第32話「時間の死骸の降る夜」

 焚き火の炎はいつものように揺れていた。


 灯は火の上でゆっくりと座り込んだ姿に近い形に変わり、

 仲間たちは言葉もなく穏やかな沈黙を楽しんでいる。


 幸福は変わらない。

 狂気は馴染みになり、日常になり、空気の一部になった。


 森は今日も完成に近い。


 それでいい――はずだった。



 その夜、白い粒が降らなかった。


 粒が途切れたわけではない。

 ただ――色が違う。


 落ちてきたのは、灰色だった。


 闇に溶けるような薄灰。

 光を拒むのではなく、光を覚えていない色。


 まるで長すぎる時間が粉になって降ってきたような――

 そんな静かな灰。


 俺が手を伸ばすと、灰は指先で崩れた。


 温度がない。

 匂いもない。

 記憶すら残さない。


 ただし、ひとつだけ確かなことがあった。


――これは時間の死骸だ。



 リュミエルが小さく笑う。


「ねえ、気づいた?」


 灰を手で受け止めながら言う。

 声は穏やかだが、どこか誇らしげだった。


「外の世界は“時間が過ぎすぎて死んだ”のよ」


「時間が、死ぬ?」

 俺は呟いた。


「長く生きたものは死ぬ。

 人も、動物も、国家も、世界も。

 なら――“時間”が死ぬことだってある」

 リュミエルは当然のように微笑む。


「外側は長すぎる永遠を迎えて、終わったんだよ」

 エリスも優しく言葉を重ねる。


「だが、それは悪いことじゃない」

 カインが淡々と告げる。

「お前が世界を壊して森にこもった時点で、

 外の世界は“物語の外”に放り出された。

 物語を失った世界は、どれだけ動いても老衰に向かうだけ」


「つまり――」


 バロウは焚き火の灰を指で弾きながら言った。


「外側の世界は2000年かけて“物語のない時間”を過ごし、

 やっと死んだってことだ」



 2000年という数字が、なぜか一瞬だけ頭の奥を刺激した。


 だが、痛みでも衝撃でもない。


 懐かしさに似たノイズ。

 遠い日の夢の残響。


「……2000年か」


 ぽつりと口から漏れた。


 驚きも、悲しみも、怒りも湧かない。


 ただ不思議な感覚があった。


 短い。

 そう思った。


 たった2000年。

 俺の幸福に比べれば、息を吸って吐くほどの間隔。


 呪いを受けた瞬間から予測できたことだった。


 俺の“不滅”は 人間の時間と釣り合わない。



 灯が、炎の上でゆっくりと立ち上がった。


 初めての動作のようにぎこちなく、

 だが美しく伸び上がる。


 そして、俺の前に来る。


 顔はない。

 声もない。

 気配だけが、確かにそこにある。


 俺は理解した。


 灯は“灰”に反応している。


 時の死骸――

 かつて存在した世界の果てで砕けた時間。


 灯はそれを知覚している。


 それは恐怖でも拒絶でもなく、

 ただ“理解”ではなく――


探究


 だった。


 新しく生まれた存在が、

 世界の外を知ろうとしている。



 森は、それを止めない。


 仲間たちも、止めない。


 俺は、止められない。


 なぜなら灯は“俺の願いの結晶”だからだ。


 俺が世界を好きになり、

 永遠を欲し、

 幸福を積み重ね、

 未来を見たいという衝動を残した結果――


 灯は好奇心を持った。


 それは、世界の中で最も自然なことだった。



 カインが炎越しに言う。


「外に出る時は、灯が案内役になるだろう」


「俺じゃなくて?」

 そう問うと、カインは微笑む。


「“最初に外へ触れるのは、お前じゃないほうがいい”ってことだ」


「アルスは中心だ。

 中心が動けば、世界の形が大きく変わる。

 灯はまだ軽い。

 外側に触れても森が歪みにくい」

 リュミエルが補足する。


「つまり、“お前の代わりに外を見る存在”が必要になる瞬間は来る」

 バロウが肩を竦める。

「それが灯だ」


「でも今じゃない」

 エリスは優しく言った。


 その言葉に、灯は炎の中へ戻るように沈み、座った。



 灰色の粒は降り続けている。

 だが世界は安定している。


 外の文明が滅ぶほどに長い時間が経った。

 外の世界は静寂の層に閉ざされている。


 しかし――

 “完全な終わり”ではない。


 外側には、まだ“痕跡”がある。


 都市の影。

 魔法の理論。

 文明の残渣。

 高密度の記録媒体。

 絶望の遺構。

 祈りの失敗。

 思想の屍。

 神格の化石。


 そして何より――

 かつてアルスの時代を生きた人類の、遥かな末裔の気配。


 もはや人間とは呼べない。

 だが、魂の遠い残光がまだ消えてはいない。



 だが――

 今はまだ外へ出ない。


 幸福と狂気の森は、まだ完成途中だ。


 だからアルスは椅子のように根に腰掛け、

 焚き火を眺め、

 灯を見守り、

 仲間の声に微笑む。


 そのすぐ外側で、

 静かに2000年の“死んだ時間”が降り積もっていると知りながら。


 だが不安はない。


 外の世界がどんな姿になっていようと、

 最終的に帰る場所は、ここなのだから。


 森があって、

 焚き火があって、

 仲間がいて、

 灯がいて、

 白い狼が眠っていれば――


 それだけで永遠は成立する。



 俺は、ゆっくりと目を閉じた。


 明日も、焚き火は燃え続ける。

 森は息をし、

仲間は笑い、

 灯は揺れ、

 灰は降り積もる。


 やがて外へ向かう時が来る。


 その時、俺は外の世界が

 2000年経過して崩壊した未来だったことを知る。


 だがその瞬間まで――

 幸福と狂気の森は揺るがない。


 そして今日もその悪魔は、

 願った未来の中で静かに眠る。

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