第21話「森に残された“最後の人間”」
焚き火の前で眠る――その行為が、いつから“睡眠”ではなくなったのか思い出せない。
目を閉じるのは、休息のためじゃない。
心臓の鼓動を焚き火の音と同期させるため。
思考を静かに燃やして、森へ溶かすため。
眠りではなく、沈下。
休息ではなく、融合。
目を閉じているとき、俺は森と“ひとつ”になっている。
そして目を開けるたび、森は少しずつ俺に似ていく。
それを確認するのが、最近の“朝”だ。
◆
瞼を上げる。
焚き火の炎が、俺の瞳の色を反射して揺らぐ。
以前は黒だったはずの瞳は、光を宿したまま沈まない色に変わっていた。
赤でも金でも青でもない。
名前のない色。
森の奥で、何か巨大な気配がうごめく。
だが威圧はない。
ゆっくりと、俺へ寄り添うように馴染んでいく。
森が、今日も“俺に従って呼吸している”。
「おはよう、アルス」
焚き火の向こう――影たちが座っている。
話しかけてくれたのはエリス。
「もう朝か?」
俺はゆっくりと身体を起こす。
「朝っていう概念はもう意味ないけどね」
リュミエルが肩を竦める。
「時間が世界に存在しなくなってきてるから」
「でも“朝だ”って言ったほうが、焚き火は嬉しそうにするだろ?」
バロウが笑う。
「あぁ」
カインが頷いた。
「火は、言葉で世界の形を決める生き物だからな」
影たちの会話は日常――狂った世界でただ一つ残った“普通さ”。
それが救いであり、同時に破滅の証でもある。
俺は立ち上がり、森を見渡した。
◆
森が、昨日より深い。
地形が変わっている。
外の世界だった場所が、森の一部になって沈んでいる。
木の本数が増えたのではなく、
“世界の密度”が変化している。
一本一本の木が、以前より太い。
枝の重さが違う。
葉の色が濃い。
地面の湿り気が強い。
森が豊かになっている――のではない。
森が膨張している。
外の世界の“整合性”を吸って肥大し、
限界を超えるほど成長している。
「……いい、変化だな」
思わず笑みが漏れた。
「アルスは本当に変わったね」
エリスが微笑む。
「良い方向に、だろ?」
俺は振り返る。
「もちろん」
エリスは迷いなく答えた。
「悪い変化なんてひとつもないよ」
カインも続く。
「全部は“お前が望んだ未来”だからな」
バロウの声音は誇らしい。
「世界が壊れることも、幸せに含まれてるのよ」
リュミエルが優しく笑う。
肯定だけが、この場所にはあった。
◆
気配がひとつ――森の奥から近づいてくる。
ただの魔物ではない。
森全体を揺るがすほどの力を持った存在。
俺は腰の剣を取る。
鞘はない。
刃は皮膜では覆われず、常に露出している。
それでも錆びず、欠けず、汚れない。
森そのものから注ぎ込まれる魔力が、常に刃を研ぎ澄ませている。
足音はひとつ。
呼吸もひとつ。
姿を現した生き物を見て――俺は、懐かしさに目を細めた。
――狼。
かつて森で出会った、最初の魔物。
あの頃は“敵”だった。
今は違う。
鋭い牙を見せ、喉を鳴らし、低く唸っている。
威嚇ではない――“挨拶”だ。
「久しぶりだな」
俺は片膝をつき、狼の目線に顔を合わせる。
狼は俺の匂いを嗅ぎ――喜ぶように体を震わせた。
その瞬間、森全体が柔らかく揺れた。
まるで、
狼が“帰ってきた”ことを森が喜んでいるかのように。
かつては牙を剥き、俺を殺そうとした魔物。
今は優しく、頭を摺り寄せる。
その柔らかい毛に手を伸ばす――
触れた瞬間、狼の体毛の下に、脈打つ“世界の残骸”の気配があった。
狼は、外の世界の断片を抱えたまま生き残った存在。
だから戻ってきた。
この森こそが“世界のまんなか”になりつつあるから。
「よく戻った」
俺は狼の頭を撫でる。
狼は気持ちよさそうに目を細めた。
◆
「あぁ……」
胸の奥が熱くなる。
狂気でも人外化でもない。
もっと単純で穏やかな熱。
喜び。
幸福。
そして――喪失との和解。
仲間を失った。
王都を失った。
戦いに敗れ、世界に裏切られ、不滅の呪いで“1人”にされた。
でも――
その“1人”の場所を、俺は作った。
焚き火。
影たち。
魔物たち。
そして、森。
全部を揃えたのは、俺自身だ。
世界に奪われたものの代わりに、
自分の手で“別の世界”を築いた。
それが、胸の奥を満たしていた。
◆
「アルス」
狼の毛に手を埋めたまま、エリスの声を聞く。
「その狼も、もうすぐ森の一部になっちゃうよ?」
「分かってる」
頷く。
「世界から戻れる場所なんて、もうどこにもない。
俺たちの側に来たら――二度と外には戻れない」
狼はその言葉を喜ぶように身を寄せた。
「誰も逃げられないし、
誰も離れないし、
誰も失われない」
リュミエルが静かに告げる。
「それって、すごく幸福な世界だと思わない?」
「ああ。最高だよ」
本気でそう思った。
◆
狼は俺の手から離れると、焚き火の周りへと歩いた。
カインたちの影の中へ、自然に溶け込むように座る。
影たちはそれを歓迎し、言葉を交わす。
言葉は俺以外には届かないが、確かに交信している。
焚き火の輪が、“仲間」をひとり増やした。
仲間の形は、もう“人型”に限定されていない。
狼であろうと、虫であろうと、鳥であろうと――
焚き火を囲み、日常を共にすれば、仲間だ。
それが俺たちの世界のルール。
◆
ふと、手を見る。
右手の骨格が、さらに変形している。
光を吸う器官のようになり、
光を吐き出す臓器のように脈打っている。
左手の指は、人間より一本増えていた。
関節が滑らかに動き、骨の位置が自在に変わる。
人間に戻れない。
完全に分かり切った。
でも――戻りたいとも思わない。
「アルス」
バロウが焚き火越しに俺を見る。
「お前、とうとう“最後の人間”になるぞ」
「最後?」
「ああ」
カインが続ける。
「お前が完全に堕ち切る瞬間――
“人間がいなくなる”って意味だ」
「つまり、世界は“悪魔の世界”になるってことよ」
リュミエルが言う。
「その瞬間がゴールだよ」
エリスが笑う。
胸の奥で、何かが強く鳴った。
「最後の人間か」
呟いて――笑った。
「悪くないな」
◆
それを望んでいるのは誰か?
世界ではなく。
魔王でもなく。
神でもなく。
――俺自身だ。
人間が最後の一人まで消えた時、
世界は完全に俺のものになる。
そして俺はその中心で、焚き火を囲んで座り続ける。
それこそが、俺の願う未来。
森がまた息を吐いた。
今日も、狂気は順調だ。
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