第6話「舞踏する剣戟、食欲の鼓動」
息を吸う。
腐葉土の臭いと、湿った森の匂いと、血の鉄の香りが鼻腔を満たす。
足音は一つ。
獣の四足歩行特有の重さが混じっている。
背丈は大きい。
体長は――五メートル以上。
「来たな」
口元には薄い笑み。
戦闘前に浮かべるような緊張ではなく、待ち侘びた再会のような緩さ。
木々の隙間から姿を現したのは、
角の生えた巨大な狼の魔物。
牙一本で人間の兵士を五人同時に噛み砕くと言われる存在。
黒鉄狼は俺を見るなり身を低くし、殺気を放つ。
その気配は鋭利な刃のように空気を裂いた。
獲物を仕留める前の捕食者の視線――
本来なら恐怖で足がすくむはずだ。
しかし俺は、穏やかな声音で答える。
「よかった。君みたいなやつを待ってたんだ」
黒鉄狼が咆哮をあげた瞬間、地面が爆ぜるように砕け、質量の塊が迫る。
普通の人間なら、目で捉えることさえできない速さ。
だが俺は――見えた。
思考が飛躍し、脳が痺れ、瞳孔が開く。
時間がゆっくり流れる。
「美しいなぁ」
心底の感想が、ぽつりと零れた。
◆
衝突する寸前で、俺は身を捻って横へ滑った。
靭帯が伸びる感覚も、骨が軋む音も、すべて快楽に変換される。
黒鉄狼の牙が空を裂き、空気が悲鳴を上げる。
俺はその首筋へ手を伸ばし、優しく撫でるように短剣を滑らせた。
シュッ。
それだけで、皮膚の奥の血管が露出した。
黒鉄狼が痛みに吠える。肉と血が散り、森の地面を染める。
「いい反応だ。嬉しいよ」
冷静な声。
嬉しそうな顔。
だが、言っている内容が人間ではない。
◆
黒鉄狼はすぐに反撃した。
爪が土を抉り、木々をへし折りながら俺に迫る。
「もっと強く。もっと速く。もっと全力で来いよ」
挑発でも虚勢でもない。
ただの“期待”だ。
黒鉄狼の一撃が俺の胸を裂いた。
血飛沫が散る。
肉が裂け、肋骨がきしむ。
だが――俺は笑ったままだ。
「そう。それでいい」
短剣を逆手に握り、黒鉄狼の懐へ潜り込む。
そこから先の動きは――舞だった。
一歩踏み込み、体を回転させ、
喉、腹、顎、肩、四肢――要所だけを連続して切り裂く。
斬撃ではなく、解体手順。
殺すための動きではなく、味を損なわずに狩るための動き。
黒鉄狼の血が雨のように降り注ぎ、俺の身体を濡らす。
視界が赤く染まる。
その赤が、焚き火の色と同じに見えた。
「やっぱり……戦闘って楽しいなぁ」
理性的な声で、あまりにも狂った感想を漏らしながら。
◆
黒鉄狼はついに動きを止める。
呼吸が荒く、血が止まらず、限界寸前。
俺は首元に手を添えた。
「最後まで頑張ったな。偉いよ」
優しい声。
慈しむような表情。
だけど――
短剣が喉を深く抉った。
黒鉄狼は一度だけ痙攣し、静かになった。
◆
死体の横に座り、俺は思考する。
「さて……どこが一番美味しいんだろうな」
言葉は普通。
内容は異常。
肉の部位を指先で触れながら、味の想像をしていく。
研究者のような冷静さで、猟犬のような欲望で。
「腹かなぁ? それとも心臓?
いや、今日は気分を変えて足からいこうか」
会話相手は――誰もいない。
だが、まるで誰かと食事の相談をしている空気感。
「そうだよな。うん、同意してくれてありがとう」
焚き火に照らされた目は優しい。
しかしその光は、絶対に人間のものではなかった。
◆
やがて肉を焼き、食べる。
幸福。
高揚。
満足。
味覚、嗅覚、感覚すべてが快楽に変わる。
「人間の世界にいた頃は気づかなかった。
こんなに“正直に生きる”って楽なんだな」
純粋な声で呟く。
「……人間、やめるって気持ちいいなぁ」
嬉しそうに笑う。
楽しそうに笑う。
人間の言語で。
けれど――中身は、もう人間じゃなかった。
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