ここには見当たらない

上雲楽

 私は例外的に羅紗川の青さを憎悪していたから、まりあさんと呼ばれている。

 子どもは能天気に、羅紗川の水に足を浸して蟹とか探している。この地域では小学生にもなれば、身体の先の方は、羅紗川と同じ、腐乱死体以上の青に染まっている。子どもが、私も川に入るように手招きして来たので、対岸を見ている振りをして無視した。私の父は染め物師だから、お前はまるで皮なめし工の娘だな、と私を睨みつけていたのを思い出していた。

 河川敷の方から同じクラスの幸村が、

「まりあさんが次の絵画コンクールで使いたい色ってこれ?」と私に叫んできて、振り返った。

 私は鼻で笑って、

「カエサルとタキトゥスは、蛮族は体を青く染めて敵を怖がらせるのが習慣だ、って言ったんだって。しかも、ローマだと目が青いのは身体的な欠陥とさえ見られていたんだって」

 幸村が返事に困っている様子で、手をくねくねさせていたので、声をあげて笑った。

 幸村はすでに染め物師の仕事を手伝っていたから、

「皮なめし工が川を汚していることを無視して、『青は嫌いです』だもんね。まりあさんは子どもなんだよ」とむすっとして、教室の隅で本を読んでいる私をチラチラと見たりしていたので、

「まりあさんも羅紗川暮らしのくせに」とか言うのを期待したが、まだ、皮肉を考えているのかぼんやりと私を見るだけだった。幸村は羅紗川で浸したTシャツを見せつけて裕福さを強調するので、早く目の前から消えてほしかった。羅紗川の祟りに喜んでいる罰当たりの道化ばかりだった。

 羅紗川が祟りで青くなったのは、父とかの生まれるずっと前だったから、誰も気にしていない。私だけ図書室で地域史とか閲覧して、大昔に皮なめし工と染め物師が綺麗な川の使用権で揉めたから、みんな滅ぼすために、川が自ら青くなったと知っている。それで、羅紗川の怒りを鎮めるために色んな神様にお祈りしたけど、無駄だった。

 けっきょく、「青のまち」をスローガンにして私たちの地域は地域興しに成功している。毎週末、観光客が羅紗川で染色体験に来たり、ビンに羅紗川の水を入れて、写真を撮って持ち帰る。川の外の良識派気取りは、祟りを地域ぐるみで美化するなんて、と文句を言うが、羅紗川では無反応だった。

 私は、制服の、羅紗川で染められた青いセーラー服を着ることを拒絶して、黒いローブみたいな服を羽織っていた。川の外の活動家は騒ぎ立てて味方してくれた。当然何度も教師から指導されたが、

「宗教上の都合です」と白々しく言い続けるので、そのうち放っておかれた。クラスや学校の催しからほとんど締め出されて、面倒だったから嬉しかった。父はそれをよしとせず、行事とか部活とかやりなさいと三者面談で怒鳴りつけ、逆に担任の方がなだめていた。私は笑うのを堪えるなんて気にはなれず、会話を全部聞き流して空を見ていた。その態度が余計に父をイライラさせるのはわかっていた。

 川外れの寺にある観音のフレスコ画の顔料はラピスラズリだか、羅紗川と異なる青が用いられていたから、余所者としておぞましく思われていた。私が宗教を楯にするのもまりあさんと呼ばれているのも、教師からすると、「まりあさん」であることに説得力があるらしい、数学教師の増村が「あなた」と呼ぶのを例外にして、教師もみんな私をまりあさんと呼んでいる。その寺は嫌いじゃなかったが、ずっと入り浸っていたから、まりあさんと呼ばれるようになる頃には寺から出禁にされた。

 幸村は口を二三回パクパクさせたあと、

「砂と銅とナトリウム化合物で、青い顔料作れるんだってね。頑張ってね」と言った。

 地域興しの一環として、学校の絵画コンクールで描かされる地球の絵は、絶対に青を使わないと私は決めていた。清い地球の青さをみんなで守ろうという教育に従わないといけない。幸村は、羅紗川だけが、私がまりあさんである原因と思い込んでいそうだった。古代人は、空の色も、青ではなく白の次元で考えていたらしいから羨ましかった。ガガーリンにお門違いの憎しみを向けるのも最近は疲れていた。仮にいつか私が羅紗川の側から離れても、ずっと青空の下に生きるんだろうな、って昼休みごとに絶望したりしていた。

 幸村の手足が真っ青になっているのは当たり前だが、殴られたみたいに顔にも侵色が進んでいる。丸い顔が地球みたいで、どうせ絵画コンクールでも、丸い地球に笑顔を引っ付けた絵が続出するんだろうなと思った。

「そのナトリウム化合物って古代エジプトだと防腐剤だったんだってね」私は髪をかき上げる。

「羅紗川だって健康被害はもうないってみんな言っているでしょ。陰謀脳」幸村が腕を組んだ。

「じゃあ、私はお望みの顔料で腐らない身体を目指すね」

「そうやって、まりあさんも青い手になってしまえば、みんな優しくしてくれるのに」

「うるさい」

 私は川で遊んでいる子どもを突き飛ばした。人質にでもするぞ、とアピールして少しは気が晴れた。

 羅紗川の青みは濁りまくって、深度がわからず、子どもを突き飛ばした場所は思ったより深かった。子どもが溺れて、さすがに私は川に飛び込んで助けた。川岸に戻ると子どもは青い吐瀉物をぶちまけ、泣き出した。他の子どもは遠巻きに、やっぱりまりあさんだ、と言いながら眺めている。幸村が駆け寄って、子どもの背中をさすったあと、私を平手打ちした。幸村からの何か気の利いた罵倒を待っていたが、幸村はそのまま子どもに向き直った。

 私の服にも青い粘着質の汚泥が付いているし、靴下とか真っ青に一瞬で染まっちゃったし、私も嘔吐したかった。私は子どもを見下ろして、

「かわいそう、こんな水飲んじゃえば頭も身体も狂うね。青いゲロなんて異常、気持ち悪。私、絶対飲むのも触れるのも嫌だな。君、飲んじゃったからもうおしまいの人間だね」

 子どもがもっと泣くのを待っていたが、子どもは水を吐き切るとまた蟹探しに戻っていった。幸村は私に背中を向けたまま、

「まりあさん、羅紗川がいつから青くなったか知ってる? 川で青い染料を使ったんじゃなくて、川の青さを染料にしていることの意味わかってる?」

「だから何? 次は、大気の屈折で青空が広がっていますって話でもする?」

「ここから出ていけ……」

「出ていくのは、青いお前たちの方。ローマじゃ、青い人は敵だったんだよ」

「これ以上、羅紗川を怒らせないでよ」

「『私たち』の間違いでしょ」

「羅紗川の祟りは、まりあさんがどう祈っても、怒っても変わらない。まりあさんはみじめだ」

「だから、『私たち』にとって、でしょ」

「ガキ」

 そう言って幸村は振り返らず歩いて去った。

 私は絵画コンクールで、暗黒無限の宇宙の星々の中では地球なんてちっぽけで青いかどうかもわかりません、という絵を描いた。これも所詮ガガーリンの言葉に影響された青い地球讃歌に過ぎないな、と私は不貞腐れていたが、担任は、

「いい着眼点でした。美しい、考えさせられる絵ですね。まりあさんに拍手」とニコニコして私の絵に優秀賞をつけた。学校の行事に私が参加したことを過大評価したのかもしれない。私の絵は学校や、公民館や、川向うのホールで見せしめにされて、父は、

「さすがまりあさんだな」と喜んで寿司を注文した。あなたたちも、羅紗川でとれる魚は食べないくせにと思いながら、私は寿司を醤油でベチャベチャにした。

 展示が終わって返却された絵は二つに破って羅紗川に捨てた。黒い大宇宙の描かれた画用紙がすぐに青を含んでふやけて沈んだ。幸村はそれを後ろから見ていた。

「青春の叫びってやつ? まりあさんも羅紗川に馴染んでくれて嬉しいよ」と笑った。

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