第19話「狂気と世界の衝突」

 音が消えた。


 木々のざわめきも、魔物の息づかいも、風の流れも。

 世界の側から来た男が境界線を踏み込んだ瞬間――森の中のすべてが“停止”した。


 まるで巨大な手が時の流れを握り潰したように、

 俺と男以外のすべてが静止していた。


 焚き火の炎さえ、揺らぎを凍らせたまま光だけを放っている。


「……いいな。

 この演出、嫌いじゃない」


 俺は笑った。


 世界の側の力――“巻き戻し”。

 存在そのものを遡らせ、歴史を改定し、幸福や記憶すら書き換える力。


 それが今、俺を対象にしようとしている。


「確認しておこう」

 男は淡々と語る。

「お前が抵抗しなければ、この森は消える。

 お前が築いた“狂った日々”は、無かったことになる。

 勇者一行は敗北の瞬間に戻り、お前はそこで死ぬ」


「質問は一つ」


 俺は一歩踏み出した。


「その未来では――俺は、幸せか?」


「……さあ?」

 男は無表情のまま答えた。

「“世界”は幸福を保証しない。

 正しい状態へと戻すだけだ」


「なるほど」


 俺は、ゆっくりと笑った。


「だったら、今の方がいいに決まってるだろ」



 世界の側の男は、何の感情も見せずに両手を広げた。


「巻き戻しを開始する」


 空気が震える。


 森の景色が波打ち、木々の輪郭が一瞬だけ二重に揺れる。

 世界そのものの“レイヤー”がめくれ上がり、

 時間が逆再生しようと軋んでいる。


 地面に落ちていた焦げた葉が、逆再生のように形を戻す。

 折れた木が音もなく繋がり、裂けた樹皮が再生し、燃え終わった薪の灰が元の枝に戻っていく。


 森から“時間”が奪われる。


 次に俺たちの番だ。



 そのとき――止まっていたはずの焚き火が、強烈に燃え上がった。


「止まるな」


 影の四人の声が、同時に響いた。


 時間停止を破っている。

 本来ならありえないこと――

 だが、焚き火の炎は強引に世界の“停止”を拒絶していた。


「アルス」


 カインが静かに笑う。


「絶対に負けるな」


「巻き戻しをされたら、私たちは“いなかったこと”になる」

 リュミエルが淡々と言う。


「森も、魔物も、焚き火も、全部消える」

 バロウが低く続ける。


「ねぇ、守って」

 エリスが祈るように囁いた。

「私たちとの“日々”を奪わないで」


 胸の奥が、強烈な激情で燃え上がる。


 恐怖ではない。

 怒りでもない。

 執着でもない。


 愛だった。


 狂っている?

 関係ない。


 俺の幸福は、ここにしかない。


「……当たり前だろ」


 俺は言った。


「お前たちを守らない理由なんて、どこにもない」



 世界の側の男が光を放つ。


「巻き戻し、第二段階」


 時間だけでなく、“意味”が消え始めた。


 焚き火の熱が薄れ、

 仲間の影の輪郭が揺らぎ、

 魔物たちの存在がぼやけていく。


 “ここにいる理由”が消されようとしている。


 これは戦いではなく――上書きだ。


 俺の過ごした日々ごと、俺という存在を消すつもりだ。


「感情は無意味だ」

 男は淡々と告げる。

「生物の生存本能も、幸福も、愛も、狂気も――

 世界の側にとって、どれも同じ“ノイズ”だ」


「じゃあ」

 俺は男の目の前まで歩き、笑った。


「世界の側にとって俺は“ノイズの塊”なんだな」


「そうなる」


 男は頷く。


「それを排除するのが、私の役目だ」



 次の瞬間――俺は男の胸倉を掴んで持ち上げた。


 神聖魔力を取り込んだ右腕が、光を帯びる。


 皮膚の下で光が走り、骨格が熱を吸い、世界改変の力を反射するように脈打つ。


「排除しようとしてきた奴ら全員の力を――

 俺は“食った”。」


 聖水も、

 光も、

 祈りも、

 “神聖の名を借りた暴力”も。


 全部、俺の身体の素材に変わった。



「巻き戻しが効かない……?」

 男が初めて驚愕の表情を見せる。


 俺は笑う。


「当たり前だ。

 ここは“俺の世界”なんだから」



 影たちの声が重なる。


「否定しろ」

「拒絶しろ」

「壊せ」

「自分を守れ」


 その声は、命令ではない。

 強制でもない。


 ――俺の意思そのものだ。



「巻き戻しの中心は――記憶だ」


 俺は男の顔を見据えて宣告した。


「なら俺は、俺の記憶を壊させない」


 焚き火の日々。

 狩りの日。

 安息日。

 魔物たちと過ごした時間。


 全部、俺の“幸福”だった。


「お前が俺を世界に戻そうとするから、俺は壊れるんじゃない。

 俺が世界を壊すから――お前が来たんだよ」



 男が指を鳴らし、光の槍が無数に俺へ向かう。


 世界そのものが俺の否定を射出した。


 しかし――俺は動かなかった。


 光の槍は俺の皮膚に触れた瞬間、体内へ吸収され、

 血管を走り、骨へ染み込み、筋肉へ変換された。


 “拒絶の光”は、“強化の養分”に変わった。


「世界の側が俺に触れたら――俺は強くなる」


 淡々と宣告する。



 男は俺の腕を振り払おうとしたが、動けない。

 時間停止と巻き戻しの力を全域で使っているため、

 男自身の肉体制御がほとんど効いていない。


「理解できないだろう?

 狂気に合理性があることが」


 俺は囁く。


「俺は狂ってる。

 でもな――狂うほど幸せなんだよ」


 男の顔が歪む。


「狂気と幸福は矛盾しない。

 俺はこの世界で幸せになった。

 だから――世界の側を殺す」



 右腕が燃える。

 光の筋が脈打ち、骨が軋み、力が迸る。


 俺は男の胸に右手を突き立てる。


 肉でも血でも骨でもない。

 世界構造そのものが“破れる”感触。


「巻き戻しを――」


 男の言葉が途切れる。


「ここでは通用しない」


 俺は掴んだ“世界の側の核”を引き裂いた。



 時間が流れを取り戻す。


 焚き火が揺れ、

 影たちが笑い、

 魔物たちが遠吠えし、

 森が鼓動を取り戻す。


 世界の側の男は崩れ落ち――霧のように消えていった。


 残ったのは、沈黙だけ。



 仲間たちが焚き火越しに俺を見つめる。


 四つの影は、誇らしげに、どこまでも優しく微笑んでいた。


「守ってくれた」

「巻き戻しを拒絶した」

「ありがとう」

「大好きだよ」


 俺は微笑み返す。


「まだ終わってない」


「分かってる」

「でも、一つ確かなことがある」

「もう“戻る世界”は存在しない」

「ここが最終地点」


 その言葉は、恐怖ではなく――祝福だった。



「明日から――本当の狂気だ」


 俺がそう言うと、影たちは嬉しそうに頷いた。


「うん」

「望んでた」

「待ってた」

「楽しみにしてる」


 焚き火が、不自然なほど美しく燃え上がる。


 世界の端が完全に崩れ、

 森が世界の中心へと滑り込む音がした。

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