第33話「灯が初めて発した音」

 焚き火は、いつも通りだった。


 炎は揺れ、

 木々は呼吸し、

 狼は眠り、

 仲間は緩やかに笑う。


 幸福は完成している。

 狂気は安定している。

 この森は永遠の夜を受け入れている。


 それでいい。

 それがいい。



 だがその夜、違ったのは――沈黙の質だった。


 世界が黙っているのではなく、

 世界が“耳を傾けている”。


 誰かの声を待っているような、

 呼吸を止めているような静けさ。


 それを最初に感じたのは、俺ではなく“灯”だった。


 焚き火の上に揺れる影は、ゆっくりと立ち上がる。


 炎が灯を包み、姿が濃く見える。


 まだ輪郭は曖昧。

 でも確かに“手”と“顔の位置”が生まれていた。


 顔は無表情。

 目も口もなく、ただ光だけで存在する。


 けれど、意味は伝わってくる。


 灯は話そうとしている。



 影の喉の位置が震えた。


 声帯も、肺も、空気も――必要ない。


 この世界における言葉は、

 “誰が世界を動かせるか”で決まる。


 灯は生まれて初めて、世界へ影響を与えようとしていた。


「……」


 音はなかった。


 しかし確かに“声”だった。


 波紋のような、静かな衝撃。


 焚き火の炎が横に流れ、

 影たちが姿勢を正し、

 森全体が“意味”を理解した。


 そして――外が震えた。



 遠くで何かが砕ける。


 それは岩ではない。

 ガラスでも、骨でもない。


 時間が割れた音だ。


 外の世界で蓄積し続けた2000年分の時間が、

 薄い膜を破って断片となって降ってくる。


 灰色の粒が雪のように落ちる。


 しかし今夜の灰は違う。


 灰の粒が触れた瞬間――

 “映像”が脳裏に流れ込んだ。



 文明の都市。

 鋼の塔。

 魔法陣の都市機構。

 天空と地上をつなぐ輪。

 蒸気・魔術・理論・科学の複合文明。

 星の黒塊を食い止めた防衛圏。

 巨大な知性の集合。

 再誕を目指した永遠機関。

 そして――滅び。


 全てが断片で、

記録媒体の記憶か、

死にかけた人間の断末夢か、

神の残影のノイズか判別できない。


 だが確かに分かる。


 この星は一度、俺の時代を遥かに超える発展を遂げた。

 そして、あらゆる知性が“終わりを受け入れた”。


 祈りもしなかった。

 理解も求めなかった。

 救いも乞わなかった。


 ただ、静かに死を選んだ文明。



 俺は口を開く。


「……あれは、俺たちの世界か?」


 声は低く、落ち着いていた。

 動揺はなかった。


 リュミエルが目を細める。


「“あれだった場所”だよ」


「もう、同じじゃない。

 でも完全に違うとも言えない」

 カインが続ける。


「2000年もあったら、世界は何度でも変われる。

 滅んでもおかしくない」

 バロウは炎の灰を弾いた。


「でもね」

 エリスが焚き火を見つめながら言う。


「あなたが森にいる間、外の世界はあなたを待たなくなった。

 誰もあなたを探さなくなった。

 あなたの帰還を信じなくなった。

 だから――あの文明は終わったの」


 それは悲劇か?

 それとも自然か?


 俺には、どちらでもよかった。



 灯がこちらを見る。


 その感情は、声よりもはっきりしていた。


外を、見たい。


 好奇心。

 探究。

 恐れなき知識欲。


 俺から生まれた存在が、俺にはない衝動を持っている。


 それは嫉妬を呼ばず、

 危機感も呼ばず、

 むしろ好ましく感じた。


「……行きたいのか」


 灯は頷いたわけではない。

 だが炎が跳ねた。


 それは肯定だった。



「行けばいい」

 俺は自然に言っていた。


 仲間たちは反対しない。

 むしろ誇らしげに微笑む。


「ただ、忘れるな」

 俺は静かに続ける。


「どこを歩いても、帰る場所はここだ」


 灯の影が、一度だけ深く揺れた。


 それは、この世界での“了解”の仕草。


 灯は焚き火の中心で形を変え、

 炎の外へ歩き出す。



 森が揺れる。


 花が開き、

 樹皮が割れ、

 根が道を編む。


 世界が、灯の旅路を準備している。


 アルスが外に出るわけではない。


 世界の中心は動かさない。

 幸福は崩さない。

 狂気は安定のまま。


 代わりに灯が“外の2000年”を見に行く。


 その旅は、森を壊さない。

 アルスを危険に晒さない。

 幸福を奪わない。


 ただ、森の「外の真実」を持ち帰る。



 灰は止まった。


 灯が森の外へ向けて歩き出すと、

 灰は落ちなくなった。


 外の世界は“観測された”からだ。


 2000年眠っていた世界は、

 初めて再び、何かに見られた。


 それで充分だった。

 世界は応えた。



 灯の背中が闇に溶ける。


 炎の色が少しだけ薄くなる。


 だが、寂しさはなかった。


 帰る場所を知っている者に、旅は悲劇ではない。


 焚き火は静かに息をする。


「……行ってらっしゃい」


 エリスの囁きが世界に響き、

 森の入口がゆっくりと閉じた。



 俺は焚き火の前に座りなおす。


 灯が外の2000年を歩き、

 何を見て、何を持ち帰るのか。


 わからない。


 だが、どんな結果でも恐れない。

 狂気でも幸福でも関係ない。


 灯が戻ったら――

 また一緒に火を囲めばいい。


 それだけだ。


 


 その悪魔が願った未来は、

 今日もまだ続いている。

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