第20話「世界がちぎれて、森に沈む音」
最初に変わったのは、風の匂いだった。
湿った土と腐葉土の香りに、微かな“空虚さ”が混ざる。
何かが減った。
何かが剥がれた。
何かが、世界から抜け落ちた。
目を開けると、焚き火はいつも通り目の前にあった。
炎は穏やかに揺れ、火の粉は、いつものように夜空へと消えていく。
ただ――夜空の“奥行き”が、違っていた。
星が少ない。
月の輪郭が曖昧。
空の黒が、どこか浅い。
「……削れたな」
ぽつりと呟く。
世界の側の管理者を喰った。
巻き戻しの核を抉り取って潰した。
その結果、世界は“整合性”を失い始めた。
それは、正しい報いだった。
◆
「ねぇ、アルス」
焚き火の向こうから、カインが笑う。
「空、軽くなったよな」
「ああ、薄くなった」
俺は頷く。
感覚で分かる。
この森の外側に広がっていたはずの世界――
王都も、他国も、大陸も、海も。
それらを支える“土台”が、ところどころ抜け落ちている。
穴の開いた布。
ひびの入ったガラス。
縫い目のほつれた本。
そんなイメージが浮かぶ。
「いいことだ」
バロウが低く笑う。
「世界がちぎれていくってことは――
“ここ”がそれだけ重くなったってことだからな」
「重心が、森の側に寄ってきてるのよ」
リュミエルが淡々と続ける。
「世界が安定するためには、“どこかひとつ”に重さが集まる必要がある。
それが今、ここってだけ」
「私たちのせい?」
エリスが小さく首を傾げる。
「“おかげ”だろ」
俺は微笑んだ。
◆
立ち上がる。
背骨が伸びる音が、はっきり聞こえた。
骨の数が増えたような感覚。
背中のどこかに、本来ないはずの関節が追加されている。
右腕はすでに“人のもの”ではない。
光を溶かし込んだ骨と、その上を走る筋肉と皮膚。
神聖さと穢れ、その両方を素材にして練り上げたような、“悪意を帯びた神性”。
左腕も、もう以前のままではなかった。
指の関節が増え、掌の骨格が異様に強く、硬くなっている。
握れば何でも潰せる。
触れれば何でも壊せる。
だが――顔だけは、まだ人間に見えた。
それが、かろうじて残された“猶予”だと分かっていた。
「アルス」
リュミエルが囁く。
「顔も変えたくなった?」
「……まだだ」
首を振る。
「顔を変えるのは、この森が完全に“世界”になった時だ。
それまでは――“人間だった頃”の名残を、ここに置いておきたい」
「感傷?」
カインが口元だけで笑う。
「かもな」
否定はしない。
狂いきってもいい。
人外になりきってもいい。
だけど少なくとも、この焚き火を囲んでいる間だけは――
“アルス”でいたかった。
◆
森の奥で、木々が軋んだ。
地面のどこかが、沈む音。
水面に石を落としたときのような、ゆっくりと広がる波紋。
――世界の一部が、また崩れ落ちたのだ。
俺は耳を澄ませる。
聞こえる。
遠い遠い場所で、何かが“消える音”。
街のざわめき。
鐘の音。
市場の喧騒。
教会の祈り。
人が名前を呼び合う声。
それらが、まとめて途切れる瞬間が、はっきり分かる。
「また、ひとつ分の世界が沈んだな」
呟くと、バロウが肩を鳴らした。
「いい兆候だ。
アルスの狂気が、ちゃんと世界を侵食してるってことだ」
「怖くない?」
エリスがこちらを見つめる。
「怖いわけないだろ」
笑う。
「俺は最初から、こう願ってた。
“世界が狂い切るまで、森で焚き火を囲んでいたい”って」
◆
焚き火に薪をくべる。
今日の薪は、森の奥で倒れた巨大な木の枝だ。
もともとは、世界がまだ“整っていたころ”に育った古い樹木。
そこに、ここ最近の“狂った日々”の記憶が染み込んでいる。
火はそれを燃やし、
煙に変え、
灰にして、
森へ還す。
世界から切り離された断片が、
この森のルールに組み込まれていく。
世界の“歴史”が、俺たちの燃料になっていた。
◆
「アルス」
カインが静かに口を開く。
「確認しておきたいことがある」
「なんだ」
「もし、外の世界が完全に壊れたら――
お前はどうする」
答えは、すでに決まっていた。
「何もしない」
即答だった。
「狩りは続ける。
焚き火を守る。
森の魔物と一緒に暮らす。
お前たちと喋る。
世界が壊れようが壊れまいが、やることは変わらない」
それが俺の“強さ”だった。
復讐も、征服も、救済も、興味がない。
ただひたすら、“ここ”で日常を続ける。
世界の側にとっては、それこそが“最大の脅威”なのだろう。
◆
それでも、ひとつだけ―
胸の奥に小さな棘のように残っているものがあった。
――勇者一行として旅をしていた頃の記憶。
焚き火を囲んで笑っていた夜。
くだらない冗談。
未来を語り合った声。
それらが、少しずつ薄れていっている。
カインたちの“影”は、ここにいる。
声も、仕草も、以前より鮮明になっている。
それでも――“動かない過去の記憶”は、もう遠く霞んでいた。
俺は知らず、歯を噛みしめていた。
「……また削れたな」
自分の中から、“人間だった頃”の断片が消えていく感覚。
最初は恐ろしく感じたはずだ。
でも今は――心地いい。
「いい流れだ」
リュミエルが笑う。
「過去に縛られれば縛られるほど、“いま”が曇っていくからね」
「覚えていたいものだけを残せばいい」
カインが静かに告げる。
「いらないものは、全部世界と一緒に落としてしまえ」
「お前の“人間だった頃”は、もう充分だろ」
バロウが続ける。
「私は――いまのアルスが好きだよ」
エリスが、囁くように言った。
その一言だけで、残っていたわずかな躊躇いすら消えた。
「じゃあ、全部落としてしまおう」
俺は笑う。
◆
森の中を歩く。
風景は、以前より歪んで見えた。
木々の輪郭が、わずかに滲んでいる。
幹の影が、地面から浮かび上がって見える。
土の感触が、肉に近い。
――世界が、完全に“この森のルール”へ巻き取られつつある。
少し前までなら、この変化に恐怖しただろう。
“元の世界”へ戻れなくなる予感に怯えただろう。
今は違う。
戻れなくなることが、救いだった。
戻る道が残っていた方が、よほど残酷だ。
◆
しばらく歩くと、“境界線”だった場所に出た。
教会の天幕は、跡形もなく消えていた。
荷車の跡も、車輪の痕も、聖水の匂いも残っていない。
あるのはただ――森。
木。
草。
土。
苔。
魔物の足跡。
世界の側の拠点だった場所は、完全に“森に吸収された”。
「……ふふ」
笑いが漏れた。
「綺麗なもんだな。
全部、無駄だったわけだ」
王都の命令も、教会の祈りも、世界の管理者の介入も。
すべてが、時間と共に森へ沈んでいく。
「アルス」
頭の中でエリスが囁く。
「ねぇ、寂しくない?」
「寂しい?」
その感情を、久しぶりに探した。
――見つからなかった。
「分からないな」
正直に答える。
「寂しい、って感覚が薄くなってる。
お前たちがここにいるから」
「なら、それでいい」
エリスの声は、ほっとしたようだった。
「世界が消えても、
私たちがいれば――アルスは、ひとりじゃない」
「俺もそう思う」
頷く。
◆
その時だった。
風とは違う“揺れ”が、視界を撫でた。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ。
森の景色が、別の何かに“重なった”。
――王都の城壁。
――人々の喧騒。
――遠くに見える、魔王城の黒い影。
あの日の景色が、幻のように一瞬だけ現れた。
次の瞬間には、完全に消えていた。
「……今のは?」
俺が問う前に、カインが答えた。
「“元の世界の残骸”だろうな」
「巻き戻されそこねた断片」
リュミエルが続ける。
「世界は一度、アルスごと過去に戻そうとした。
でも失敗した。
だから今――“戻しきれなかった欠片”だけが、時々こうやって滲み出てくる」
「そのうち消える」
バロウは断言した。
「全部沈んで、全部森になる」
「怖くない?」
エリスが問う。
「むしろ嬉しい」
俺は迷いなく答える。
「外の景色が完全に消えれば――
俺の中の“寂しいかもしれない”って可能性も、全部消える気がする」
寂しさを感じるかもしれない自分が、もう要らなかった。
◆
境界の跡を一通り踏みしめてから、焚き火の元へ戻る。
火はまだ燃えている。
炎は大きくも弱くもない、安定した揺らぎ。
その前に座る。
「アルス」
カインが、少し真面目な声で呼ぶ。
「ひとつ教えてくれ」
「何だ」
「お前は――
この先も、俺たちを“仲間”だと言えるか?」
変な質問だと思った。
だが、真剣に考える。
もはや、カインたちは生きてはいない。
目の前にいるのは影であり、幻であり、呪いの副産物。
あるいは、俺の狂気が生み出した“都合のいい声”。
それでも――
「仲間だよ」
即答だった。
「お前たちは、もう人間じゃないのかもしれない。
俺も人間じゃない。
だけど――“仲間”であることに、何の問題がある?」
言いながら、自分で気づく。
“仲間”という言葉すら、もはや人間の意味は持っていないのだと。
共に旅をした戦友。
生死を分け合った友。
国や世界を守るために肩を並べた同士。
――そんな意味は、全部とうに腐り落ちている。
今残っているのはただひとつ。
同じ狂気を共有している存在。
それを、俺は“仲間”と呼んでいた。
「ありがと」
カインの声は、心底嬉しそうだった。
「それだけ聞ければ、もう充分だ」
「私も」
「俺も」
「わたしも」
残りの三人も、同じように笑う。
◆
焚き火の火が、また少しだけ形を変えた。
炎の輪郭が、四つの影の姿に似てくる。
火の中に、
笑っているカイン。
肘をついているバロウ。
髪を払うリュミエル。
祈るように手を組むエリス。
――そんな像が、一瞬見えた。
「……」
言葉にならない何かが胸に込み上げた。
悲しみでも、懐かしさでもない。
ただ――愛おしさ。
「なぁ、みんな」
焚き火に向かって言う。
「俺はきっと、このまま“完全に人外”になる。
顔も、声も、骨も、全部人間じゃなくなる。
言葉だけが人間のままで、
中身は全部、森と火と血と狂気になる」
四つの影は、否定しなかった。
「そうだろうね」
「そうなるね」
「そうなった方がいい」
「そうなってほしい」
「でも――」
そこで一度言葉を切る。
「それでも、お前たちを“仲間”って呼ぶことは――やめないと思う」
それだけは、確信を持って言えた。
◆
火の前で、指を動かす。
指の骨がもう“人の長さ”ではない。
指先からは、淡い光が漏れている。
関節の数も、動きの幅も、完全に人のそれから逸脱していた。
握って、開いて、掌を見つめる。
「アルス」
リュミエルが静かに問う。
「自分の変化が、まだ“楽しい”?」
「楽しいよ」
即答だった。
「俺は俺のままじゃ弱かった。
世界に負けて、仲間を守れず、何も変えられなかった。
だから――変わっていくたびに、少しずつ取り返してる気がする」
「何を?」
エリスが首を傾げる。
「全部」
焚き火を見ながら答える。
「お前たちの死も、王都の崩壊も、世界の理不尽も。
“あの日の俺”がただ見ていることしかできなかった全部を――
今、ゆっくりと奪い返してる」
ゆっくり。
確実に。
世界が崩れ、森が肥え、焚き火が燃えるたびに。
◆
「アルス」
カインが真っ直ぐに問う。
「お前が最終的に願う未来は、変わってないか?」
変わっていない。
はっきりと言える。
「変わってない」
俺は微笑む。
「俺が願う未来は――
“この森で、みんなと、焚き火を囲んだまま、世界が狂い切るのを見届けること”だ」
それ以上も、それ以下も、望まない。
「世界の全部が狂って、
外の理屈が全部崩れて、
この森だけが残って――
最後に、ここだけが“世界”って呼ばれるようになれば、それでいい」
それが、
その悪魔が願う未来の形だった。
◆
火が、ぱちりと弾けた。
森の奥で、また何かが沈む音がした。
世界のどこかで、今日も誰かが“物語の終わり”を迎えたのだろう。
もう、どうでもいい。
ここ以外の物語は、全部“外側”だ。
俺たちの焚き火の光が届かない場所で、
勝手に始まり、勝手に終わっていくだけの、薄っぺらい夢。
本物の物語は、ここにある。
アルスという人間が壊れ、
悪魔になりきれず、
人でも魔でもない何かに変わっていく――
その過程こそが、この世界の“真ん中”になり始めていた。
◆
「アルス」
エリスが最後に、そっと囁く。
「ねぇ、もうひとつだけ、願ってもいい?」
「何だ」
「私たちが、完全に“世界の一部”になったあとも――
毎晩、こうやって焚き火を囲んでくれる?」
そんなの、答えるまでもなかった。
「もちろんだ」
焚き火の熱を頬に感じながら、穏やかに笑う。
「俺がこのまま、どれだけ人外に堕ちようが――
“これ”だけは続ける」
火を囲み、
仲間と喋り、
狂った世界を眺める。
それが俺の“日常”だ。
日常を続けることこそが、
世界に対する、最大の反逆だった。
そして同時に――
俺自身への、最高の救いでもあった。
森が、静かに息を吐いた。
ここはもう、ただの森ではない。
世界がちぎれて沈んでいくたびに濃くなっていく、
ひとりの悪魔が願った未来の器だった。
その器の底で、俺は焚き火を見つめていた。
――まだ、狂い切ってはいない。
だからこそ、明日もまた、続きがある。
狂気と幸福の続きを、
この森で紡いでいく。
俺が、世界を壊し終えるその日まで。
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