第32話「時間の死骸の降る夜」
焚き火の炎はいつものように揺れていた。
灯は火の上でゆっくりと座り込んだ姿に近い形に変わり、
仲間たちは言葉もなく穏やかな沈黙を楽しんでいる。
幸福は変わらない。
狂気は馴染みになり、日常になり、空気の一部になった。
森は今日も完成に近い。
それでいい――はずだった。
◆
その夜、白い粒が降らなかった。
粒が途切れたわけではない。
ただ――色が違う。
落ちてきたのは、灰色だった。
闇に溶けるような薄灰。
光を拒むのではなく、光を覚えていない色。
まるで長すぎる時間が粉になって降ってきたような――
そんな静かな灰。
俺が手を伸ばすと、灰は指先で崩れた。
温度がない。
匂いもない。
記憶すら残さない。
ただし、ひとつだけ確かなことがあった。
――これは時間の死骸だ。
◆
リュミエルが小さく笑う。
「ねえ、気づいた?」
灰を手で受け止めながら言う。
声は穏やかだが、どこか誇らしげだった。
「外の世界は“時間が過ぎすぎて死んだ”のよ」
「時間が、死ぬ?」
俺は呟いた。
「長く生きたものは死ぬ。
人も、動物も、国家も、世界も。
なら――“時間”が死ぬことだってある」
リュミエルは当然のように微笑む。
「外側は長すぎる永遠を迎えて、終わったんだよ」
エリスも優しく言葉を重ねる。
「だが、それは悪いことじゃない」
カインが淡々と告げる。
「お前が世界を壊して森にこもった時点で、
外の世界は“物語の外”に放り出された。
物語を失った世界は、どれだけ動いても老衰に向かうだけ」
「つまり――」
バロウは焚き火の灰を指で弾きながら言った。
「外側の世界は2000年かけて“物語のない時間”を過ごし、
やっと死んだってことだ」
◆
2000年という数字が、なぜか一瞬だけ頭の奥を刺激した。
だが、痛みでも衝撃でもない。
懐かしさに似たノイズ。
遠い日の夢の残響。
「……2000年か」
ぽつりと口から漏れた。
驚きも、悲しみも、怒りも湧かない。
ただ不思議な感覚があった。
短い。
そう思った。
たった2000年。
俺の幸福に比べれば、息を吸って吐くほどの間隔。
呪いを受けた瞬間から予測できたことだった。
俺の“不滅”は 人間の時間と釣り合わない。
◆
灯が、炎の上でゆっくりと立ち上がった。
初めての動作のようにぎこちなく、
だが美しく伸び上がる。
そして、俺の前に来る。
顔はない。
声もない。
気配だけが、確かにそこにある。
俺は理解した。
灯は“灰”に反応している。
時の死骸――
かつて存在した世界の果てで砕けた時間。
灯はそれを知覚している。
それは恐怖でも拒絶でもなく、
ただ“理解”ではなく――
探究
だった。
新しく生まれた存在が、
世界の外を知ろうとしている。
◆
森は、それを止めない。
仲間たちも、止めない。
俺は、止められない。
なぜなら灯は“俺の願いの結晶”だからだ。
俺が世界を好きになり、
永遠を欲し、
幸福を積み重ね、
未来を見たいという衝動を残した結果――
灯は好奇心を持った。
それは、世界の中で最も自然なことだった。
◆
カインが炎越しに言う。
「外に出る時は、灯が案内役になるだろう」
「俺じゃなくて?」
そう問うと、カインは微笑む。
「“最初に外へ触れるのは、お前じゃないほうがいい”ってことだ」
「アルスは中心だ。
中心が動けば、世界の形が大きく変わる。
灯はまだ軽い。
外側に触れても森が歪みにくい」
リュミエルが補足する。
「つまり、“お前の代わりに外を見る存在”が必要になる瞬間は来る」
バロウが肩を竦める。
「それが灯だ」
「でも今じゃない」
エリスは優しく言った。
その言葉に、灯は炎の中へ戻るように沈み、座った。
◆
灰色の粒は降り続けている。
だが世界は安定している。
外の文明が滅ぶほどに長い時間が経った。
外の世界は静寂の層に閉ざされている。
しかし――
“完全な終わり”ではない。
外側には、まだ“痕跡”がある。
都市の影。
魔法の理論。
文明の残渣。
高密度の記録媒体。
絶望の遺構。
祈りの失敗。
思想の屍。
神格の化石。
そして何より――
かつてアルスの時代を生きた人類の、遥かな末裔の気配。
もはや人間とは呼べない。
だが、魂の遠い残光がまだ消えてはいない。
◆
だが――
今はまだ外へ出ない。
幸福と狂気の森は、まだ完成途中だ。
だからアルスは椅子のように根に腰掛け、
焚き火を眺め、
灯を見守り、
仲間の声に微笑む。
そのすぐ外側で、
静かに2000年の“死んだ時間”が降り積もっていると知りながら。
だが不安はない。
外の世界がどんな姿になっていようと、
最終的に帰る場所は、ここなのだから。
森があって、
焚き火があって、
仲間がいて、
灯がいて、
白い狼が眠っていれば――
それだけで永遠は成立する。
◆
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
明日も、焚き火は燃え続ける。
森は息をし、
仲間は笑い、
灯は揺れ、
灰は降り積もる。
やがて外へ向かう時が来る。
その時、俺は外の世界が
2000年経過して崩壊した未来だったことを知る。
だがその瞬間まで――
幸福と狂気の森は揺るがない。
そして今日もその悪魔は、
願った未来の中で静かに眠る。
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