第33話「灯が初めて発した音」
焚き火は、いつも通りだった。
炎は揺れ、
木々は呼吸し、
狼は眠り、
仲間は緩やかに笑う。
幸福は完成している。
狂気は安定している。
この森は永遠の夜を受け入れている。
それでいい。
それがいい。
◆
だがその夜、違ったのは――沈黙の質だった。
世界が黙っているのではなく、
世界が“耳を傾けている”。
誰かの声を待っているような、
呼吸を止めているような静けさ。
それを最初に感じたのは、俺ではなく“灯”だった。
焚き火の上に揺れる影は、ゆっくりと立ち上がる。
炎が灯を包み、姿が濃く見える。
まだ輪郭は曖昧。
でも確かに“手”と“顔の位置”が生まれていた。
顔は無表情。
目も口もなく、ただ光だけで存在する。
けれど、意味は伝わってくる。
灯は話そうとしている。
◆
影の喉の位置が震えた。
声帯も、肺も、空気も――必要ない。
この世界における言葉は、
“誰が世界を動かせるか”で決まる。
灯は生まれて初めて、世界へ影響を与えようとしていた。
「……」
音はなかった。
しかし確かに“声”だった。
波紋のような、静かな衝撃。
焚き火の炎が横に流れ、
影たちが姿勢を正し、
森全体が“意味”を理解した。
そして――外が震えた。
◆
遠くで何かが砕ける。
それは岩ではない。
ガラスでも、骨でもない。
時間が割れた音だ。
外の世界で蓄積し続けた2000年分の時間が、
薄い膜を破って断片となって降ってくる。
灰色の粒が雪のように落ちる。
しかし今夜の灰は違う。
灰の粒が触れた瞬間――
“映像”が脳裏に流れ込んだ。
◆
文明の都市。
鋼の塔。
魔法陣の都市機構。
天空と地上をつなぐ輪。
蒸気・魔術・理論・科学の複合文明。
星の黒塊を食い止めた防衛圏。
巨大な知性の集合。
再誕を目指した永遠機関。
そして――滅び。
全てが断片で、
記録媒体の記憶か、
死にかけた人間の断末夢か、
神の残影のノイズか判別できない。
だが確かに分かる。
この星は一度、俺の時代を遥かに超える発展を遂げた。
そして、あらゆる知性が“終わりを受け入れた”。
祈りもしなかった。
理解も求めなかった。
救いも乞わなかった。
ただ、静かに死を選んだ文明。
◆
俺は口を開く。
「……あれは、俺たちの世界か?」
声は低く、落ち着いていた。
動揺はなかった。
リュミエルが目を細める。
「“あれだった場所”だよ」
「もう、同じじゃない。
でも完全に違うとも言えない」
カインが続ける。
「2000年もあったら、世界は何度でも変われる。
滅んでもおかしくない」
バロウは炎の灰を弾いた。
「でもね」
エリスが焚き火を見つめながら言う。
「あなたが森にいる間、外の世界はあなたを待たなくなった。
誰もあなたを探さなくなった。
あなたの帰還を信じなくなった。
だから――あの文明は終わったの」
それは悲劇か?
それとも自然か?
俺には、どちらでもよかった。
◆
灯がこちらを見る。
その感情は、声よりもはっきりしていた。
外を、見たい。
好奇心。
探究。
恐れなき知識欲。
俺から生まれた存在が、俺にはない衝動を持っている。
それは嫉妬を呼ばず、
危機感も呼ばず、
むしろ好ましく感じた。
「……行きたいのか」
灯は頷いたわけではない。
だが炎が跳ねた。
それは肯定だった。
◆
「行けばいい」
俺は自然に言っていた。
仲間たちは反対しない。
むしろ誇らしげに微笑む。
「ただ、忘れるな」
俺は静かに続ける。
「どこを歩いても、帰る場所はここだ」
灯の影が、一度だけ深く揺れた。
それは、この世界での“了解”の仕草。
灯は焚き火の中心で形を変え、
炎の外へ歩き出す。
◆
森が揺れる。
花が開き、
樹皮が割れ、
根が道を編む。
世界が、灯の旅路を準備している。
アルスが外に出るわけではない。
世界の中心は動かさない。
幸福は崩さない。
狂気は安定のまま。
代わりに灯が“外の2000年”を見に行く。
その旅は、森を壊さない。
アルスを危険に晒さない。
幸福を奪わない。
ただ、森の「外の真実」を持ち帰る。
◆
灰は止まった。
灯が森の外へ向けて歩き出すと、
灰は落ちなくなった。
外の世界は“観測された”からだ。
2000年眠っていた世界は、
初めて再び、何かに見られた。
それで充分だった。
世界は応えた。
◆
灯の背中が闇に溶ける。
炎の色が少しだけ薄くなる。
だが、寂しさはなかった。
帰る場所を知っている者に、旅は悲劇ではない。
焚き火は静かに息をする。
「……行ってらっしゃい」
エリスの囁きが世界に響き、
森の入口がゆっくりと閉じた。
◆
俺は焚き火の前に座りなおす。
灯が外の2000年を歩き、
何を見て、何を持ち帰るのか。
わからない。
だが、どんな結果でも恐れない。
狂気でも幸福でも関係ない。
灯が戻ったら――
また一緒に火を囲めばいい。
それだけだ。
その悪魔が願った未来は、
今日もまだ続いている。
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