第19話「狂気と世界の衝突」
音が消えた。
木々のざわめきも、魔物の息づかいも、風の流れも。
世界の側から来た男が境界線を踏み込んだ瞬間――森の中のすべてが“停止”した。
まるで巨大な手が時の流れを握り潰したように、
俺と男以外のすべてが静止していた。
焚き火の炎さえ、揺らぎを凍らせたまま光だけを放っている。
「……いいな。
この演出、嫌いじゃない」
俺は笑った。
世界の側の力――“巻き戻し”。
存在そのものを遡らせ、歴史を改定し、幸福や記憶すら書き換える力。
それが今、俺を対象にしようとしている。
「確認しておこう」
男は淡々と語る。
「お前が抵抗しなければ、この森は消える。
お前が築いた“狂った日々”は、無かったことになる。
勇者一行は敗北の瞬間に戻り、お前はそこで死ぬ」
「質問は一つ」
俺は一歩踏み出した。
「その未来では――俺は、幸せか?」
「……さあ?」
男は無表情のまま答えた。
「“世界”は幸福を保証しない。
正しい状態へと戻すだけだ」
「なるほど」
俺は、ゆっくりと笑った。
「だったら、今の方がいいに決まってるだろ」
◆
世界の側の男は、何の感情も見せずに両手を広げた。
「巻き戻しを開始する」
空気が震える。
森の景色が波打ち、木々の輪郭が一瞬だけ二重に揺れる。
世界そのものの“レイヤー”がめくれ上がり、
時間が逆再生しようと軋んでいる。
地面に落ちていた焦げた葉が、逆再生のように形を戻す。
折れた木が音もなく繋がり、裂けた樹皮が再生し、燃え終わった薪の灰が元の枝に戻っていく。
森から“時間”が奪われる。
次に俺たちの番だ。
◆
そのとき――止まっていたはずの焚き火が、強烈に燃え上がった。
「止まるな」
影の四人の声が、同時に響いた。
時間停止を破っている。
本来ならありえないこと――
だが、焚き火の炎は強引に世界の“停止”を拒絶していた。
「アルス」
カインが静かに笑う。
「絶対に負けるな」
「巻き戻しをされたら、私たちは“いなかったこと”になる」
リュミエルが淡々と言う。
「森も、魔物も、焚き火も、全部消える」
バロウが低く続ける。
「ねぇ、守って」
エリスが祈るように囁いた。
「私たちとの“日々”を奪わないで」
胸の奥が、強烈な激情で燃え上がる。
恐怖ではない。
怒りでもない。
執着でもない。
愛だった。
狂っている?
関係ない。
俺の幸福は、ここにしかない。
「……当たり前だろ」
俺は言った。
「お前たちを守らない理由なんて、どこにもない」
◆
世界の側の男が光を放つ。
「巻き戻し、第二段階」
時間だけでなく、“意味”が消え始めた。
焚き火の熱が薄れ、
仲間の影の輪郭が揺らぎ、
魔物たちの存在がぼやけていく。
“ここにいる理由”が消されようとしている。
これは戦いではなく――上書きだ。
俺の過ごした日々ごと、俺という存在を消すつもりだ。
「感情は無意味だ」
男は淡々と告げる。
「生物の生存本能も、幸福も、愛も、狂気も――
世界の側にとって、どれも同じ“ノイズ”だ」
「じゃあ」
俺は男の目の前まで歩き、笑った。
「世界の側にとって俺は“ノイズの塊”なんだな」
「そうなる」
男は頷く。
「それを排除するのが、私の役目だ」
◆
次の瞬間――俺は男の胸倉を掴んで持ち上げた。
神聖魔力を取り込んだ右腕が、光を帯びる。
皮膚の下で光が走り、骨格が熱を吸い、世界改変の力を反射するように脈打つ。
「排除しようとしてきた奴ら全員の力を――
俺は“食った”。」
聖水も、
光も、
祈りも、
“神聖の名を借りた暴力”も。
全部、俺の身体の素材に変わった。
◆
「巻き戻しが効かない……?」
男が初めて驚愕の表情を見せる。
俺は笑う。
「当たり前だ。
ここは“俺の世界”なんだから」
◆
影たちの声が重なる。
「否定しろ」
「拒絶しろ」
「壊せ」
「自分を守れ」
その声は、命令ではない。
強制でもない。
――俺の意思そのものだ。
◆
「巻き戻しの中心は――記憶だ」
俺は男の顔を見据えて宣告した。
「なら俺は、俺の記憶を壊させない」
焚き火の日々。
狩りの日。
安息日。
魔物たちと過ごした時間。
全部、俺の“幸福”だった。
「お前が俺を世界に戻そうとするから、俺は壊れるんじゃない。
俺が世界を壊すから――お前が来たんだよ」
◆
男が指を鳴らし、光の槍が無数に俺へ向かう。
世界そのものが俺の否定を射出した。
しかし――俺は動かなかった。
光の槍は俺の皮膚に触れた瞬間、体内へ吸収され、
血管を走り、骨へ染み込み、筋肉へ変換された。
“拒絶の光”は、“強化の養分”に変わった。
「世界の側が俺に触れたら――俺は強くなる」
淡々と宣告する。
◆
男は俺の腕を振り払おうとしたが、動けない。
時間停止と巻き戻しの力を全域で使っているため、
男自身の肉体制御がほとんど効いていない。
「理解できないだろう?
狂気に合理性があることが」
俺は囁く。
「俺は狂ってる。
でもな――狂うほど幸せなんだよ」
男の顔が歪む。
「狂気と幸福は矛盾しない。
俺はこの世界で幸せになった。
だから――世界の側を殺す」
◆
右腕が燃える。
光の筋が脈打ち、骨が軋み、力が迸る。
俺は男の胸に右手を突き立てる。
肉でも血でも骨でもない。
世界構造そのものが“破れる”感触。
「巻き戻しを――」
男の言葉が途切れる。
「ここでは通用しない」
俺は掴んだ“世界の側の核”を引き裂いた。
◆
時間が流れを取り戻す。
焚き火が揺れ、
影たちが笑い、
魔物たちが遠吠えし、
森が鼓動を取り戻す。
世界の側の男は崩れ落ち――霧のように消えていった。
残ったのは、沈黙だけ。
◆
仲間たちが焚き火越しに俺を見つめる。
四つの影は、誇らしげに、どこまでも優しく微笑んでいた。
「守ってくれた」
「巻き戻しを拒絶した」
「ありがとう」
「大好きだよ」
俺は微笑み返す。
「まだ終わってない」
「分かってる」
「でも、一つ確かなことがある」
「もう“戻る世界”は存在しない」
「ここが最終地点」
その言葉は、恐怖ではなく――祝福だった。
◆
「明日から――本当の狂気だ」
俺がそう言うと、影たちは嬉しそうに頷いた。
「うん」
「望んでた」
「待ってた」
「楽しみにしてる」
焚き火が、不自然なほど美しく燃え上がる。
世界の端が完全に崩れ、
森が世界の中心へと滑り込む音がした。
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