第十九章 乳清の生成を実践します
ホエーづくりといっても、実はやること自体は単純だ。
まず、釜戸に火をつけたら備えつけられている大鍋に牛乳を入れ、底が焦げつかないようにゆっくりと混ぜながら温める。
温度の目安は鍋の縁にふつふつと泡が出てくるくらいだ。沸騰させる必要はない。
牛乳を見守る役目をソフィアに任せると、その間に今度はレモン果汁の準備をする。
買ってきた大量のレモンをラシェルとシエラに頼んで二つに切ってもらうと、ボウルの上でくるみ割り器を使いながら次々に絞っていく。
包丁もくるみ割り器も一つしかないので、ラシェルが包丁でレモンに切れ目を入れる係、シエラがそれを手で二つに割る係、そして俺が絞る係という分業体制だ。
「包丁よりもラシェルの短剣のほうが切れ味いいんじゃないか?」
「いやよ。錆びたらどうすんのよ」
シエラの提案に、ラシェルが露骨に難色を示す。
彼女の言う通り、酸性であるレモンの果汁は鉄や鋼に対して腐食の原因となり得る。
クエン酸が含まれるので、かつて俺のいた世界でいうステンレス製品の錆とりに使われることもあるが、俺が知るかぎりこの世界にステンレスのような生成に高度な技術が必要となる合金は存在していなかったはずだ。
もっとも、ウーツ鋼だって錆びにくいことで有名ではある。
そもそもラシェルが短剣の手入れをしているところなど見たことないし、そのわりに切れ味の良さに変化はないわけだから、レモンの果汁ごときで錆びるということはないような気もする。
「うるっさいわね。レモン汁ぶっかけるわよ」
再三の注釈になるが、口には出してないと思う。
「お鍋がいい感じになってきましたぁ……」
眼鏡を曇らせながら、ソフィアが振り返る。
俺は頷き返すと、絞ったレモン果汁の中に混ざった果実のかけらや種子を濾し布で濾して、鍋のもとへと持っていく。
そして、匙を使いながら少しずつ鍋の中へレモン果汁を加えていった。
そのまま十秒ほど煮立てていくと、やがて鍋の中の牛乳が白いフワフワしたものと透明な水分に分離していく。
「おー! すごいな! 魔法を使ったのか!?」
シエラが目を丸くして感嘆の声を上げる。
魔法というよりは、単なる調理である。
とはいえ、これまでラシェルが調理らしい調理をしているところは見たことがないので、そもそもそういった知識の共有がなされていないのかもしれない。
「馬鹿にしないでよね! 料理くらいできるわよ!」
また尻を蹴られた。もはや心を読まれてるとしか思えない。
あと、今のは絶対でまかせだと思う。
俺はラシェルの二発目の蹴りを華麗に避けながら、鍋を釜戸から外してボウルのほうへと持っていった。
ソフィアに頼んで濾し布を広げてもらい、その上にそっと鍋の中身を流し込んでいく。
すると、フワフワの白い塊だけが濾し布の上に残り、透明な液体と完全に分離される形になる。
「これがホエーなんですかぁ……?」
興味深そうにソフィアが白いフワフワを覗き込んだ。
まだ湯気が出るほど熱を持った状態なので、また眼鏡が真っ白に曇っている。
「いや、違う」
俺は首を振った。
「は? じゃあ、これは何なのよ」
訝しむようにラシェルもボウルの中を覗き込んでくる。
俺は濾し布を白い塊がこぼれないよう慎重にソフィアから受けとると、そのまま布の四隅を合わせて残りの水分ゆっくりと絞り出しながら答えた。
「これはチーズだ」
『チーズ?』
三人が目を丸くしながら声を合わせる。
「うむ。カッテージチーズだ。程よい酸味と口溶けの良さが特徴で、サラダに使ったりパンやクラッカーに塗って食べても美味いぞ」
水分を搾り切った濾し布を空いたボウルに広げると、そこにはホロホロになった乳白色の塊が残っていた。
チーズと聞いて抑制が効かなくなったのか、ソフィアが問答無用でボウルに指先を突っ込み、塊をすくいとって口の中に運ぶ。
「おぉ……確かにチーズですぅ……」
さらにもう一口と指先を突っ込もうとするところを、すんでのところでラシェルに制止される。
「で、肝心のホエーはどうなったのよ」
「これだ」
訊いてくるラシェルに、俺はもう一方の透明な液体で満たされたボウルを指し示した。
「え、こっち!?」
「ああ、この水分こそがホエー……乳清だ」
そうだ。ついに俺はホエーを手に入れたのだ。
完全食とも呼ばれる鶏卵による良質なタンパク質と脂質の確保、そして鶏卵だけでは足りないタンパク質をホエーによって補うことで、俺の食生活の土台が完成するのだ。
「そのまま飲むこともできるが、残ったレモン果汁とハチミツを混ぜれば味も良くなるし疲労回復効果も高まる。スープのベースにしたり、パンを練るときに使ってもいい」
俺はさっそく人数分のカップを用意して完成したホエーを注ぎ、買ってきたハチミツとレモン果汁を加えてさっと匙でかき混ぜると、試飲するようみんなに手渡した。
「さっぱりしておいしいですぅ……」
「ジュースみたいだ!」
「確かに、味は悪くないわね」
それぞれ思い思いに感想を述べている。
良かった。俺がかつていた世界で愛用していたプロテインパウダーのシェイクと比較すると単位量におけるタンパク質含有量は劣るだろうが、これで手軽にホエータンパクを摂取することができるようになったわけだ。
「……ん? ちょっと待って」
俺が感動に打ち震えていると、不意にラシェルが声を上げた。
顎に手をあてながら、何か思案するように首を傾げている。
「ふと思ったんだけど、ホエーはチーズを作るときにできるわけよね?」
「そうだ」
「確か、あの牧場でもチーズは作ってたわよね?」
「ああ。この村のチーズも美味いぞ」
ラシェルの目が半眼になる。
ソフィアも何かに気づいたらしい。残念なものを見るような目でこちらを見ていた。
なんだ? 何かおかしなことでも言ったか?
おそらく俺と同様に二人の視線の意味に気づいていないシエラと顔を見合わせながら、俺はラシェルの次の言葉を待った。
「あのさ……」
「あのぅ……」
ラシェルとソフィアが同時に口を開く。
「最初っから牧場でホエーを譲ってもらえば」
「よかったんじゃないですかぁ……?」
俺は絶句した。
まだ状況を理解していないシエラだけが、暢気に尻尾をパタパタとさせていた。
その後、再び牧場に戻ってマリーベルにホエーを譲ってもらえるか聞いてみると、たまにリコッタを作るくらいでほとんどは廃棄しているからただで譲ってくれるとのことだった。
「あんた、変なところで賢いくせに、やっぱりバカよね」
徒労感に打ちひしがれながらホエー入りのミルク缶を運ぶ俺を見ながらそう言うラシェルの顔は、何故かちょっと楽しそうだった。
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