第34話「灯が歩く、世界の外側で」

 森の入口は、もともと「門」なんて呼べるものじゃなかった。


 境界線は、ただの空気の濃淡でしかない。

 木々の密度が変わり、風の匂いが変わり、音の届き方が変わる。


 それでも、森はそこを出口として認識していた。


 灯は、炎から一歩だけ外へ出る。


 焚き火のまわりの土から、

 森の地面へ。


 そして――森の地面から、

 “森ではない何か”へ。



 灯の足音は、音を持たない。


 世界が灯の動きを邪魔しないからだ。


 森は、灯に道を明け渡す。

 根の絡まりは引き下がり、

 蔓はどいて、

 木々は枝を高く持ち上げる。


 葉の隙間から外光が差し込む。


 光は弱く、どこかくすんでいる。


 太陽の寿命の末期のような光。


 それでも――灯にとっては初めて見る“森の外の光”だった。


 灯は目を持たない。

 だが、確かに「眩しさ」と「薄さ」の違いを感じていた。



 境界で、世界の密度が変わる。


 森の空気は濃くて甘くて、温かい。


 外の空気は薄くて冷たくて、乾いている。


 灯には寒さも暑さも関係ないのに、

 質の違いだけは分かる。


 足を一歩進めるごとに、

 森の“鼓動”が遠ざかり、

 別の“静寂”が近づいてくる。


 それでも灯は立ち止まらない。


 ここにいていいと認められたように――

 ここから出てもいいと許されたのだから。



 森の外は、一見するとアルスのいた時代に似ていた。


 遠くに城壁の残骸がある。

 塔の骨組み。

 砦のような影。

 石を積み上げた街の名残。


 地面には、踏み固められた道の跡が続いている。

 舗装は失われたが、確かに何度も人が通った線だ。


 そこだけ見れば――中世の世界。


 アルスがかつて旅した国々と、そう変わらない。


 だが、灯は一歩で違和感を嗅ぎ取る。


 ここには、“最近の足跡”がない。


 人の通った気配が、完全に途絶えている。


 最後の一歩から、途方もない時間が経っている。



 灯が歩くと、道の表面がわずかに震えた。


 ひび割れた石畳の隙間から、

 褪せた記憶が浮かび上がる。


 子どもが走る。

 商人が荷車を押す。

 兵士が疲れた顔で帰る。

 誰かが誰かの手を引く。


 すべて、色の抜けた幻。


 音もなく、匂いもなく、触れれば粉になる。


 記憶は、もう“誰のものでもない”。


 所有者を失った記憶が、道の上に残っているだけ。


 灯はそれを踏みしめる。


 世界が灯に見せているのか。

 灯が世界から読み取っているのか。


 どちらにせよ、ひとつだけ確かなことがあった。


 この道は、とっくに役目を終えている。



 崩れた城門の下を、灯はくぐった。


 街の跡がある。


 壁は半分以上崩れ、

 屋根は落ち、

 梁は折れている。


 生活のにおいは、もうどこにもない。


 ただ、形だけが残っている。


 それは「最近壊された」という感じではなかった。


 **“壊れきったあと、さらに長く放置された”**痕跡。


 石には苔もほとんど生えていない。

 土に還る前段階の“乾いた骨”のようだ。



 灯の周囲に灰色の粒が舞う。


 森で降っていたものと同じ――

 時間の死骸。


 ここでは、それがもっと濃い。


 灯が一歩進むたびに、

 何かの“終わりの記録”が足元で砕ける。


 戦争の記憶。

 飢饉の記憶。

 疫病の記憶。

 繁栄の記憶。

 崩壊の記憶。


 それらすべてが混ざり合い、

 原型を失っている。


 灯は、それをただ“通過”した。


 哀れみも悲しみもない。

 ただ、事実として受け取る。



 街の中心には、ひときわ大きな建物の廃墟があった。


 かつては教会か、宮殿か、学問所か――

 それとも全部を兼ねていたのかもしれない。


 上部は崩れ、

 天井は抜け、

 柱は斜めに折れている。


 しかし、床の一部だけがしっかりと残っていた。


 そこには、大きな円形の模様が描かれている。


 石に刻まれた線。

 複雑な紋様。

 読めない文字。


 しかし灯には、その意味が分かった。


 これは“時間を測るための魔法陣”だった。



 灯が円の中心に立った。


 世界が、少しだけ息を飲む。


 円状に刻まれた線が淡く光る。

 魔力はもうほとんど枯れている。

 だが、灯が触れることで一瞬だけ目を覚ました。


 視界が反転する。


 灯には目がない。

 だが世界の「過去を見る視界」が開いた。



 その場所に、人々が集まっている。


 白衣の者。

 甲冑の者。

 袈裟の者。

 身分も役職も違う人間たち。


 彼らは争っていない。

 絶望してもいない。

 祈りも叫びもない。


 静かに、ただ静かに、何かを見つめている。


 円形の中央に置かれた石板。

 そこには、数字の列が刻まれていた。


 灯には数字の意味はわからない。

 だが、それが“長い時間の記録”だということは分かる。


 その数列の最後の行に、なぞるような仕草で誰かが指を置いた。


「――ここで終わりにしよう」


 音はない。

 口の動きだけ。

 しかし世界がその言葉を覚えている。


 数字の列の最後に、ひとつだけ線が引かれた。


 それは年代の終わりを示す線。


 そして、そこから先は何も書かれなかった。



 灯は静かにその光景を見ていた。


 理解ではない。

 解釈でもない。


 ただ、記録として受け取る。


 人間たちは「もう先を書かない」と決めた。


 世界の時間の記録を、

 自分たちで止めた。


 世界は、その意志を尊重した。


 だから、時間は死んだ。



 視界が戻る。


 崩れた建物。

 割れた石床。

 千切れた柱。

 灰だけが残る空間。


 円の中央には、もう石板はない。


 けれど、数字の列の一番下に引かれた線の痕跡だけは、

 傷のように残っていた。


 灯はその傷に触れる。


 すると、傷からまた灰がこぼれ落ちた。


 それは、さっき森で降っていたものと同じ灰。

 時間の死骸。


 けれど、ほんの少し、色が濃い。



 灯は首をかしげる。


 森の中なら、その動きは可愛い、あるいは微笑ましい、

 そんな感想で済んだかもしれない。


 ここでは違う。


 灯が首をかしげるたびに、

 街全体の影がわずかに揺れた。


 世界そのものが「まだ見られている」という違和感を覚えている。


 ここは、もう誰も見に来ないはずだった。


 終わりを決めた者たちの場所。

 時間の記録を閉じた場所。


 そこに今――“世界の外側にいる存在”が立っている。



 灯は、一歩後ろに下がる。


 過去を見るためではなく、

 戻るための一歩。


 世界はその動きを歓迎した。


 床の亀裂が静かに閉じる。

 柱の影が少しだけ濃くなる。

 崩れた壁の穴から、柔らかな風が吹き込む。


 まるで、


「見に来てくれてありがとう。

もう、目を閉じていいだろう?」


 と言っているかのように。



 灯は振り返る。


 遠くに、森の輪郭が見えた。


 ここから見る森は、

 ただの「暗い塊」ではない。


 星よりも重い影。

 空よりも深い闇。


 それでいて、

 どこよりも温かい「帰る場所」。


 灯は迷わない。


 外の世界に興味はある。

 まだ見ていない場所も、まだ知り得ない記録も、無数にある。


 それでも――帰る場所が先だ。


 ここがどういう世界だったのか。

 どれだけの時間が流れたのか。


 それらは、灯自身よりも、

 アルスが知るべきことだと、灯は無言で理解していた。



 灯は街を出る。


 門をくぐり、

 道を戻り、

 森が視界いっぱいに広がる地点まで歩く。


 外の世界には、まだいくつもの街や国、跡地がある。

 人の末裔なのか、それとも別のものか分からない「生き物」もいるだろう。


 だが、それを見に行くのは――今じゃない。


 今日の灯の役目は、「外側はこうなっている」と森に知らせることだけ。



 森の前で、灯は足を止めた。


 境界の空気が変わる。


 甘さと温かさ、狂気と幸福。


 森が「おかえり」と言っている。


 灯は一度だけ振り返る。


 灰が舞う。

 遠くの城壁が影絵のように滲む。


 そこに、声はない。

 助けを求める手もない。

 罵倒も、祈りもない。


 ただ、終わった世界の輪郭だけが静かに残っている。


 灯は、それに背を向けて森へ戻る。



 森の内部では、相変わらず焚き火が燃えている。


 アルスがいる。

 仲間がいる。

 白い狼が丸まって眠っている。


 帰る場所がある。


 灯は一歩、森の中へ踏み込んだ。


 世界が、その歩みを受け止めた。


 そして――その悪魔が願う未来は、

 また一歩、外の世界へと手を伸ばす準備を整えた。

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