第34話「灯が歩く、世界の外側で」
森の入口は、もともと「門」なんて呼べるものじゃなかった。
境界線は、ただの空気の濃淡でしかない。
木々の密度が変わり、風の匂いが変わり、音の届き方が変わる。
それでも、森はそこを出口として認識していた。
灯は、炎から一歩だけ外へ出る。
焚き火のまわりの土から、
森の地面へ。
そして――森の地面から、
“森ではない何か”へ。
◆
灯の足音は、音を持たない。
世界が灯の動きを邪魔しないからだ。
森は、灯に道を明け渡す。
根の絡まりは引き下がり、
蔓はどいて、
木々は枝を高く持ち上げる。
葉の隙間から外光が差し込む。
光は弱く、どこかくすんでいる。
太陽の寿命の末期のような光。
それでも――灯にとっては初めて見る“森の外の光”だった。
灯は目を持たない。
だが、確かに「眩しさ」と「薄さ」の違いを感じていた。
◆
境界で、世界の密度が変わる。
森の空気は濃くて甘くて、温かい。
外の空気は薄くて冷たくて、乾いている。
灯には寒さも暑さも関係ないのに、
質の違いだけは分かる。
足を一歩進めるごとに、
森の“鼓動”が遠ざかり、
別の“静寂”が近づいてくる。
それでも灯は立ち止まらない。
ここにいていいと認められたように――
ここから出てもいいと許されたのだから。
◆
森の外は、一見するとアルスのいた時代に似ていた。
遠くに城壁の残骸がある。
塔の骨組み。
砦のような影。
石を積み上げた街の名残。
地面には、踏み固められた道の跡が続いている。
舗装は失われたが、確かに何度も人が通った線だ。
そこだけ見れば――中世の世界。
アルスがかつて旅した国々と、そう変わらない。
だが、灯は一歩で違和感を嗅ぎ取る。
ここには、“最近の足跡”がない。
人の通った気配が、完全に途絶えている。
最後の一歩から、途方もない時間が経っている。
◆
灯が歩くと、道の表面がわずかに震えた。
ひび割れた石畳の隙間から、
褪せた記憶が浮かび上がる。
子どもが走る。
商人が荷車を押す。
兵士が疲れた顔で帰る。
誰かが誰かの手を引く。
すべて、色の抜けた幻。
音もなく、匂いもなく、触れれば粉になる。
記憶は、もう“誰のものでもない”。
所有者を失った記憶が、道の上に残っているだけ。
灯はそれを踏みしめる。
世界が灯に見せているのか。
灯が世界から読み取っているのか。
どちらにせよ、ひとつだけ確かなことがあった。
この道は、とっくに役目を終えている。
◆
崩れた城門の下を、灯はくぐった。
街の跡がある。
壁は半分以上崩れ、
屋根は落ち、
梁は折れている。
生活のにおいは、もうどこにもない。
ただ、形だけが残っている。
それは「最近壊された」という感じではなかった。
**“壊れきったあと、さらに長く放置された”**痕跡。
石には苔もほとんど生えていない。
土に還る前段階の“乾いた骨”のようだ。
◆
灯の周囲に灰色の粒が舞う。
森で降っていたものと同じ――
時間の死骸。
ここでは、それがもっと濃い。
灯が一歩進むたびに、
何かの“終わりの記録”が足元で砕ける。
戦争の記憶。
飢饉の記憶。
疫病の記憶。
繁栄の記憶。
崩壊の記憶。
それらすべてが混ざり合い、
原型を失っている。
灯は、それをただ“通過”した。
哀れみも悲しみもない。
ただ、事実として受け取る。
◆
街の中心には、ひときわ大きな建物の廃墟があった。
かつては教会か、宮殿か、学問所か――
それとも全部を兼ねていたのかもしれない。
上部は崩れ、
天井は抜け、
柱は斜めに折れている。
しかし、床の一部だけがしっかりと残っていた。
そこには、大きな円形の模様が描かれている。
石に刻まれた線。
複雑な紋様。
読めない文字。
しかし灯には、その意味が分かった。
これは“時間を測るための魔法陣”だった。
◆
灯が円の中心に立った。
世界が、少しだけ息を飲む。
円状に刻まれた線が淡く光る。
魔力はもうほとんど枯れている。
だが、灯が触れることで一瞬だけ目を覚ました。
視界が反転する。
灯には目がない。
だが世界の「過去を見る視界」が開いた。
◆
その場所に、人々が集まっている。
白衣の者。
甲冑の者。
袈裟の者。
身分も役職も違う人間たち。
彼らは争っていない。
絶望してもいない。
祈りも叫びもない。
静かに、ただ静かに、何かを見つめている。
円形の中央に置かれた石板。
そこには、数字の列が刻まれていた。
灯には数字の意味はわからない。
だが、それが“長い時間の記録”だということは分かる。
その数列の最後の行に、なぞるような仕草で誰かが指を置いた。
「――ここで終わりにしよう」
音はない。
口の動きだけ。
しかし世界がその言葉を覚えている。
数字の列の最後に、ひとつだけ線が引かれた。
それは年代の終わりを示す線。
そして、そこから先は何も書かれなかった。
◆
灯は静かにその光景を見ていた。
理解ではない。
解釈でもない。
ただ、記録として受け取る。
人間たちは「もう先を書かない」と決めた。
世界の時間の記録を、
自分たちで止めた。
世界は、その意志を尊重した。
だから、時間は死んだ。
◆
視界が戻る。
崩れた建物。
割れた石床。
千切れた柱。
灰だけが残る空間。
円の中央には、もう石板はない。
けれど、数字の列の一番下に引かれた線の痕跡だけは、
傷のように残っていた。
灯はその傷に触れる。
すると、傷からまた灰がこぼれ落ちた。
それは、さっき森で降っていたものと同じ灰。
時間の死骸。
けれど、ほんの少し、色が濃い。
◆
灯は首をかしげる。
森の中なら、その動きは可愛い、あるいは微笑ましい、
そんな感想で済んだかもしれない。
ここでは違う。
灯が首をかしげるたびに、
街全体の影がわずかに揺れた。
世界そのものが「まだ見られている」という違和感を覚えている。
ここは、もう誰も見に来ないはずだった。
終わりを決めた者たちの場所。
時間の記録を閉じた場所。
そこに今――“世界の外側にいる存在”が立っている。
◆
灯は、一歩後ろに下がる。
過去を見るためではなく、
戻るための一歩。
世界はその動きを歓迎した。
床の亀裂が静かに閉じる。
柱の影が少しだけ濃くなる。
崩れた壁の穴から、柔らかな風が吹き込む。
まるで、
「見に来てくれてありがとう。
もう、目を閉じていいだろう?」
と言っているかのように。
◆
灯は振り返る。
遠くに、森の輪郭が見えた。
ここから見る森は、
ただの「暗い塊」ではない。
星よりも重い影。
空よりも深い闇。
それでいて、
どこよりも温かい「帰る場所」。
灯は迷わない。
外の世界に興味はある。
まだ見ていない場所も、まだ知り得ない記録も、無数にある。
それでも――帰る場所が先だ。
ここがどういう世界だったのか。
どれだけの時間が流れたのか。
それらは、灯自身よりも、
アルスが知るべきことだと、灯は無言で理解していた。
◆
灯は街を出る。
門をくぐり、
道を戻り、
森が視界いっぱいに広がる地点まで歩く。
外の世界には、まだいくつもの街や国、跡地がある。
人の末裔なのか、それとも別のものか分からない「生き物」もいるだろう。
だが、それを見に行くのは――今じゃない。
今日の灯の役目は、「外側はこうなっている」と森に知らせることだけ。
◆
森の前で、灯は足を止めた。
境界の空気が変わる。
甘さと温かさ、狂気と幸福。
森が「おかえり」と言っている。
灯は一度だけ振り返る。
灰が舞う。
遠くの城壁が影絵のように滲む。
そこに、声はない。
助けを求める手もない。
罵倒も、祈りもない。
ただ、終わった世界の輪郭だけが静かに残っている。
灯は、それに背を向けて森へ戻る。
◆
森の内部では、相変わらず焚き火が燃えている。
アルスがいる。
仲間がいる。
白い狼が丸まって眠っている。
帰る場所がある。
灯は一歩、森の中へ踏み込んだ。
世界が、その歩みを受け止めた。
そして――その悪魔が願う未来は、
また一歩、外の世界へと手を伸ばす準備を整えた。
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