第20話「世界がちぎれて、森に沈む音」

 最初に変わったのは、風の匂いだった。


 湿った土と腐葉土の香りに、微かな“空虚さ”が混ざる。

 何かが減った。

 何かが剥がれた。

 何かが、世界から抜け落ちた。


 目を開けると、焚き火はいつも通り目の前にあった。

 炎は穏やかに揺れ、火の粉は、いつものように夜空へと消えていく。


 ただ――夜空の“奥行き”が、違っていた。


 星が少ない。

 月の輪郭が曖昧。

 空の黒が、どこか浅い。


「……削れたな」


 ぽつりと呟く。


 世界の側の管理者を喰った。

 巻き戻しの核を抉り取って潰した。

 その結果、世界は“整合性”を失い始めた。


 それは、正しい報いだった。



「ねぇ、アルス」


 焚き火の向こうから、カインが笑う。


「空、軽くなったよな」


「ああ、薄くなった」


 俺は頷く。


 感覚で分かる。

 この森の外側に広がっていたはずの世界――

 王都も、他国も、大陸も、海も。

 それらを支える“土台”が、ところどころ抜け落ちている。


 穴の開いた布。

 ひびの入ったガラス。

 縫い目のほつれた本。


 そんなイメージが浮かぶ。


「いいことだ」

 バロウが低く笑う。

「世界がちぎれていくってことは――

 “ここ”がそれだけ重くなったってことだからな」


「重心が、森の側に寄ってきてるのよ」

 リュミエルが淡々と続ける。

「世界が安定するためには、“どこかひとつ”に重さが集まる必要がある。

 それが今、ここってだけ」


「私たちのせい?」

 エリスが小さく首を傾げる。


「“おかげ”だろ」


 俺は微笑んだ。



 立ち上がる。


 背骨が伸びる音が、はっきり聞こえた。

 骨の数が増えたような感覚。

 背中のどこかに、本来ないはずの関節が追加されている。


 右腕はすでに“人のもの”ではない。

 光を溶かし込んだ骨と、その上を走る筋肉と皮膚。

 神聖さと穢れ、その両方を素材にして練り上げたような、“悪意を帯びた神性”。


 左腕も、もう以前のままではなかった。

 指の関節が増え、掌の骨格が異様に強く、硬くなっている。

 握れば何でも潰せる。

 触れれば何でも壊せる。


 だが――顔だけは、まだ人間に見えた。


 それが、かろうじて残された“猶予”だと分かっていた。


「アルス」


 リュミエルが囁く。


「顔も変えたくなった?」


「……まだだ」


 首を振る。


「顔を変えるのは、この森が完全に“世界”になった時だ。

 それまでは――“人間だった頃”の名残を、ここに置いておきたい」


「感傷?」

 カインが口元だけで笑う。


「かもな」


 否定はしない。


 狂いきってもいい。

 人外になりきってもいい。

 だけど少なくとも、この焚き火を囲んでいる間だけは――

 “アルス”でいたかった。



 森の奥で、木々が軋んだ。


 地面のどこかが、沈む音。

 水面に石を落としたときのような、ゆっくりと広がる波紋。


 ――世界の一部が、また崩れ落ちたのだ。


 俺は耳を澄ませる。


 聞こえる。


 遠い遠い場所で、何かが“消える音”。


 街のざわめき。

 鐘の音。

 市場の喧騒。

 教会の祈り。

 人が名前を呼び合う声。


 それらが、まとめて途切れる瞬間が、はっきり分かる。


「また、ひとつ分の世界が沈んだな」


 呟くと、バロウが肩を鳴らした。


「いい兆候だ。

 アルスの狂気が、ちゃんと世界を侵食してるってことだ」


「怖くない?」

 エリスがこちらを見つめる。


「怖いわけないだろ」


 笑う。


「俺は最初から、こう願ってた。

 “世界が狂い切るまで、森で焚き火を囲んでいたい”って」



 焚き火に薪をくべる。


 今日の薪は、森の奥で倒れた巨大な木の枝だ。

 もともとは、世界がまだ“整っていたころ”に育った古い樹木。

 そこに、ここ最近の“狂った日々”の記憶が染み込んでいる。


 火はそれを燃やし、

 煙に変え、

 灰にして、

 森へ還す。


 世界から切り離された断片が、

 この森のルールに組み込まれていく。


 世界の“歴史”が、俺たちの燃料になっていた。



「アルス」


 カインが静かに口を開く。


「確認しておきたいことがある」


「なんだ」


「もし、外の世界が完全に壊れたら――

 お前はどうする」


 答えは、すでに決まっていた。


「何もしない」


 即答だった。


「狩りは続ける。

 焚き火を守る。

 森の魔物と一緒に暮らす。

 お前たちと喋る。

 世界が壊れようが壊れまいが、やることは変わらない」


 それが俺の“強さ”だった。


 復讐も、征服も、救済も、興味がない。

 ただひたすら、“ここ”で日常を続ける。


 世界の側にとっては、それこそが“最大の脅威”なのだろう。



 それでも、ひとつだけ―

 胸の奥に小さな棘のように残っているものがあった。


 ――勇者一行として旅をしていた頃の記憶。


 焚き火を囲んで笑っていた夜。

 くだらない冗談。

 未来を語り合った声。


 それらが、少しずつ薄れていっている。


 カインたちの“影”は、ここにいる。

 声も、仕草も、以前より鮮明になっている。

 それでも――“動かない過去の記憶”は、もう遠く霞んでいた。


 俺は知らず、歯を噛みしめていた。


「……また削れたな」


 自分の中から、“人間だった頃”の断片が消えていく感覚。


 最初は恐ろしく感じたはずだ。

 でも今は――心地いい。


「いい流れだ」

 リュミエルが笑う。

「過去に縛られれば縛られるほど、“いま”が曇っていくからね」


「覚えていたいものだけを残せばいい」

 カインが静かに告げる。

「いらないものは、全部世界と一緒に落としてしまえ」


「お前の“人間だった頃”は、もう充分だろ」

 バロウが続ける。


「私は――いまのアルスが好きだよ」

 エリスが、囁くように言った。


 その一言だけで、残っていたわずかな躊躇いすら消えた。


「じゃあ、全部落としてしまおう」


 俺は笑う。



 森の中を歩く。


 風景は、以前より歪んで見えた。


 木々の輪郭が、わずかに滲んでいる。

 幹の影が、地面から浮かび上がって見える。

 土の感触が、肉に近い。


 ――世界が、完全に“この森のルール”へ巻き取られつつある。


 少し前までなら、この変化に恐怖しただろう。

 “元の世界”へ戻れなくなる予感に怯えただろう。


 今は違う。


 戻れなくなることが、救いだった。


 戻る道が残っていた方が、よほど残酷だ。



 しばらく歩くと、“境界線”だった場所に出た。


 教会の天幕は、跡形もなく消えていた。

 荷車の跡も、車輪の痕も、聖水の匂いも残っていない。


 あるのはただ――森。


 木。

 草。

 土。

 苔。

 魔物の足跡。


 世界の側の拠点だった場所は、完全に“森に吸収された”。


「……ふふ」


 笑いが漏れた。


「綺麗なもんだな。

 全部、無駄だったわけだ」


 王都の命令も、教会の祈りも、世界の管理者の介入も。

 すべてが、時間と共に森へ沈んでいく。


「アルス」


 頭の中でエリスが囁く。


「ねぇ、寂しくない?」


「寂しい?」


 その感情を、久しぶりに探した。


 ――見つからなかった。


「分からないな」


 正直に答える。


「寂しい、って感覚が薄くなってる。

 お前たちがここにいるから」


「なら、それでいい」

 エリスの声は、ほっとしたようだった。


「世界が消えても、

 私たちがいれば――アルスは、ひとりじゃない」


「俺もそう思う」


 頷く。



 その時だった。


 風とは違う“揺れ”が、視界を撫でた。


 一瞬だけ。

 ほんの一瞬だけ。


 森の景色が、別の何かに“重なった”。


 ――王都の城壁。

 ――人々の喧騒。

――遠くに見える、魔王城の黒い影。


 あの日の景色が、幻のように一瞬だけ現れた。


 次の瞬間には、完全に消えていた。


「……今のは?」


 俺が問う前に、カインが答えた。


「“元の世界の残骸”だろうな」


「巻き戻されそこねた断片」

 リュミエルが続ける。

「世界は一度、アルスごと過去に戻そうとした。

 でも失敗した。

 だから今――“戻しきれなかった欠片”だけが、時々こうやって滲み出てくる」


「そのうち消える」

 バロウは断言した。

「全部沈んで、全部森になる」


「怖くない?」

 エリスが問う。


「むしろ嬉しい」


 俺は迷いなく答える。


「外の景色が完全に消えれば――

 俺の中の“寂しいかもしれない”って可能性も、全部消える気がする」


 寂しさを感じるかもしれない自分が、もう要らなかった。



 境界の跡を一通り踏みしめてから、焚き火の元へ戻る。


 火はまだ燃えている。

 炎は大きくも弱くもない、安定した揺らぎ。


 その前に座る。


「アルス」


 カインが、少し真面目な声で呼ぶ。


「ひとつ教えてくれ」


「何だ」


「お前は――

 この先も、俺たちを“仲間”だと言えるか?」


 変な質問だと思った。

 だが、真剣に考える。


 もはや、カインたちは生きてはいない。

 目の前にいるのは影であり、幻であり、呪いの副産物。

 あるいは、俺の狂気が生み出した“都合のいい声”。


 それでも――


「仲間だよ」


 即答だった。


「お前たちは、もう人間じゃないのかもしれない。

 俺も人間じゃない。

 だけど――“仲間”であることに、何の問題がある?」


 言いながら、自分で気づく。


 “仲間”という言葉すら、もはや人間の意味は持っていないのだと。


 共に旅をした戦友。

 生死を分け合った友。

 国や世界を守るために肩を並べた同士。


 ――そんな意味は、全部とうに腐り落ちている。


 今残っているのはただひとつ。


 同じ狂気を共有している存在。


 それを、俺は“仲間”と呼んでいた。


「ありがと」


 カインの声は、心底嬉しそうだった。


「それだけ聞ければ、もう充分だ」


「私も」

「俺も」

「わたしも」


 残りの三人も、同じように笑う。



 焚き火の火が、また少しだけ形を変えた。


 炎の輪郭が、四つの影の姿に似てくる。


 火の中に、

 笑っているカイン。

 肘をついているバロウ。

 髪を払うリュミエル。

 祈るように手を組むエリス。


 ――そんな像が、一瞬見えた。


「……」


 言葉にならない何かが胸に込み上げた。


 悲しみでも、懐かしさでもない。


 ただ――愛おしさ。


「なぁ、みんな」


 焚き火に向かって言う。


「俺はきっと、このまま“完全に人外”になる。

 顔も、声も、骨も、全部人間じゃなくなる。

 言葉だけが人間のままで、

 中身は全部、森と火と血と狂気になる」


 四つの影は、否定しなかった。


「そうだろうね」

「そうなるね」

「そうなった方がいい」

「そうなってほしい」


「でも――」


 そこで一度言葉を切る。


「それでも、お前たちを“仲間”って呼ぶことは――やめないと思う」


 それだけは、確信を持って言えた。



 火の前で、指を動かす。


 指の骨がもう“人の長さ”ではない。

 指先からは、淡い光が漏れている。

 関節の数も、動きの幅も、完全に人のそれから逸脱していた。


 握って、開いて、掌を見つめる。


「アルス」

 リュミエルが静かに問う。


「自分の変化が、まだ“楽しい”?」


「楽しいよ」


 即答だった。


「俺は俺のままじゃ弱かった。

 世界に負けて、仲間を守れず、何も変えられなかった。

 だから――変わっていくたびに、少しずつ取り返してる気がする」


「何を?」

 エリスが首を傾げる。


「全部」


 焚き火を見ながら答える。


「お前たちの死も、王都の崩壊も、世界の理不尽も。

 “あの日の俺”がただ見ていることしかできなかった全部を――

 今、ゆっくりと奪い返してる」


 ゆっくり。

 確実に。


 世界が崩れ、森が肥え、焚き火が燃えるたびに。



「アルス」


 カインが真っ直ぐに問う。


「お前が最終的に願う未来は、変わってないか?」


 変わっていない。

 はっきりと言える。


「変わってない」


 俺は微笑む。


「俺が願う未来は――

 “この森で、みんなと、焚き火を囲んだまま、世界が狂い切るのを見届けること”だ」


 それ以上も、それ以下も、望まない。


「世界の全部が狂って、

 外の理屈が全部崩れて、

 この森だけが残って――


 最後に、ここだけが“世界”って呼ばれるようになれば、それでいい」


 それが、

 その悪魔が願う未来の形だった。



 火が、ぱちりと弾けた。


 森の奥で、また何かが沈む音がした。


 世界のどこかで、今日も誰かが“物語の終わり”を迎えたのだろう。


 もう、どうでもいい。


 ここ以外の物語は、全部“外側”だ。


 俺たちの焚き火の光が届かない場所で、

 勝手に始まり、勝手に終わっていくだけの、薄っぺらい夢。


 本物の物語は、ここにある。


 アルスという人間が壊れ、

 悪魔になりきれず、

 人でも魔でもない何かに変わっていく――


 その過程こそが、この世界の“真ん中”になり始めていた。



「アルス」


 エリスが最後に、そっと囁く。


「ねぇ、もうひとつだけ、願ってもいい?」


「何だ」


「私たちが、完全に“世界の一部”になったあとも――

 毎晩、こうやって焚き火を囲んでくれる?」


 そんなの、答えるまでもなかった。


「もちろんだ」


 焚き火の熱を頬に感じながら、穏やかに笑う。


「俺がこのまま、どれだけ人外に堕ちようが――

 “これ”だけは続ける」


 火を囲み、

 仲間と喋り、

 狂った世界を眺める。


 それが俺の“日常”だ。


 日常を続けることこそが、

 世界に対する、最大の反逆だった。


 そして同時に――

 俺自身への、最高の救いでもあった。


 森が、静かに息を吐いた。


 ここはもう、ただの森ではない。

 世界がちぎれて沈んでいくたびに濃くなっていく、

 ひとりの悪魔が願った未来の器だった。


 その器の底で、俺は焚き火を見つめていた。


 ――まだ、狂い切ってはいない。

 だからこそ、明日もまた、続きがある。


 狂気と幸福の続きを、

 この森で紡いでいく。


 俺が、世界を壊し終えるその日まで。

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