第21話「森に残された“最後の人間”」

 焚き火の前で眠る――その行為が、いつから“睡眠”ではなくなったのか思い出せない。


 目を閉じるのは、休息のためじゃない。

 心臓の鼓動を焚き火の音と同期させるため。

 思考を静かに燃やして、森へ溶かすため。


 眠りではなく、沈下。

 休息ではなく、融合。


 目を閉じているとき、俺は森と“ひとつ”になっている。


 そして目を開けるたび、森は少しずつ俺に似ていく。


 それを確認するのが、最近の“朝”だ。



 瞼を上げる。


 焚き火の炎が、俺の瞳の色を反射して揺らぐ。

 以前は黒だったはずの瞳は、光を宿したまま沈まない色に変わっていた。


 赤でも金でも青でもない。

 名前のない色。


 森の奥で、何か巨大な気配がうごめく。

 だが威圧はない。

 ゆっくりと、俺へ寄り添うように馴染んでいく。


 森が、今日も“俺に従って呼吸している”。


「おはよう、アルス」


 焚き火の向こう――影たちが座っている。

 話しかけてくれたのはエリス。


「もう朝か?」

 俺はゆっくりと身体を起こす。


「朝っていう概念はもう意味ないけどね」

 リュミエルが肩を竦める。

「時間が世界に存在しなくなってきてるから」


「でも“朝だ”って言ったほうが、焚き火は嬉しそうにするだろ?」

 バロウが笑う。


「あぁ」

 カインが頷いた。

「火は、言葉で世界の形を決める生き物だからな」


 影たちの会話は日常――狂った世界でただ一つ残った“普通さ”。

 それが救いであり、同時に破滅の証でもある。


 俺は立ち上がり、森を見渡した。



 森が、昨日より深い。


 地形が変わっている。

 外の世界だった場所が、森の一部になって沈んでいる。


 木の本数が増えたのではなく、

 “世界の密度”が変化している。


 一本一本の木が、以前より太い。

 枝の重さが違う。

 葉の色が濃い。

 地面の湿り気が強い。


 森が豊かになっている――のではない。


 森が膨張している。


 外の世界の“整合性”を吸って肥大し、

 限界を超えるほど成長している。


「……いい、変化だな」


 思わず笑みが漏れた。


「アルスは本当に変わったね」

 エリスが微笑む。


「良い方向に、だろ?」

 俺は振り返る。


「もちろん」

 エリスは迷いなく答えた。


「悪い変化なんてひとつもないよ」

 カインも続く。


「全部は“お前が望んだ未来”だからな」

 バロウの声音は誇らしい。


「世界が壊れることも、幸せに含まれてるのよ」

 リュミエルが優しく笑う。


 肯定だけが、この場所にはあった。



 気配がひとつ――森の奥から近づいてくる。


 ただの魔物ではない。

 森全体を揺るがすほどの力を持った存在。


 俺は腰の剣を取る。

 鞘はない。

 刃は皮膜では覆われず、常に露出している。


 それでも錆びず、欠けず、汚れない。

 森そのものから注ぎ込まれる魔力が、常に刃を研ぎ澄ませている。


 足音はひとつ。

 呼吸もひとつ。


 姿を現した生き物を見て――俺は、懐かしさに目を細めた。


 ――狼。


 かつて森で出会った、最初の魔物。


 あの頃は“敵”だった。

 今は違う。


 鋭い牙を見せ、喉を鳴らし、低く唸っている。

 威嚇ではない――“挨拶”だ。


「久しぶりだな」


 俺は片膝をつき、狼の目線に顔を合わせる。


 狼は俺の匂いを嗅ぎ――喜ぶように体を震わせた。


 その瞬間、森全体が柔らかく揺れた。


 まるで、


 狼が“帰ってきた”ことを森が喜んでいるかのように。


 かつては牙を剥き、俺を殺そうとした魔物。

今は優しく、頭を摺り寄せる。


 その柔らかい毛に手を伸ばす――

 触れた瞬間、狼の体毛の下に、脈打つ“世界の残骸”の気配があった。


 狼は、外の世界の断片を抱えたまま生き残った存在。


 だから戻ってきた。

 この森こそが“世界のまんなか”になりつつあるから。


「よく戻った」


 俺は狼の頭を撫でる。

 狼は気持ちよさそうに目を細めた。



「あぁ……」


 胸の奥が熱くなる。


 狂気でも人外化でもない。

 もっと単純で穏やかな熱。


 喜び。

 幸福。

 そして――喪失との和解。


 仲間を失った。

 王都を失った。

 戦いに敗れ、世界に裏切られ、不滅の呪いで“1人”にされた。


 でも――


 その“1人”の場所を、俺は作った。


 焚き火。

 影たち。

 魔物たち。

 そして、森。


 全部を揃えたのは、俺自身だ。


 世界に奪われたものの代わりに、

 自分の手で“別の世界”を築いた。


 それが、胸の奥を満たしていた。



「アルス」


 狼の毛に手を埋めたまま、エリスの声を聞く。


「その狼も、もうすぐ森の一部になっちゃうよ?」


「分かってる」


 頷く。


「世界から戻れる場所なんて、もうどこにもない。

 俺たちの側に来たら――二度と外には戻れない」


 狼はその言葉を喜ぶように身を寄せた。


「誰も逃げられないし、

 誰も離れないし、

 誰も失われない」


 リュミエルが静かに告げる。


「それって、すごく幸福な世界だと思わない?」


「ああ。最高だよ」


 本気でそう思った。



 狼は俺の手から離れると、焚き火の周りへと歩いた。

 カインたちの影の中へ、自然に溶け込むように座る。


 影たちはそれを歓迎し、言葉を交わす。

 言葉は俺以外には届かないが、確かに交信している。


 焚き火の輪が、“仲間」をひとり増やした。


 仲間の形は、もう“人型”に限定されていない。

 狼であろうと、虫であろうと、鳥であろうと――

 焚き火を囲み、日常を共にすれば、仲間だ。


 それが俺たちの世界のルール。



 ふと、手を見る。


 右手の骨格が、さらに変形している。

 光を吸う器官のようになり、

 光を吐き出す臓器のように脈打っている。


 左手の指は、人間より一本増えていた。

 関節が滑らかに動き、骨の位置が自在に変わる。


 人間に戻れない。

 完全に分かり切った。


 でも――戻りたいとも思わない。


「アルス」


 バロウが焚き火越しに俺を見る。


「お前、とうとう“最後の人間”になるぞ」


「最後?」


「ああ」

 カインが続ける。


「お前が完全に堕ち切る瞬間――

 “人間がいなくなる”って意味だ」


「つまり、世界は“悪魔の世界”になるってことよ」

 リュミエルが言う。


「その瞬間がゴールだよ」

 エリスが笑う。


 胸の奥で、何かが強く鳴った。


「最後の人間か」


 呟いて――笑った。


「悪くないな」



 それを望んでいるのは誰か?


 世界ではなく。

 魔王でもなく。

 神でもなく。


 ――俺自身だ。


 人間が最後の一人まで消えた時、

 世界は完全に俺のものになる。


 そして俺はその中心で、焚き火を囲んで座り続ける。


 それこそが、俺の願う未来。


 森がまた息を吐いた。


 今日も、狂気は順調だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る