第5話「空腹と幸福の境界線」

 焚き火が静かに燃えている。

 その炎の赤は、血の色とよく似ていた。


 森での暮らしに、俺は慣れつつあった。

 寝床は木の根と苔。

 衣服はところどころ破れていて、血と土で汚れている。

 剣は刃こぼれし、短剣は肉を裂きすぎて柄に黒い染みがこびりついた。


 ――けれど、俺の表情は平然としていた。


 森に来て十数日。

 寂しさも、虚しさも、不安も、とうの昔に鈍くなった。

 その代わり、別の感覚が心を満たしていく。


 快感。

 高揚。

 満ち足りた幸福感。


 ……異常だと、頭では知っている。

 だが感情は論理の指示に従わない。



「はぁ……いい匂いだな」


 俺は焼けた肉を見つめていた。


 木の枝に突き刺した肉塊が、炎に照らされて汗のような脂を滴らせている。

 その音、匂い、色、全てが俺の意識を侵食してくる。


 魔物の肉を食べることは禁忌。

 そんなことは誰よりも知っている。

 しかし、食べた時に走る高揚を身体は求めていた。


 俺はひと口、口に運んだ。


「ん……あぁ、最高だ」


 声は落ち着いている。

 まるでワインを味わう貴族のように穏やかだ。

 しかし言っている内容は、狂気のど真ん中だった。


「これを知ったら、普通の肉なんて食えなくなる。

 そう考えると、もしかして俺は……選ばれたのかもしれないな」


 冗談のように聞こえる。

 だが表情に冗談の気配は一切ない。



 不意に、昔食べた王城の宴会料理の味が頭をよぎる。

 勇者カインが肉を独り占めしようとしてバロウに殴られていた光景。

 リュミエルが冷たい目で眺めながら、いつの間にかデザートを半分盗んでいたこと。

 エリスが祈りの言葉を唱えながら肉をモグモグ食べていたこと。


 そんな思い出に、俺はふっと笑う。


「懐かしいなぁ。みんないつも笑ってたよな。

 ほら、覚えてるか? カインが骨付き肉で――」


 そこで言葉が止まった。


 “覚えてるか?”


 誰に向けて言った?


 焚き火の向こうに、仲間たちの影が揺れているように見える。

 幻だ。

 それは理解している。

 けれど――


「いや、聞かなくていいか。

 返事がなくても、わかってるんだ。

 みんなは、ここにいる」


 炎がパチ、と音を立てた。


 その音に合わせて、俺は肉を噛みちぎる。



 満腹感は訪れない。

 代わりに、身体中が冴えるような感覚がある。


 視界が鮮やかになる。

 音が細かく聞こえる。

 魔力の流れが手に取るようにわかる。


 その変化が――心地よかった。


「……人間って、脆いよな」


 ふと、独り言が漏れる。


「仲間が死んで、国が滅んで、それで立ち直れないのが“普通”なんだろう?

 でも俺は……立ち直れちゃった。たぶん」


 声は穏やか。

 しかし言葉は冷たすぎた。


「人間は弱い。

 すぐくじけて、すぐ壊れて、すぐ逃げる。

 本当に価値があるのは、“壊れた後”なんじゃないか?」


 俺は笑った。優しく。


「俺は壊れた。でもな――“壊れてからが本番”なんだよ」


 人間がしない発言。

 人間が言ってはいけない思想。

 それなのに、口調だけは普通の青年のものだった。



 ふと風が吹き、森の奥から気配がした。

 魔物だ。しかも、かなり強い。

 以前の俺なら息を潜めていたはずだ。


 だが今の俺は、立ち上がった。


「ちょうどいい。腹は満たされたけど、味を変えたいところだった」


 笑顔を浮かべながら、剣を手にする。


 恐怖の欠片もない。

 殺意でもない。

 怒りでもない。


 ただ――楽しそう。


「ねぇ。逃げないでくれよ?」


 森に向かって、まるで旧友に呼びかけるように声をかけた。


「俺、まだ“人間の料理”ってやつをもっと味わいたくてさ」


 武器を構える姿は、人間。

 声も、人間。

 表情も、人間。


 だけど――言っている内容が、人間じゃない。


 炎に照らされた瞳は、獣より獰猛で、狂人より穏やかで、

 神より残酷だった。


「さぁ――狩りの時間だ。」

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