第6話「舞踏する剣戟、食欲の鼓動」

 息を吸う。

 腐葉土の臭いと、湿った森の匂いと、血の鉄の香りが鼻腔を満たす。


 足音は一つ。

 獣の四足歩行特有の重さが混じっている。

 背丈は大きい。

 体長は――五メートル以上。


「来たな」


 口元には薄い笑み。

 戦闘前に浮かべるような緊張ではなく、待ち侘びた再会のような緩さ。


 木々の隙間から姿を現したのは、黒鉄狼こくてつろう――森の王。

 角の生えた巨大な狼の魔物。

 牙一本で人間の兵士を五人同時に噛み砕くと言われる存在。


 黒鉄狼は俺を見るなり身を低くし、殺気を放つ。

 その気配は鋭利な刃のように空気を裂いた。


 獲物を仕留める前の捕食者の視線――

 本来なら恐怖で足がすくむはずだ。


 しかし俺は、穏やかな声音で答える。


「よかった。君みたいなやつを待ってたんだ」


 黒鉄狼が咆哮をあげた瞬間、地面が爆ぜるように砕け、質量の塊が迫る。


 普通の人間なら、目で捉えることさえできない速さ。


 だが俺は――見えた。


 思考が飛躍し、脳が痺れ、瞳孔が開く。

 時間がゆっくり流れる。


「美しいなぁ」


 心底の感想が、ぽつりと零れた。



 衝突する寸前で、俺は身を捻って横へ滑った。

 靭帯が伸びる感覚も、骨が軋む音も、すべて快楽に変換される。


 黒鉄狼の牙が空を裂き、空気が悲鳴を上げる。

 俺はその首筋へ手を伸ばし、優しく撫でるように短剣を滑らせた。


 シュッ。


 それだけで、皮膚の奥の血管が露出した。

 黒鉄狼が痛みに吠える。肉と血が散り、森の地面を染める。


「いい反応だ。嬉しいよ」


 冷静な声。

 嬉しそうな顔。

 だが、言っている内容が人間ではない。



 黒鉄狼はすぐに反撃した。

 爪が土を抉り、木々をへし折りながら俺に迫る。


「もっと強く。もっと速く。もっと全力で来いよ」


 挑発でも虚勢でもない。

 ただの“期待”だ。


 黒鉄狼の一撃が俺の胸を裂いた。

 血飛沫が散る。

 肉が裂け、肋骨がきしむ。


 だが――俺は笑ったままだ。


「そう。それでいい」


 短剣を逆手に握り、黒鉄狼の懐へ潜り込む。

 そこから先の動きは――舞だった。


 一歩踏み込み、体を回転させ、

 喉、腹、顎、肩、四肢――要所だけを連続して切り裂く。


 斬撃ではなく、解体手順。

 殺すための動きではなく、味を損なわずに狩るための動き。


 黒鉄狼の血が雨のように降り注ぎ、俺の身体を濡らす。

 視界が赤く染まる。

 その赤が、焚き火の色と同じに見えた。


「やっぱり……戦闘って楽しいなぁ」


 理性的な声で、あまりにも狂った感想を漏らしながら。



 黒鉄狼はついに動きを止める。

 呼吸が荒く、血が止まらず、限界寸前。


 俺は首元に手を添えた。


「最後まで頑張ったな。偉いよ」


 優しい声。

 慈しむような表情。

 だけど――


 短剣が喉を深く抉った。


 黒鉄狼は一度だけ痙攣し、静かになった。



 死体の横に座り、俺は思考する。


「さて……どこが一番美味しいんだろうな」


 言葉は普通。

 内容は異常。


 肉の部位を指先で触れながら、味の想像をしていく。

 研究者のような冷静さで、猟犬のような欲望で。


「腹かなぁ? それとも心臓?

 いや、今日は気分を変えて足からいこうか」


 会話相手は――誰もいない。

 だが、まるで誰かと食事の相談をしている空気感。


「そうだよな。うん、同意してくれてありがとう」


 焚き火に照らされた目は優しい。

 しかしその光は、絶対に人間のものではなかった。



 やがて肉を焼き、食べる。


 幸福。

 高揚。

 満足。


 味覚、嗅覚、感覚すべてが快楽に変わる。


「人間の世界にいた頃は気づかなかった。

 こんなに“正直に生きる”って楽なんだな」


 純粋な声で呟く。


「……人間、やめるって気持ちいいなぁ」


 嬉しそうに笑う。

 楽しそうに笑う。

 人間の言語で。


 けれど――中身は、もう人間じゃなかった。

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