応援コメント

♪にーなちえのてつがくまめちしき〜ニーチェ編」への応援コメント

  • 生きる意味というのを探るのは永遠の課題ですね。
    難しいお話でしたが、こういう回があるのは嬉しいです(*^^*)
    哲学を学ぶことの意義が大きいということをニーチェは訴えていたようなものだと捉えればよろしいのでしょうか?

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

     生の無意味さ(有名な永遠回帰の想定ですね)を理解した上で、なおその生を肯定できる人間。これこそがニーチェの提示した理想、『超人』です。

     しかしほとんどの人間(というかほぼすべての人間)にとってそれは困難であり、生の無意味さによる絶望を避けられません。したがって、その絶望を回避する手段として、『消極的に』宗教を評価した、というのがニーチェの立場になります。

     ニーチェが訴えたのは、自らの生と向き合い、既存の価値を疑うこと。それにより、新たな価値を創造することを彼は期待します。
     一方で、哲学を学ぶことが『他者の思想を学ぶこと』であるならば、ニーチェはそれをむしろ批判するように思います。以下『ツァラトゥストラ』からの引用です。


     弟子たちよ、俺はひとりで行く! お前たちも行け、それも一人で! そうしてくれ。
     じっさい、忠告しておくが、さっさと俺から離れろ! 俺に抵抗しろ! いや、もっといいのはツァラトゥストラのことを恥ずかしいと思え! もしかしたらお前たちは欺かれたのかもしれないのだ。
     認識する人間は、自分の敵を愛するだけでなく、自分の友を憎むこともできなくてはならん。
    (中略)
     ツァラトゥストラを信じているのです、と言うのか? だがツァラトゥストラに何の価値がある? お前たちは俺の信者だ。だが信者に何の価値がある?
    (後略)
    【ニーチェ,岡沢静也訳,2010『ツァラトゥストラ(上)』「プレゼントする徳について3」光文社】


     ニーチェは、彼の信仰者に対しても、その盲信を咎めるわけです。
     優れた思想に触れた時、無意識に自分と重ねてしまうのは(それが自分好みの哲学であるほどに)よくあることですが、だからこそ常に客観的かつ批判的な視点で物事を捉えることは忘れないようにしたいなぁと思います。