第19話 瞼に焼きついている。


 え?


 『この子は何を言っているの?』


 俺は身体の中が冷たくなるのを感じた。


 意味が分からない。

 理解が追いつかなくて、頭の中が空っぽになってしまった。


 やがて、頭では自分がフラれたことを理解した。そして、次には感情が追いついてきて、理解は怒りに変わった。


 あれだけ思わせぶりな態度をとりやがって。

 まひるは、最近、俺をナギ君って呼ぶことが多かった。


 ……やっぱり、家で写真を見られたのだ。おれが幼馴染の凪だって気づいてたんだ。


 せっかく変われると思ったのに、また俺を羽虫のように地面に叩き落としやがって。


 やっぱり、この女の本質は、あの日、俺を「キモい」と言った女のままだ。何も変わっていないじゃないか。


 『裏切り者』


 その一言が、俺の頭の中を染め上げた。



 まひるに、この負の感情を全部ぶつけたい。


 だけれど、きっと、今の気持ちが一言でも漏れ出したら、感情がダムのように決壊して、歯止めがきかなくなってしまう。


 まひるを殴ってしまうかもしれない。


 だから、拳を握りしめて歯を食いしばって我慢する。そして、自分をなだめながら、最低限の質問をした。



 「んじゃあ、俺らのセフレの関係も終わりってことでいいよな?」

 


 その質問をしながら、おれは一つの事実に気づいた。


 まひるに対して性欲を感じない。人間は本気で嫌いになると、相手に触れたくもなくなるものらしい。


 逆をいえば、嫌いな相手を蹂躙じゅうりんして興奮できるのであれば、不可逆的な関係ではないのだと思う。



 あたりに海猫の鳴き声だけが響く。



 ……まひるの返事がない。


 面倒くさいけど、こんな場所でまひるを1人で置いて帰ることもできない。


 おれはため息をついて、まひるの顔を覗き込んだ。


 すると、それは予想外の光景だった。


 まひるは、涙を目に一杯ためて、それでも溢れ出た涙で手の甲を濡らしながら、声が出ないように歯を食いしばって泣いている。

 

 梅干しのように顔をしわくちゃにして、頬を真っ赤にして。整った顔立ちが見る影もない。


 ……まるで自分がフラれてしまったかのような顔に見えた。


 そして、ひっくひっくしながら、ようやく口を開いた。



 「いやだ。わたしを遠ざけないで……」


 は?


 何言ってるんだ。この女は。


 頭がおかしいのか?


 「いやさ、俺を遠ざけるようなことを言ったのそっちでしょ?」

 

 「わかってる。わたしが自分勝手なことを言ってるって。あなの望むことは何でもするから。一生でもいいから。ずっと、あなたの性のオモチャでいいから。ナギ君。わたしを遠ざけないで……」


 そういうと、わんわんと泣き出す。


 ……性欲感じない相手にそんなこと言われても困るんだが。

 

 とにかくこの場を早く終わらせたくて、おれはまひるに言った。


 「わかった。おまえの好きにしていいから。帰ろう」


 そういうと、さっき入ってきたゲートの方を目指す。まひるは、おれの数メートル後を無言でついてくる。


 さっき夢の国のようだと思ったメインストリートは、今は、ただただくだらない馬鹿どもの集まりに見える。


 だけれど、こんなになってしまっても、まひるが一生懸命お金をためて、俺の誕生日のためにここに連れてきてくれた事実に変わりはない。

 

 それなのに、あんなに目を腫れさせてしまった。心の奥底がズキズキと痛むけれど、今はフォローしてる余裕はなさそうだ。


 まひるは、まるで親にすがる子供のように、そっと手を繋ごうとする。だけれど、俺はその手を払ってしまった。


 すると、まひるはうつむいて、自分の上着のお腹の辺りのボタンをギュッと握っている。顔は見えないが、見なくても、どんな顔をしているか想像がつく。


 ごめんよ。


 前みたいに、まひるにリベンジしてやろうっていうのじゃないんだ。でも、心が、身体が、まひるを拒否してしまう。


 パークを出て、車でまひるを送る。

 帰りの車でも、一言も話さなかった。


 まひるの家の前について、まひるが降り際に、小さな紙袋を渡してきた。


 まひるは、子供が怖い大人をみる時のような、そんなオドオドとした目をしている。


 「これ、誕生日のお祝い……。こんな誕生日にしちゃってごめんなさい。送ってくれてありがとう」

 

 「あぁ」


 おれはそう言うと、紙袋を無造作に後部座席に放り込んだ。そして、まひるがまだ何かを話したそうにしているのに、バタンと車のドアを閉め、そのまま車を出した。


 去り際のまひるの顔が、忘れられない。

 

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