動できるのは、街を経つ前日の夜。そして、魔法を発動した以降は誰とも関わってはいけない。


「「【忘れ去る日々の泡沫】」」


 白色の光が巨大な杭となり、鐘を真正面から一突きする。メリバルの夜に、忘却の音がひとつ鳴り響く。その音色は細胞に浸透するように、深く深く街の隅々まで進んでいった。




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