第十七章 ダイエットは順調です

 これほどまでに緊張した目覚めがあるだろうか。


 翌朝、気づいたとき、俺は床の上で寝そべっていた。

 そして、何故か右腕にはラシェルが、左腕にはシエラが抱きついていたのだ。


 どうしてこのような状況になっているのかは分からない。

 たぶん、俺自身は椅子の上でそのまま寝入ってしまったと記憶している。

 それが今は何故か床の上で、両手に花状態だ。

 俺が寝入ってしまったあとに何があったかはこの二人しか知らないのだろうが、敢えてそのまま知らないでいたほうが俺にとっては幸せかもしれない。


 いずれにせよ、これは命がかかった状態と言えるだろう。

 幸いにもラシェル、シエラともに熟睡しているようだったが、下手にどちらか片方でも起こしてしまえば、待っているのは『死』だ。


 というか、俺たち三人が床で寝ているということは、ベッドが一つ使われないままということでもある。せっかくマットを天日干ししたというのに、なんともったいない。


 ともあれ、とにかく二人を起こすわけにはいかない。

 そー……っと、身を起こさねば。マッスルコントロールを意識するのだ。

 筋繊維一本一本に神経を通すように、全神経を筋肉の微細な動きに集中させる。


「……よし、完璧だ……!」


 俺は無事に二人を起こさぬままその拘束から脱することができた。

 あまりに完璧すぎる脱出劇に思わず声が漏れてしまったほどだ。


 立ち上がってソフィアが寝ていたベッドのほうを見やると、すでに彼女も起きてどこかに出かけているようだった。

 そもそも何時くらいなのだろう。時計がないので時刻も分からない。


 色々と買い出しに行く必要があるな――。

 そんなことを考えながら、俺は足音を立てないようにゆっくりと借家の外に出た。


「あ、コーチぃ……おはようございますぅ……」


 ソフィアは借家のすぐ外にいた。

 どうやらストレッチのような運動をしている真っ最中のようだ。


 というか、その動きから見るに『ラジオ体操』をしているらしい。

 かつて俺がいた世界では誰もが知っている定番のストレッチ運動だ。

 実は以前に野営地で一晩を過ごしたとき、軽い運動の一環として一通りの動きを指導したことがあったのだ。


 さすがにいつもの外套では動きづらいからか、上着は短めのケープに変わっており、露出を少しでも抑えるためか腰には前垂れを着けている。

 とはいえ、結果的に昨日までの格好より視界に入る肌面積が増えているので、少し目のやり場に困る――と思っていたが、そこで重大なことに気がついた。


 明らかに身体のサイズが小さくなっている。

 もちろん横幅的な意味でだ。


 かつて俺が生きていた世界でいうところの力士がこれまでの彼女のサイズ感だとしたら、今はもう平均的なプロレスラーくらいまでサイズダウンしているのだ。

 まだ重量にして100kg以上はあるだろうが、出会ったころと比較して50kg以上は落ちているのではなかろうか。


 異常な減量速度だ。だが、ソフィア自身は顔色もよく健康そうに見える。


「今日は何だか朝から身体が軽い感じがしたのでぇ……ちょっと村の中をぐるっと散歩してきたんですぅ……」


 『ラジオ体操』の動きを続けながらソフィアが言う。


 なんと、すでにウォーキングまでしてきたということか。

 おそらく無自覚にやっているのだろうが、起き抜けの軽い有酸素運動は減量法の中でも最も定番の手法である。

 俺もボディビル大会の直前――いよいよ食事制限だけでは絞れなくなってきた減量末期などは、朝食を摂る前に小一時間ほど自宅の近くを散歩していたものだ。


 しかし、彼女は気づいているのだろうか。

 自分自身の身体がものすごいスピードで変化しているという事実に。


「ソフィア、起きてから何処かで鏡は見たか?」

「いえ、まだ見てないですけどぉ……何か変なものでもついてますかぁ……?」

「よし、今日は鏡を買いに行こう。あと、ベッドもな」


 体操を続けるソフィアを見守りながら、俺はうんうんと一人で頷いていた。


 この村には家具を専門に扱うような店はないが、その代わり鍛冶職人をしているドワーフの工房がある。

 店主は大工仕事も引き受けているため、建築関係の仕事が入ったときはあまり取り合ってくれないが、普段は気ままに鉄や石をいじっている気のいいドワーフの老人だ。

 顔なじみでもあるし、鏡やベッドくらいは頼めばすぐに用立ててくれるだろう。


 ソフィアも今の自分の姿を見れば、きっとさらにやる気を出すに違いない。

 ダイエットや筋トレを継続する最も重要なポイントは、変化を実感することだ。


 それは、言うなれば成功体験と表現することもできるだろう。

 その成功体験がやる気を増進させ、さらに新たな成功体験へと導いていく。

 まさに正のスパイラルだ。その連環が、まさにダイエット完遂の鍵といえよう。


 筋トレに関しては終わりがない沼のようなものなので、また別の話としておく。


「こんなところでなにしてんの……ふあぁ……」


 そうこうしていると、借家の中から寝ぼけ眼のラシェルが出てきた。


「ていうか、今何時?」

「分からん」

「たぶん、十時くらいだな……ふあぁ……」


 ラシェルと同じようなあくびをしながら、今度はシエラが出てくる。

 ライカントロープの特性なのか、彼女は時計がなくても時刻の把握ができるらしい。


 十時という時刻が確かなら、そろそろ村にある様々な店の開店時間である。

 みんなも起きてきたところだし、何処かに朝食を食べに行ってもいいし、先ほど計画したようにドワーフの工房を訪れてもいい。


「ていうか、牛乳がどうとか言ってなかった?」


 ラシェルに言われてハッとする。


 そうだ。牛乳だ。

 そもそも俺は牛乳を得るために昨夜は大立ち回りをしたのではなかったか。


 そうと決まれば、まずは牧場に向かおう。

 どうせならそこで朝食の材料を買いそろえてもいい。時間的には朝食というより早めの昼食といった感じになりそうではあるが。


「あれ、ソフィア、あんた、またちょっと痩せた?」

「ほ、本当ですかぁ!? あああ、鏡、鏡が見たいですぅ!」


 このやりとり、確か昨日もあったな。

 というか、ラシェルはさすがというか、このあたりの変化によく気づく。


 しかし、一日単位でこの変化ともなると、一週間もすれば本当に元のエルフらしい体型に戻っている可能性すらある。

 これがソフィアの種族的な特性によるものなのか、他に何か理由があるのかは気になるところではあった。理屈で考えればありえないことが起こっているのは間違いないのだ。


 ともあれ、俺たちは借家に戻って出かける準備をすると、一同揃ってプラネット牧場へと向かうことにした。


 牧場には販売所として使われている建物があり、日中のこの時間帯はだいたいマリーベルが店番をしていたという記憶がある。


「おー! キョウスケか! よくきたなー!」


 建物の中に入るなり、マリーベルがこちらに気づいて声をかけてきた。


 販売所の中にはそこかしこに様々な棚が並べられており、とれたての卵や搾りたての牛乳の他、チーズやヨーグルトといった加工品も陳列されている。

 肉類の販売もしているが、プラネット牧場のメインは酪農であり、常に精肉の販売があるわけではない。メインは腸詰や塩漬け肉などの加工肉になる。


「昨日はありがとなー! 狼の声が聞こえなくなったおかげで、牛たちもぐっすり眠れたみたいだ! まだ乳の出は戻ってないが、みんないつもよりだいぶ元気になってたぞー!」


 カウンター越しにマリーベルが礼を言ってくる。

 後ろに控えていたシエラが事情を察して少し罰の悪そうな顔をしていたが、まあ彼女が気に病む必要はないだろう。状況的にあれはあれで仕方がなかったのだ。


「それはよかった。ところで、例の話だが……」


 俺はカウンターまで歩いていくと、マリーベルにここの牛乳と卵を定期購入させてほしいという要望を伝えた。

 それと、鶏を絞めた際は皮を剥いだ胸肉を譲ってもらえるとありがたいという件についても伝えておく。ちょっと我儘な要望だったかもしれないが。


「そんなことでよければ、いくらでも協力するぞ! 肉が欲しいなら、羊の肉はどうだ? うちは羊の肉ならそれなりに用意できるぞー!」


 羊肉か。確かに羊肉も筋肉には良いという。

 脂質が少なく、その上で他の肉には含まれていないアミノ酸が豊富だったはずだ。

 取引価格次第にはなってくるが、検討の余地はあるかもしれない。


 俺たちはミルク缶二つ分の牛乳と木箱一個分の鶏卵を売ってもらうと、借りた荷台に積み込んで、今度は生鮮品を売っている市場に向かった。


 市場は村の中央にある広場で開かれており、主に午前中からお昼過ぎまでの間、それぞれの家庭でとれた青果物やこのあたりの河川でとれた魚類などが売買されている。


 俺は市場をぐるりと見渡して果物を販売している屋台を見つけると、店主に言ってレモンをあるだけ譲ってもらった。


「こんなに大量のレモン、どうするつもり?」


 大量のレモンを荷袋に詰めながら、ラシェルが訝しげに訊いてくる。


「これと牛乳でホエーを作るんだ」

「ほえー?」


 ホエーというのは、牛乳に含まれるタンパク質の一種だ。

 俺がかつていた世界では、そのホエーを粉末にしたプロテインパウダーと呼ばれるものが一般に流通しており、トレーニーたちの間で愛用されていたものである。


 さすがにこの世界でホエーを粉末にすることは難しいだろうが、ホエー自体はチーズを作る過程で必ず精製――というより分離されるものだから、入手可能なはずだ。

 そして、そのチーズ自体も実はレモン果汁さえあれば簡単に作ることができる。


 それから俺たちは今夜の夕食に使えそうな食材を適当に買い足すと、市場をあとにして今度は雑貨屋に向かった。

 出来たてのパンを売っている屋台の前で、彫像のように動かなくなっているソフィアを三人がかりで引きずりながら――。

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